最終章 消失
最初の異変は、小さな違和感だった。
資料の一部が、思い出せない。未来の細部が、指の隙間からこぼれ落ちる砂のように忘却の彼方へと抜け落ちていく。
「……来たか」
予想はしていた。未来が変わってしまえば、元の記憶は因果を失い、成立しなくなる。
だが、それだけではなかった。過去さえもが、音を立てて揺らぎ始める。自分がここに至るまでの連続性が、急速に薄れていく。
「俺は ―― 」
言葉が、続かなかった。
ある日、鏡を見て、市丸は激しい眩暈を覚えた。見慣れているはずの自分の顔に、確信が持てないのだ。
(どこから来た?)
答えは知っているはずだった。二一〇五年。だが、その光景はすでに酷くぼやけている。白い部屋、無機質な装置、誰かの声。なぞろうとするほどに、その手応えが遠ざかっていく。
不思議だった。元いた未来が片端から溶けていくのに、入れ替わるように、この時代の記憶がひとつ、鮮やかさを増して立ち上がってくる。
遥の声だ。
「誰を助けたいの?」
それだけが、恐ろしいほど鮮明だった。
市丸は机にきつく手をついた。
「……間違ってない」
声を出す。自分をこの世界に繋ぎ止めるために。だが、返事はない。当然だった。問うた相手は、もうここにはいない。その問いに、最初から正解などないのだ。あるのは、自分が下した選択だけ。
そして ―― その選択をした〝自分〟という存在が、いま、世界から消えようとしていた。
薄れゆく意識の淵で、彼は最後に一つだけ理解する。
(これは、対価だ)
未来を変えた対価。誰かを切り捨てた対価。割り切れない問いをこの世界に残した、その対価。
自分が、あらゆる記録からも、人々の記憶からも外れていく。
(等価交換だ。悪い取引ではない)
視界が完全に白濁する直前、脳裏にひとつの像を結んだ。
遥が、どこか知らない病院の廊下を歩いている。白衣のポケットに手を入れ、誰かに向かって穏やかに話しかけながら。その顔は、かつて市丸が知っていたものとは、少しだけ違っていた。
酷く疲れていた。だが、決して折れてはいなかった。
(生きていてくれた)
音が遠ざかっていく。それでも最後まで消えずに残ったのは、確信ではなかった。ただの、強固な意思だった。
(もう、それだけで)
その一点だけを世界の中心に突き刺して、市丸拓己という存在は、光の中に溶けるようにして消滅した。
◆
翌朝、最初にその異変に気づいたのは、高瀬だった。
議員会館の廊下で、市丸の事務所の前を通りかかったときだ。
扉は閉まっていた。それ自体は珍しくもない。だが、そこにあるはずの表札が ―― 消えていた。枠だけが虚しく残り、名前が書かれていたはずの部分が、まるで最初からそこに何もなかったかのように、ただ白かった。
通りかかったスタッフを、高瀬は呼び止めた。
「市丸議員は?」
相手は、心底怪訝そうな顔をした。
「市丸……ですか? どこの会派の先生でしょう」
高瀬は、それ以上は聞かなかった。聞いても、これ以上の答えは出ないと分かっていた。
ただ、無人の廊下に一人立ち尽くしたまま、窓の外に目をやった。東京の空は、いつもと変わらず灰色だった。
(消えた)
その事実だけが、感情の追いつかない頭の中に、冷たく突き刺さった。
悲しむための言葉すら持てない唐突な喪失。だがその奥底には、あの男なら自らが壊した世界の跡から、何一つ求めずに消え去るだろうという、奇妙に冷徹な了解の予感があった。そして何より、世界中で自分だけがその消失を識っているという、身震いするほどの孤独。
それらがすべて、明確な意味に分化しないまま、重たい一つの塊となって高瀬の胸の奥へ沈み込んでいく。
それが何を意味するのか、高瀬には分からなかった。
だが、一つだけ確かなことがあった。あの男は、最後まで自分という大きな壁に、反対し続けられることを望んでいたのだ。自らの大義が暴走し、ただの冷酷な数字に成り下がらないように、自分を、現場の痛みを、必要としていた。
言葉のない、それが彼なりの信頼の形だったのだと、高瀬は思った。
その夜、高瀬は自宅の書斎で、亡き妻の写真を棚から下ろした。手元に引き寄せ、長く見つめる。
―― 本当は、諦めるのが怖いんでしょ。
かつて妻が遺したあの言葉が、ずっと胸の奥の最も深い場所に刺さっていた。
諦めることが怖かった。それは本当だ。だが、この歳になって、ようやく別の意味が見えてくる。自分はずっと、〝守ること〟を諦められなかったのだ。壊すことが、ただ怖かった。
あの男は違った。恐れず壊した。壊して、別のものを残した。そして、自分が壊した跡からも、何一つ求めずに消え去った。
写真の中の妻は、やはり変わらずに笑っていた。
今度は、その笑みの持つ意味が、少しだけ分かった気がした。
高瀬は、その日から一冊の手帳に万年筆を走らせ始めた。
あの男と交わした、すべての対話を。
記録として、ではなく ―― この世界で唯一、彼がそこに〝いた〟証拠を、忘れないために。
だが、忘れまいとする者の手から、それは静かに逃げていった。はじめのうちは、書けた。あの男の名も。それが日を追うごとに、紙の上から薄れていく。インクが褪せたのではない。その二文字のあった場所だけが、まるで最初から何も記されなかったかのように、白く抜け落ちていく。あの男の事務所の、表札がそうであったように。
高瀬はやがて、名を記すのをやめた。名のない対話だけが、紙の上に積もっていった。




