第一章 違和感のある男
二〇二〇年代後半。
光の中で目が覚めた時、最初に感じたのは、音だった。
車のエンジン音、人々の喧騒、街角の広告から流れるBGM ―― それは二一〇五年にはもう存在しない種類の騒がしさだった。
見上げた空は青く、街を行き交う人々の顔には、まだ何かを信じている色があった。
当たり前だ。この時代はまだ、誰も諦めていない。
(間に合った)
市丸は、驚くほど軽くなった四十代の己の身体を確かめるように強く拳を握り、深く息を吐いた。
過去に降り立ってからの最初の一年は、慎重に動いた。
政治家として表舞台に立つ前に、まずは足場が必要だった。
地方自治体の選挙に出た。目立たない、小さな選挙区だった。
知名度はない。資金もない。組織もない。
それでも、当選した。
理由は単純だった ―― 誰よりも具体的に、数字で語ったからだ。
未来を知っている人間にとって、それは造作もないことだった。
だが、そのあまりに冷徹な具体性が、早くも周囲との摩擦を生んだ。
市丸はそれすらも織り込み済みだった。誰も、この男の本当の〝覚悟〟を知らない。
地方議員の椅子を得た瞬間から、市丸の〝歴史リハック〟は加速した。
まずクリアしたのは、政治に不可欠な「資金」の壁だった。
これから数年以内に起きる経済の動向、成長する産業、そして法改正のタイミングを完全に把握している市丸にとって、水面下で合法的に莫大な原資を作るなど、知恵の輪を解くよりも容易だった。彼の差し出す「百発百中の未来予測」に魅せられた新興の資本家たちが、こぞって彼の影のパトロンとなり、市丸の懐には瞬く間に巨額の軍資金が蓄えられていった。
次に味方につけたのは、コントロール不可能なはずの「民意」である。
地方議会で彼が放つ、容赦のない「現実の告発」と「冷徹な数字」は、動画サイトやSNSを通じて瞬く間に全国へと拡散された。既存の政治家たちが言葉を濁し続けた社会保障の闇や、地方の限界を、データというナイフで切り裂いていく姿。それは、現在の政治に絶望し、強いリーダーを渇望していた若者や無党派層を激しく熱狂させた。ネットを埋め尽くす圧倒的な支持は、やがて巨大な草の根のボランティア組織へと姿を変え、地盤も看板もない市丸の背中を強烈に押し上げ始める。
そして最後に、既得権益の塊である「既存政党」が動いた。
潤沢な資金力を持ち、ネットを通じて若者世代の票田を完全に掌握しつつある地方議員 ―― この化け物を、国政政党が放っておくはずがなかった。「選挙の顔」として利用しようとする野党の思惑、あるいは、危険分子として身内に囲い込もうとする与党の計算。市丸はそれらすべての生臭い大人の事情を冷徹に見透かし、自らにとって最も都合の良い神輿を選び取った。
資金、世論、政党の推薦。国政へ這い上がるためのカードをすべて揃えた市丸の転身は、周囲の理解を置き去りにするほどに、苛烈で迅速だった。
「この制度は十五年以内に破綻します」
「この自治体は五年以内に消滅する」
「投票率はさらに下がる」
国会の壇上であっても、彼の言葉はすべて予測ではなく断定だった。
まるで、既に見てきたかのような口調。
敵対する政治家やメディアは彼を警戒し、激しく叩いた。過激、危険、ポピュリスト、あるいは、時代を揺るがす独善的なファシストだと。
だが、そんな嵐のような男を、ただ一人だけ静かに見つめている男がいた。
高瀬康雄。
ある演説の直後、高瀬は廊下で市丸に声をかけた。
「君の言っていることは正しい」
市丸は応えず、ただ相手を見据えた。
「だがね」高瀬は静かに続けた。「正しさだけで社会は動かない」
市丸は即答した。「だから、壊れるんです」
視線が鋭くぶつかる。
その瞬間、二人の関係は決定づけられた。変えようとする者と、守ろうとする者。
◆
その日の夕方、高瀬はバスの座席に揺られながら、帰路についていた。
ちょうど今日、高瀬は六十二歳になったばかりだった。
かつては中央省庁の官僚だった。長く予算の折衝に明け暮れ、制度の歪みを誰よりも間近に見てきた。やがて、紙の上で人を切り分ける側にいることに耐えられなくなり、役所を辞して国政へ転じた。それでも「今あるものを壊さない」ことを信条に、ここまで生きてきた男だ。
周囲からは「調整の達人」と重宝され、自分でも「現実主義者」を任じていた。
ただ一人 ―― 亡き妻だけが、「あなたは本当は、諦めるのが怖いんでしょ」と見抜いていた。その言葉は、今も胸の奥に刺さったままだ。
高瀬が初めて選挙で当選した夜、父はこう言った。
「政治とは、諦めないことだ。だが、無謀と勇気は違う」
父は町医者だった。地域で唯一の外科医として三十年働き、いくら採算が取れなくなっても診療所を閉めなかった人だ。
バスの窓の外、沈みゆく夕日を眺めながら、高瀬は市丸の顔を思い出していた。そのときなぜか、あの頑固だった父の姿が重なった。
確信に満ちた目。焦りのなさ。形成された圧倒的な包囲網。そして ―― ひどく濃い孤独の匂い。
(あの男は、何かを知っている)
直感があった。だが、それが何であるかは、まだ分からなかった。




