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第四章 対立という対話

 やがて、法案が国会に上がった。


 本会議場。高瀬と市丸は、初めて公の場で、文字通り正面から対峙した。


 質問に立った高瀬が、マイクに向かって低く重い声を響かせる。


「急激な改革は、常に弱い人間から壊していく」


 壇上の市丸は、即座に返した。


「何もしない方が、より多くの人間を壊します」


「それは仮定だ」


「いいえ。確定した未来です」


 議場が一瞬、奇妙な静寂に包まれた。データと数字を武器にしてきた男の、あまりにも盲目的な、しかし退路の無い断定。その異様な迫力と狂気的な確信に、ヤジを飛ばそうとしていた周囲の議員たちが、気圧(けお)されたように口を閉ざす。


 だが、高瀬だけは平然とそれを受け止め、声を荒げずにつなげた。


「証明できない未来のために、今を壊すのか?」


 市丸の目に、迷いの色は微塵もなかった。


「今壊さなければ、いずれすべてが壊れます」



 高瀬は、すぐには問いを継がなかった。手元の資料を一枚めくり、顔を上げる。


「では、角度を変えよう」


 声が、わずかに低くなった。


「君は、東京への一極集中こそが国を倒すと言い続けてきた。一つの点にすべてを預ければ、その点が倒れたとき、何もかもが道連れになる、と」


「その通りです」


「では訊く。君のやっている医療の統合は、何だ」


 市丸の眉が、初めて動いた。


「散らばっていたものを、いくつかの点に集める。君はそれを集約と呼ぶ。だが私の目には、縮尺を変えただけの一極集中に見える」


 議場の質が、また変わった。確信に気圧される沈黙ではない。論理が論理を捉えた、張り詰めた静けさだった。


「拠点が一つ止まれば、その地域は丸ごと倒れる。雪が降れば。橋が落ちれば。医師が一人、辞めれば。 ―― 君が憎んだはずの構造を、君は地方で作り直している」


 市丸は答えなかった。否定もしなかった。


 その沈黙が、これまでのどの断定よりも雄弁だった。


「いずれ、どこかで物が止まる」高瀬は静かに言い切った。「君の網が編み上がるより、早く。そのとき、今の私の言葉が正しかったと証明される」


 それは、予測だった。


 未来を知る男に向かって、未来を知らぬ男が放った、ただ一つの予言。


 市丸は、ゆっくりとマイクに口を寄せた。


「形が同じであることは、認めます」


 会場がどよめいた。改革者が、自らの設計の急所を、公の場で認めた。


「ですが、中央と拠点では、倒れ方が違う。中央が倒れれば、すべてが道連れになる。代わりがないからだ。隣の拠点が支え合えるように編めば、一つ欠けても、網そのものは死なない」


 高瀬は、すぐには引かなかった。


「ならば訊くが、なぜ統合だ。中央が支え続ければいい。財源を回し、人を送り、足りないものを補い続ければ、その小さな点も倒れずに済む」


「それが、地方を殺すんです」


 市丸の声が、初めて熱を帯びた。


「支え続ければ、その地域は、支えられることに慣れる。自分で立つ筋肉を失う。交付金が来るから、誰かが決めてくれるから ―― そうやって、決定する力ごと中央に預けてしまう。そして中央が倒れた日、立ち方を忘れた地方には、もう何も残らない」


「依存は、緩慢(かんまん)な死です。私は、地方が自分の足で課題を解けるうちに、その形へ組み替えたい。間に合ううちに」


 高瀬は、しばらく黙っていた。


「その網が、まだ無い」


「だから今、編んでいます」


「編み終わる前に倒れた点の上には、人がいる」


 市丸の指が、演壇の縁を握った。


「知っています」


 その答えは、これまでのどの断定よりも低く、重かった。


「私は、冗長性を消しているのではない。移しているんです。自分では立てない小さな点の、内側から ―― 点と点の、間へ」


 高瀬は、長く市丸を見ていた。


 やがて、ほんの少し息を吐いた。反論ではない。相手の理屈が立っていることを認めた者の、苦い吐息だった。


「立派な理屈だ」


 賞賛ではなかった。


「だが、その間に落ちた者は、君の理屈では拾えん」


 市丸は、それには答えられなかった。


 どちらも嘘を言っていない。どちらもこの国を想っている。だからこそ、二人の正義はあまりにも残酷に噛み合わなかった。



 その夜、高瀬は一人、静まり返った議員会館の廊下を歩いていた。


 ガラス窓の向こうに、きらびやかな東京の夜景が広がっている。


 初めてこのバッジを胸に付けた日、同じ景色を見て「守らなければ」と誓った。今も、その気持ちは変わらない。だが、守ろうとしているものが、すでに変わっているのかもしれない ―― そんな苦い思考が(よぎ)る。



 高瀬はふと、かつての同僚だった田代という男を思い出していた。急進的な改革派の旗手だ。


 二十年前、田代は医療制度の見直しを強硬に推し進め、いくつかの地方病院を統廃合させた。数字の上では完全に正しかった。


 だが後年、高瀬にはその病院が閉鎖された地域を視察する機会があった。そこに残っていたのは、雑草の生い茂る空き地と、移動手段を奪われ取り残された老人たちの姿だった。


 田代は今も「あの決断は正しかった」と傲然(ごうぜん)と言い切る。高瀬はその言葉を否定しない。ただ、肯定もできなかった。


 市丸の主張は、あの頃の田代と酷似している。


 だが、市丸には田代にないものがあった。


 何かを(いた)む、という気配だ。高瀬はそれに気づいていた。


 あの男は、切り捨てることを喜んでいない。冷血漢を気取り、苦痛に顔を(ゆが)めることさえしないが、その実、犠牲になるものたちを深く悼みながら、それでも刃を振るっている。


(すべてを分かっていて、あいつは地獄を歩いている)


 その、底知れない人間の(ごう)のようなものが、高瀬にとっては最も恐ろしいことだった。



 翌朝、高瀬は議員会館の廊下で、登院してきた市丸を呼び止めた。


 慌ただしく秘書や官僚たちが行き交う動線の端で、二人は立ったまま、短い言葉を交わした。


「一つだけ聞かせてくれ」


「何ですか」


「君は、切った後のことを考えているか」


 市丸はすぐには答えず、すべてを見透かすような高瀬の双眸(そうぼう)を、まっすぐに見つめ返した。


 やがて、その薄い唇から、静かな、けれど地を這うような重みを持った声が漏れた。


「死ぬほど考えている。だから切るんです」


 高瀬はしばらくの間、市丸の目の奥にある深い闇を凝視した。


 それから、ゆっくりと頷いた。


「……そうか」


 交わした言葉は、それだけだった。

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