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エンディング 選ぶ国

 数十年後。



 その朝、大地が数十秒揺れた。首都は膝をついたが、国は倒れなかった。


 かつてなら中央の指示を待ってすべてが止まったはずの時間、各地はもう、自らの手で選択を始めていた。立っている点が、倒れた一点を支える。網は、一目を失っても、死ななかった。


 すべてが救われたわけではない。だが、すべてが失われたわけでもなかった。


        ◆


 激震から数時間。ある地方都市で、一人の男が中央の指示を待たずに動いていた。近隣の拠点へ支援を求め、人と薬の流れを組み替えていく。


 若い頃、男は聖域なき統合の急先鋒だった。躊躇する者を「未来を見ていない」と切り捨て、実際に一つの地域を切り離したこともある。あの頃、迷いはなかった。


 だが、今は違う。下す判断の重みに、一瞬、手が止まる。切り捨てた先の惨状を知っているからだ。それでも、彼は決める。迷いながら、決める。


 かつては迷うたび、心の中で「あの人」の名を呼んだ。だが今、その名は思い出せない。残されたのは、誰のものとも知れぬまま胸の底に沈む、ひとつの気配だけ。それが何だったのか、もう確かめようもない。


        ◆


 あの改革の時代について、一つの公的な記録が残っている。かつて統合によって閉鎖された、地方の病院に勤めていた看護師の証言だった。当時を知る数少ない一人として、長い歳月を経てから語ったものだという。


「仕方なかった、とは思います」


 記録された音声には、そのあと、わずかな空白がある。


「でも、切り捨てられる側は、確実にいました」


 それきり、彼女は多くを語らなかった。記録は、その短い証言だけを留めている。


        ◆


 遥は、転勤先の病院で十年という歳月を過ごした。


 山間の小さな地域医療センター。かつて赴任していた場所よりも、さらにこぢんまりとした診療所のような佇まいだった。


 ある日、新しく赴任してきた若い医師が、診察室の椅子に深く寄りかかり、疲れ果てた顔で遥に言った。


「こんな場所、続けられる気がしないです」


 遥は少し考えてから、静かに答えた。


「続けられるかどうかじゃなくて、今日ここに来た人を診るだけですよ」


「それだけでいいんですか」


「それだけでいいです」


 その言葉がどこから湧いて出たのか、遥自身にも分からなかった。ただ、気がつけばそれだけが、彼女の確かな信条になっていた。


 若い医師が部屋を出ていったあと、遥は処方箋の裏紙を手に取り、手持ち無沙汰に鶴を折った。


 昔は、誰かにあげるために折っていた気がする。差し出すと、決まって嬉しそうな顔をする相手がいた。それが誰だったのかは、もう思い出せない。


        ◆


 高瀬康雄は、晩年に一冊の小さな本を書いた。


 それは政治家としての回顧録ではなく、ただ「ある政治家と私の対話」と題された本だった。


 そのなかに、こんな一節が(のこ)されている。


 ―― 彼は私に、反対し続けることを求めた。私はその意味を、長い時間をかけて理解した。正しさだけでは社会は動かない。だが、正しさへの抵抗もまた、社会を守ることがあるのだ。


        ◆


 それからさらに時が流れた、二一〇五年。


 日本史の教科書において、あの転換期に関する記述はわずか数行にすぎない。


「二十一世紀中盤、一人の無名の政治家が日本の構造転換を成し遂げた」


 彼は多くを救い、同時に多くを失わせた。だが確かなのは、その時代を境に、この国が「選ばない国」から「選ぶ国」へと変貌を遂げたことだ。


 当時、民衆はその指導者を「未来を見通す者」と盲信し、その名のもとに苛烈な淘汰を競い合った。歴史はその過熱を、変革に随伴する一筋の影として短く留めている。


 答えを誰かに預けようとする人間の弱さは、その後も消えはしなかった。ただ、それを〝危うさ〟として名指せる程度には、社会は成熟した。


 現代の歴史学において、あの構造転換は一人の天才の(わざ)ではなく、当時の日本人が極限状態で生み出した意志の結晶であると定義されている。中心にいたはずの指導者の名が空白のままであることも、人々は疑問にすら思わない。それを、徹底した無私無欲の象徴として、あるいは自分たちの先祖の姿そのものとして、ごく自然に受け入れている。


        ◆


 無人となった町に、風が吹き抜けていく。


 看板が、かすかに揺れる。


 そこに書かれていたはずの名前は、もう読めない。


 まるで最初から、なかったかのように。

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