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第七章 歩かせる者

 市丸は、その動きを指示していない。だが、止めもしなかった。


 中央から地方へ、という波は、市丸の名のもとに広がっていた。彼が号令をかけたわけではない。ただ、彼が「正しい」と認めるであろう判断を、信奉者たちが先回りして下していくのだ。



 その急先鋒に、桐生という若い地方議員がいた。


 市丸の演説に心酔し、その言葉を一言一句(そら)んじている男だった。「市丸先生なら、必ずこうする」 ―― それが桐生の口癖であり、行動のすべての指針だった。データを掲げ、聖域なき統合を訴え、躊躇する古参議員を「あなたは未来を見ていない」と一蹴する。その姿は、確かにかつての市丸を思わせた。


 桐生の主導により、ある限界地域の切り離しが強行された。世間はそれを「市丸の手法を忠実に踏襲した結果だ」と評した。


 物流が滞り、薬の配送が半日遅れた。急患の搬送が間に合わない事態も起きた。致命的な大事故ではない。だが、市丸の排斥を狙う勢力にとっては、格好の決定打となった。


 SNSは瞬く間に炎上し、悪意を(はら)んだ切り抜き動画が拡散されていく。その中には、涙を流しながら絶叫する老人の姿があった。


「あんたらは、俺たちを数字でしか見てねえ」


 むき出しの憎悪は、桐生を飛び越え、真っ直ぐに市丸へと向いていた。彼の名が、あの冷徹な判断を正当化する免罪符にされていた。


 画面を閉じようとした市丸の目に、桐生から届いた一通のメッセージが映った。


「先生のお考えを、私が現場で実現してみせました」


 そこには誇りと、一点の曇りもない全幅の信頼が満ちていた。市丸は、その無邪気な一文をしばらく見つめていた。


 桐生には迷いがなかった。彼にとってこれは「正義の執行」であり、讃えられるべき英断なのだ。だからこそ、その歩みは速かった。かつての自分よりも、ずっと。


 市丸は、静かに画面を閉じた。


 桐生を責めることは、できなかった。


 あの会見で、自分の頭で考えてくれと頭を下げたはずだった。なのに、人は答えを欲しがる。市丸という名は、いつのまにか「考えなくて済むための合図」に変わっていた。


 自分が壊そうとしたのは、誰も考えようとしない空気だったはずだ。それを、別の形で作り直してしまった。


 元の歴史では、こんな激しい反発すら起きなかった。地方はただ声もなく、緩やかに死んでいったのだ。いや ―― 自分がそれを見ていなかっただけで、あの崩壊の裏でも、同じ悲鳴が響いていたのだろうか。


        ◆


 その夜、高瀬から呼び出しがあった。


 古い料亭の一室。高瀬は、一人で酒を飲んでいた。


「珍しいですね」


 市丸が座ると、高瀬は少し笑った。


「君にだけは、言われたくないな」


 わずかに浮いた笑い声が、古い部屋の畳に吸い込まれて消える。


 あとに残ったのは、同じ深さの孤独を知る者同士にしか流れない、濃密な静寂だった。高瀬は手元の盃を見つめたまま、すぐには次の言葉を探そうとしない。そこにあるのは敵への警戒ではなく、これから相手の傷口に触れねばならない者の、静かな逡巡(しゅんじゅん)だった。


 やがて、いたわるような間を置いて、静かに市丸を見た。


「苦しいか」


 市丸は答えなかった。


 高瀬は盃を回しながら、独り言のように続けた。


「改革はな。成功しても恨まれる。切られた側に、こちらの正しさなど関係ないからだ」


 その言葉の重さに潰されまいとするように、市丸は低く声を絞り出した。


「全部を一つで支える国は、その一つが倒れたら、何も残らない」


「……支えをなくす気か」


「支えがなくても、個々が立てるようにするんです」



 高瀬はしばらく黙っていたが、やがて、静かに言った。


「君の言うことは、正しいのだろう。あのままでは、いずれ国ごと壊れていた。それは私も分かっている」


 市丸は、顔を上げた。


 高瀬の表情は穏やかだった。責める声ではない。長く組織を見続けた人間の、諦念(ていねん)に近い疲れが滲んでいた。


「君が、ただ壊したいだけの男でないことは分かっている。削った先に何を建てるつもりかも、な」


「だがな。人は、長い時間をかけて、寄りかかる場所を覚える。その杖を、正しいからと一度に折れば、立てなくなる者が必ず出る。君は、誰もが自分で立つ国を作ろうとしている。だが、立てない者のことは、誰が見るんだ」


 市丸の喉が、詰まった。


「君は優秀だ。だから、正しい道を見つける」


 そこで一度、言葉を止めた。


「だが、人はな。正しい道ではなく、歩ける道しか進めない」


 市丸は、今度こそ言葉を失った。


 窓の外で、激しい雨音が響いていた。市丸は、その言葉を頭の中で何度も反芻した。



 歩ける道。


 切り捨てられていく地域の人々の顔が、浮かんだ。怒鳴っていた老人の声が、耳の奥で蘇る。


 彼らはみな、自分が歩かせようとして、歩けなかった人々だった。



 高瀬は、ゆっくりと立ち上がった。


「答えは今すぐ出さなくていい。君なら、その先を見つけられると信じているから、言っている」


 襖が静かに閉まる。


 市丸は、ぽつんと残された盃を、ただ見つめていた。

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