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第九章 採決

 当日。



 国会は、隙間なく埋まっていた。


 張り詰めた議場だけでなく、厚い壁の向こう側 ―― この国のあらゆる場所で、人々が息を詰めてテレビや画面を凝視していることを、市丸は冷徹なデータとして知っていた。人々の無関心は、もう完全に終わっていた。



「これより、採決に入ります」


 議長の声が響く。


 市丸は席に座ったまま、虚空を睨んでいた。見るべきものは、すでに見終えている。未来の景色ではない。昨夜、背を向けたまま去っていった遥の後ろ姿だ。


(ここで揺れたら、全部崩れる)


 心臓の音を抑え込むように、自分に言い聞かせる。


 賛成の白、反対の黒。議員たちの列が演壇へと進み、その意思が木札の音へと変換されていく。


 残り数票、下馬評は完全に割れていた。



 市丸の名が議場に響き、彼は立ち上がった。演壇への歩み。頭の中に、いくつもの別の未来が明滅した。ここで折れる未来。修正案を受け入れる未来。誰かの一部を救い、守る未来。どれも、魅力的だった。どれも、楽になれた。そして ―― どれも、いずれ等しく崩壊する未来だった。


 市丸は深く息を吐き出し、手にした白い木札を、迷わず箱へと落とした。


「賛成」


 声にすらならない呟きだった。


 自席に戻り、張り詰めた静寂の中で集計を待つ。弾丸が着弾するまでの、永遠のような数分間。やがて、最終結果が読み上げられた。


「よって、本案は可決されました」


 一瞬の空白。その直後、濁流のように音が戻ってきた。湧き上がる拍手と怒号。だが市丸の鼓膜には、もう何も届かなかった。



(切った)



 国ではない。制度でもない。自分をこれまで繋ぎ止めていた、最も大切な何かを、今、この手で切り離した。


 議場を出た後、市丸はトイレの個室に駆け込んだ。内鍵をかけ、冷たい大理石の壁に両手をつく。しばらくの間、肩を震わせたまま動けなかった。誰にも見せない、彼だけの時間だった。


        ◆


 議場を後にした高瀬は、ロビーの隅に一人で立っていた。


 駆け寄ってくる記者たちを片手で制したが、言葉は何も出てこなかった。


 黒い木札を投じたことに、悔いはなかった。それが長年の信念であり、切り捨てられる人々に対する政治家としての意地だった。だが、可決された議場から響く喧騒を聞きながら、高瀬の胸中にあったのは敗北の怒りではなかった。


 市丸の言う通り、これまでの構造はとうに限界を迎えていたのかもしれない。だが、だからといって、これから杖を奪われた人々を誰が見るというのか。市丸は本当に、そのすべての地獄を背負って歩き続けるつもりなのか。



 その夜、高瀬は自宅の書斎で、亡き妻の写真の前に座っていた。


「あいつは、本当に地獄へ行ってしまったよ」


 暗い部屋に、返事はない。


 ただ、写真の中の妻は、すべてを知っているかのように、どこか哀しく、優しく笑っているように見えた。

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