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第十章 余波

 法案成立後。



 数字は劇的に改善した。


 財政は持ち直し、医療の効率は上がり、〝全体として〟の救済数は確かに増えた。


 だが同時に ―― 地図の上から静かに消えていく場所があった。遥の働いていた地域も、その一つだった。


 政府の報告書には、ただ一行、こう記されている。


「統合により、地域の持続可能性を確保」


 間違ってはいない。ただ、それだけだった。



 遥は、辞表を出すのではなく、別の地方への転勤を申し出た。それが、彼女の選択だった。逃げるのではなく、戦う場所を変えて医療を続けるという、静かな意思表示だった。


 引越しの朝、彼女は病院の前に一度だけ立ち止まった。


 閉院まで、あと二週間。まだ外来の灯りはついている。自動ドアの向こうに、白衣を着た同僚の姿が見えた。


 ガラス越しに顔を見合わせ、軽く手を振る。それだけで、もう十分だった。


        ◆


 それから数ヶ月後。完全に役割を終えたその地域を、市丸は一度だけ訪れた。周囲の反対や秘書の手配をすべて振り切り、お忍びでレンタカーを走らせてやってきたのだ。


 閉鎖された病院。雑草の伸びた駐車場。誰も見なくなった掲示板の隅に、古い当直表が色褪せたまま残されていた。


 そこには、名前が残っていた。


 市丸は、しばらくその名前を見つめていた。


 消されていない。


 それは、彼がこれまで〝数字〟として処理してきた全体の中に、確かに名前を持って生きていた個人がいたという、拒めない事実だった。まだ、そこに彼らが〝いた〟証拠。


 だが、周囲を見渡しても、もう誰もいない。



 背後から、不意に声がした。


「視察ですか」


 振り返ると、年配の女性が立っていた。


 白髪を後ろで小さく束ね、履き古した厚底の運動靴を履いている。手には、使い古された紙袋を()げていた。


「……市丸さん、ですよね」


 問いの形をしていたが、確信に満ちていた。


「はい」


「佐藤といいます。ここで三十二年、看護師をしていました」


 三十二年。市丸はその数字を、胸の奥で静かに転がした。この建物が建ったのが、ちょうどそれくらい前のはずだ。この女性は、この場所の始まりから終わりまでを、ずっと見届けてきたのだ。


「ここ、なくなって正しかったんですよね」


 女性の眼差しは、静かだった。市丸は喉の奥に詰まるものを微かに感じながら、答えた。


「全体としては、必要な判断でした」


 女性は小さく頷いた。


「そうですよね」


 二人の間に、乾いた風が吹き抜ける。彼女は、少しだけ寂しそうに笑った。


「でもね。ここで助かった人も、確実にいたんですよ」


 その言葉に、市丸を責める響きは一切なかった。ただの、消せない事実の提示だった。だからこそ、市丸は何も返せなかった。


 女性はしばらくそこに佇んでいたが、やがて掲示板の前に歩み寄った。風で剥がれかかっていた古い当直表を、愛おしむように静かに手で押さえ、持参したテープで丁寧に留め直した。几帳面に、何度も指先で(なら)す。もう誰もこの予定を見る者はいないと、分かっていても。


「では」


 それだけ言い残し、彼女は去っていった。


 歩き出すたび、提げた紙袋の底から、かすかにカサリと音が響いた。中に入っていたのは、瑞々しい花だった。閉ざされた病院に、彼女が個人的に持ってきた手向けの花。


 市丸は、その小さくなっていく背中が見えなくなるまで、一歩も動けなかった。



 帰り道、夕闇に包まれる国道を走らせていると、高瀬から電話が入った。


「今、どこにいる」


 高瀬の声だった。市丸は少しの間を置いて、答えた。


「現場です」


 受話器の向こうで、わずかな沈黙が流れた。


 責めも、励ましもなかった。ただ、市丸が一人で背負う痛みに、これ以上の余計な言葉を重ねまいとするような、静かで厳かな間だった。


「そうか」


 それだけで、ブツリと電話は切れた。



 高瀬が何を言いたかったのか、市丸には分からなかった。確かめるべき用件など、最初からなかったのかもしれない。


 だが、すべてを切り捨て、誰からも拒まれて完全に一人になったこの道の上で、かつて最も激しく対立した男が、ただ一度だけ繋いできた無用の糸。言葉の内容ではなく、ただ電話が鳴ったというその事実だけが、冷え切った車内に静かに満ちていった。


 それが、今の市丸に残された、数少ない人間としての足場だった。


 市丸はハザードランプを点け、路肩に車を止めた。


 ハンドルを握ったまま、しばらく動けなかった。


 フロントガラスの向こうで、ヘッドライトが誰もいない暗い夜道を、どこまでも真っ直ぐに照らし続けていた。

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