第二章 未来を知る者の孤独
最初は、すべてが計算通りだった。
地方財政を再編し、実務家たちがしがらみなく政治へ参入できる地盤を整える。市丸は、未来で目撃した「破滅の起点」を、冷徹に、確実に潰していった。
中でも市丸が執念を燃やしたのは、東京への一極集中を解くことだった。権限も、財源も、決定の権利も、すべてを中央が握る構造 ―― それこそが、未来の天災で国の背骨をへし折った元凶だった。中央が抱え込んだものを、地方へと押し戻す。たとえ一つの点が倒れても、国全体が道連れにならぬように。
「過激な異分子」と警戒していた永田町の住人たちは、その圧倒的な速度に困惑しながらも、引きずられるように付き従った。市丸の軍門に下る者の数は、加速度的に増えていく。
はじめは半信半疑だった者ほど、やがて思考を放棄した。
当然だった。目の前に提示される「結果」が、あまりにも圧倒的すぎた。
だが、市丸が抱いていた絶対的な確信に、ついにひびが入る。
「……起きない?」
本来なら、翌年に破綻するはずだった地方銀行が持ちこたえた。
市丸は三日三晩、その事実を確認し続けた。数字を見直し、報告書を貪り読み、現地の担当者に直接話を聞いた。だが、結果は変わらない。銀行は、生きている。その代わりに、まったく想定していなかった別の金融機関が、ドミノが倒れるように不安定化していた。
偶然ではない。
深夜、市丸は一人、机の上にメモを広げた。
未来で記憶してきた年表と、現在起きている出来事を並べていく。
最初は、ほぼ一致していた。だが今、明確なズレが生じている。しかもそのズレは、小さな点に留まらず、まるで大河が分岐するように、下流に向かうほど激しく広がっていた。
(俺が変えたから、歴史が変わった)
それは目的そのものだったはずだ。だが、頭で理解していたことと、実際に目の前で起きる現実の不気味さは、まったく異なっていた。
知っていたはずの未来が、ページをめくるたびに白紙のノートに変わっていく感覚。地図を持って旅に出たはずなのに、一歩進むたびに地形そのものが書き換わっていく。
「……これは」
市丸はペンを置いた。指先が、わずかに震えていた。
未来人としての優位性は、時間とともに腐食していく。かつての記憶は、これからの選択において、ただの「ノイズ」に成り下がるのだ。
それは、重要な会議を控えた朝のことだった。
市丸は、五年後に起きるはずの経済指標の数字を思い出そうとした。
―― 出てこない。
脳裏に靄がかかったように、輪郭が溶けている。代わりに浮かぶのは、あの荒廃した未来の光景だけだ。だがそれが「元の未来」なのか、「自分が今、作りつつある新しい未来」なのか、もう判別がつかなかった。
かつての記憶が、自分を縛る鎖になっていく。
そして、恐ろしい事実に気づく。
自分はもう、未来を救っているのではない。ただ、神の真似事のように、あちらを立てればこちらが沈む選択を、独りで「選び続けている」だけなのだと。
それは、叫び出したくなるような衝動ではない。毎朝、目覚めるたびに、昨日よりもほんの少しだけ地面が柔らかくなっているような ―― じわじわと底が抜けていくタイプの、静かな恐怖だった。
◆
狂いそうな孤独のなかで、市丸の脳裏をよぎるのは、いつも一人の身内のことだった。
かつてこの時代へ降り立ったとき、真っ先に生存を確かめた妹、遥。
内科医である彼女は今、過疎地域の小さな病院に赴任して三年目を迎えていた。
最初は「都会に帰りたい」とこぼしていたが、気がつけば患者全員の名前を覚えるほど、その土地に馴染んでいた。
七十八歳の鈴木さんは、毎週火曜に来て必ずあんぱんを差し入れてくれた。
末期癌の山本さんは、最後まで「先生のおかげで」と言い続けた。
遥はそのたびに、違う、私はただそこにいただけだ、と首を横に振りたくなった。だが、医師のいないその地域にとっては、彼女が〝そこに佇んでいる〟こと自体が、救いそのものだったのだ。
その遥から、夜遅くに電話がかかってきた。市丸は深く息を吸い、狂いそうな内面を心の奥底へと押し殺した。
「もしもし」
呼び出し音に応じた市丸の声は、自分でも気づかないほど乾いていた。
「どうかした?」
遥の声は、いつも通り穏やかだった。
「何もない」
「嘘でしょ」
一瞬の躊躇もなく見抜かれて、市丸は肩の力を抜き、小さく息を吐いた。
「……予測が外れた」
それは、この時代にやってきてから、市丸が初めて口にした決定的な敗北の告白だった。
電話の向こうで、遥が少し間を置く気配がした。遠い過疎地の、夜の静寂が電波を通じて伝わってくる。
「外れたことがあって、よかった」
「なぜだ」
「全部当たってたら怖いじゃない。そこまで先が見えてるって」
窓の外に広がる、まだ滅びを知らない東京の夜景を眺めながら、市丸は呟いた。
「……そうかもしれない」




