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第八章 訣別

 法案採決前夜。



 東京の議員会館は、妙に静まり返っていた。


 嵐の前触れというよりは、すでにすべてが終わってしまった後のような、酷く冷めた静けさが満ちている。


 不意に事務所のドアが開いた。遥だった。その目は、硬く強張っている。


「やめて」


 その一言は、あまりにも普通だった。


 政治の大義でも未来の展望でもない、ただの、切実な願い。


「私のいる地域だけでも、対象から外して」


 遥の声は、感情の震えを必死に押し殺していた。


「できない」


 市丸の声は、自分でも驚くほど冷たく、硬く響いた。


「なんで?」


「一つを許せば、すべてが崩れる。例外を作れば、制度そのものが機能しなくなる」


 遥は笑った。乾いた、拒絶の笑いだった。


「その制度のために、人を切り捨てるの?」


 市丸は、間を置かずに返した。


「違う。人を残すために、今、切る」


「同じでしょ」


 市丸の爪が、手のひらに深く食い込んだ。鈍い痛みだけが、激しい動揺の中で、今の自分を辛うじてこの場に繋ぎ止めている。


(嫌われていい。憎まれていい。……ただ、生きてさえいてくれれば)



 遥が、沈黙を破るように一歩、デスクへと足を進めた。


「ねえ、ちゃんと見てる?」


 その言葉に、市丸の視線が初めて揺れた。


「ここにいる人たちの顔を、見て言ってる?」


 見ていない。見てしまえば、覚悟が鈍ることを知っているからだ。


「田中さん、昨日も病院に来たよ」


 遥は続ける。その声は少し、かすれていた。


「膝が痛くて、もう自転車じゃ来られないかもしれないって。それでもね、『ここに来ると安心するんだ』って笑ってた」


 市丸は目を伏せ、ただ黙って耐えた。


「その安心を奪って、あの人たちはどこへ行けばいいの」


 遥の視線が、市丸の奥深くを射抜く。


「未来では、どうだったの?」


 不意に、最も触れられたくない核心を突かれた。


「その選択は、本当に正しかったの?」


 市丸は答えられなかった。


 答えを知らないのではない。かつて持っていたはずの「正解」が、この世界ではもう、何の役にも立たないことを知っているからだ。


「……分からない」


 (かす)れた一言に、遥の表情が痛ましげに崩れた。


「じゃあ、なんでやるのよ」


 二人の間で、何かが決定的に壊れていく音がした。


「選ばなかった側の結果を、俺は知っているからだ」


「でも、これは違う未来なんでしょ」


 最も痛いところを突かれてもなお、市丸は最後の一線を譲らなかった。


「それでも、向かうべき方向は同じだ」


 遥の声から、怒りの熱が引いた。残ったのは、もっと静かな問いだった。


「誰を助けたいの?」


 市丸は、口を開かなかった。


 向けられた真っ直ぐな視線から、市丸は逃げるように目をそらす。


 やがて遥は、拒絶を刻み込むように、ほんの少しだけ顎を引いた。理解でも諦めでもなく、明確に線を引いたという合図だった。


「……もう、帰ってこなくていい」


 振り返らずに、ただ背中で告げた。


「あなたはもう、そっち側の人だから」


 ドアが閉まる。その音が、やけに大きく部屋に響き渡った。



 市丸は、初めて革張りの椅子に深く身体を沈めた。


 だが、頑なに目は閉じなかった。閉じれば、暗闇の中に選択の迷いが浮かび上がる。それだけは、自分に許さなかった。


 机の上に置いた手が、細かく震えていた。


 予測が外れたあの夜以来、二度目の震えだった。


        ◆


 同じ頃、遥は夜行バスの窓に額を預けていた。


 遠ざかる東京の街灯りを眺めながら、ただ暗い高速道路を地元へと引き返していく。


 翌朝、遥はいつもより三十分早く、病院の休憩室にいた。


 白衣に着替えようとして、指先が強張り、ボタンが上手くかからないことに気づく。


 この手の震えが、兄への怒りなのか、それとも悲しみなのか、自分でも分からなかった。


 外来が始まるまでのわずかな時間、遥は一人、窓の外をじっと見つめていた。


 朝霧(あさぎり)の向こうに、いつもと変わらない山の輪郭が、静かに浮かび上がっている。


(ここにいる間は、私はここの人だ)


 深く息を吸い込み、そう思った。


 それ以上でも、それ以下でもなかった。

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