死線を越えて
本来オークは強力な魔物には分類されない。
体格こそ並の魔物よりは目を張るが、対処が困難かと聞かれたら誰もが首を振る。動きは早々に読めるし、知能も高くない。成り立ての冒険者でも経験を積めば良い運動相手になるくらいの認識である。
例えるならゴブリンと戦っている感覚だろう。何十匹と群れで襲われれば手こずるかもしれないが、一対一で戦える状況を作れば、絶好の経験値稼ぎにしかならない。
しかしそれは普通のオークだったらの話である。
何しろ此処は危険区域。一般冒険者は近寄りもせず、この森全体を覆う陰鬱な雰囲気に目を逸らす。彼らは知っているのだ。森の地面からか、木々から発せられているのか分からないが、目には見えない特殊な光がここに棲む生物に干渉し、凶暴な外見と強靭な力を形成していることを。
それはほぼドーピングに近い。元々持っていた性能を強引に後押しして、無理やり強化を行っている。さらに不思議なことに、これは魔物にしか適用されない。森の特性を知って、ここに入れば楽に強くなれると勘違いした多くの人間たちが半殺しになって恥をかいたのはそう遠い話ではない。
この特異性により、この森は危険な魔物が蔓延る場所になってしまったのだ。ハルトは知る由もないが、これまで戦ってきた魔物にもそれなりに危険な相手がいたが、充分に観察して最善の行動を取っていた彼にしてみたら、それほど脅威にはなっていなかった。
しかし、目の前にいるコイツは違う。かつて読んだ図鑑に記載されているよりも格別にでかい。こちらの動向を待っているのか、ジロリと品定めしているような目つきで見ていた。
紛れもなく特異体––––これもハルトは知る由もないのだが、ベテラン冒険者でも確実に手を焼くとされる、通常のオークより数段強化された最強クラスのモンスターだった。
「……」
ハルトは自分が取るべき行動について考えていた。
すぐに思い付いたのは二択。戦闘か逃走だ。実行したいのは勿論、逃走だった。明らかに只ならぬオーラを醸し出している化け物。ハルトも身体能力には自信があるが、果たしてそれが通用する相手なのか分からない。恐らく通用しないだろう。拳が当たりはしても何百発と喰らわせなければ効果がないと感じた。
ならば切り札である煌力を使うのはどうか。しかしこれも微妙だった。何度も何度も練習しているのだが、一向に上達しない。イメージは完璧なのに理想の威力に達しない。とても攻撃手段には用いられないので即座に却下した。
となれば、やはり逃走しかない。三十六計逃げるに如かず。そもそもまともに戦ってやる義理はない。こちらは何もしていないし、命の危険なのだからさっさとこの場から離れればそれで済む話だった。
…相手が逃してくれるのなら、だが。
その存在感に気圧されて一歩後ずさる。そしてオークはその動きを見逃さなかった。大きく息を吸うと両足に力を込めて、立ち幅跳びの如く跳躍した。そのままハルト目掛けて奇襲をかける。右手に持った棍棒を大きく振り上げて、着地と同時に振り下ろす魂胆だった。
ハルトは覚悟を決める。今背を向けて逃げ出しても、あっさりと追いつかれて殺される未来が訪れるだけだ。であれば何かしら足止めして、自分が逃げる時間を作るのが最善だと判断した。
オークがぐんぐんと近付いてくる。かなり速いが目で捉えられないほどではない。初撃は絶対に見切れる自信がある。確実に自分の間合いで攻撃するため、ハルトはギリギリまで力を溜めた。
そして棍棒が振り下ろされた。頭にぶち当たる寸前、ハルトは横に飛んで回避する。
受け止めるという選択肢はない。こんな巨体の一撃など、どれほどの威力か容易に想像できたし、仮に受けきれたとしても五体満足でいれるか見当がつかなかった。
オークの一撃が空振り、代わりに地面が大きく割れる。ハルトは体制を整えて力強く飛び上がった。そのまま回転しながらオークの顔面に蹴りを入れる。
あの分厚く筋肉質な身体に打撃は意味がないと結論付けた結果、怯ませるぐらいなら効果があると予測して攻撃する。そのやたら目立つ牙ごとへし折ってやろうと、身体中の力を込めた。
どうだ、とオークの様子を伺う。動きが止まったのも束の間、蹴りを入れた足を掴まれ、ブンブンと振り回され真っ直ぐ投げ飛ばされた。全く効いてないと確認するまでもなく、木々を巻き込みながら数十メートル果てまで吹っ飛んだ。
「駄目かぁ…だけど」
こちらの攻撃は失敗した。それは認めざるを得ない。相手にはかすり傷すら付けることができず、自分は深手を負う結果になった。
しかし、ハルトの目論見が失敗になった訳ではない。オークが投げ飛ばしてくれたお陰で、かなり距離を取ることが出来た。先ほど見せた速度なら、自分の足でも距離を離して逃げ切れることができる。初めから逃走する算段をつけて戦っていたため、足を掴まれ投げ飛ばされるのも予想の内だった。
さらに森林の多いところに投げ飛ばしてくれた。奴にとって木なんか薙ぎ倒すだけだろうが、ここまで多いと鬱陶しく感じるだろう。自然の障害物がハルトに辿り着く道を阻害していた。
身体は凄まじく重いがこの機を逃す訳にはいかない。よろめきながらも立ち上がり、この場から離れるべく走り出す。
念のため、オークの方を振り返りどうしているか確認して––––絶句した。
「……っ!?」
驚きのあまり目を見開く。
オークが近づいている。それはいい。向こうからしてみれば自分は格好の標的で、殺戮の対象なのだから追ってくるのは至極当然と言える。
問題なのは、その速度だ。最初に対峙した時の跳躍とは比にならない。両足の筋肉が見るからに漲り、それが限界まで達すると弾け飛んだ。
例えるならそれはジェット噴射。肉の塊をした砲弾が彗星のように対象に向かって突き進んでいく。周りの木々を次々と薙ぎ倒して数十メートルの距離など、瞬く間に縮めれた。
甘かった、とハルトは唇を噛む。あのオークはまだ余力を残していた。逃走するのも読まれていて、わざと投げ飛ばしたのだ。ハルトの油断を誘い、息の根を止めるため、あえて全力の速度を見せなかった。この化け物は、獲物を仕留めるに必要な知能を持っている…!
後悔は一瞬だった。即座に思考を切り替えて取るべき手段を模索する。このままでは一歩的に嬲り殺されるだけだと理解していた。
そしてその巨体が肉薄する。振り上げられた二度目の棍棒は、一度目よりもやけに大きく映る。それは彼の思い込みだったが、ある意味では正鵠を射ていた。
叩きつけられた一撃を紙一重で躱す。攻撃に転ずるなら今しかないが、既に顔面への蹴りは効果がないとわかっており、現時点における自分の技でどこに攻撃すれば良いのか、ハルトは答えを見出せなかった。
何より、ハルトは攻撃など出来なかった。地面に叩きつけられた棍棒から、眩い光が溢れ出す。森から発せられているのではない。これはまるで、予め棍棒に何か力を込めていたようだった。
…武器に魔力を込めて、絶大な強化を施す。到底オークがやれるものではないが、現実としてそれは行われている。溢れ出した光は周囲の者を巻き込み、爆発した。
「がっ……!」
その衝撃をハルトは全身で浴びた。
大地と言う名の凶器に叩きつけられ、臓腑に響き渡るような感覚に顔を引攣らせる。全身がほんの数秒、鎖に縛り付けられたように凝固した。
あまりにも鋭く、強烈な痛みが全身に襲い掛かってハルトを攻め立てる。思考が纏まらない。体の自由が効かず、その場に倒れ伏すしかなかった。
「ぐ、うぅ……!」
それでも。それでもハルトは歯を食いしばり顔を上げ、立ち上がるために両足を動かす。体力は既に限界に近い。もう一度喰らえば間違いなく死ぬ。だから少しでも距離を取るべきだと身体が判断した。
口から血を吐き出す。なんて事はない。意識はまだある。無理をすれば体は動く。動くのならば次の行動が取れる。さあ、動け–––––。
ドスン、と大きな足音が鳴った。
僅か数メートル先で、オークがこちらを見下ろしながら歩いている。迫り来る巨体。一切の慈悲などないように、握る棍棒に薄紫の光を込めていく。着実に間合いを詰めて、脳天目掛けて振り下ろすために。
ハルトは戦慄した。ソフィアとの訓練では体験することのなかった、自分が死に至る恐怖。言葉にできない悪寒が全身を包み、搦めとられたように硬直する。立ち上がるための両足も、力が上手く入らない。
「こんな、ところで…!」
かくして、その棍棒は振り下ろされた。獲物を砕き、甚振り、殺すために力強くハルトに向けて叩きつけられる。彼はただ、静かにそれを受け入れた––––。




