プロローグ 覚悟
二一〇五年。
日本は、もはや〝国〟の定義すら失いかけていた。
すでに中央政府は形骸化し、国家としての機能は内側から腐り落ちていた。そこへ追い打ちをかけたのが、ある朝の、わずか数十秒の揺れだった。ヒト、モノ、カネのすべてを吸い上げて肥大化していた首都の背骨が、あっけなくへし折られた。一極集中という歪な構造が、局所的な天災を国家の命取りにしたのだ。
気づけば、通貨も法も、国境すらも意味をなさなくなって久しい。分断された列島では、いくつかの都市が外資と協定を結ぶことで、かろうじて都市機能を保っているに過ぎなかった。
その一角、東京第三区と呼ばれる旧首都圏の廃ビルに、遮音された白い部屋があった。
壁には何もない。ただ中央に鎮座する、時間干渉装置のコアだけが、心臓のように淡く脈打っている。
その部屋に、一人の老人が座っていた。深く皺の刻まれた顔立ちだったが、その眼光だけは妙に静かで、昏く冴え渡っていた。
老人の名は、市丸拓己。今年で百二十歳になる。
二一〇五年の日本において、それは決して珍しい年齢ではなかった。医療技術の進歩が、人間の平均寿命を百二十年近くまで押し上げたからだ。だが、人間が命を繋ぐ一方で、国家はその逆を辿り、死に瀕していた。
その痛烈な皮肉に晒されながら、市丸は八十年近くを生きてきた。
若い頃の口癖は「俺は百二十まで生きる」だった。半ば自嘲混じりの宣言のようだったが、図らずもその通りになった。
装置へと足を進める途中で、市丸は一度だけ振り返った。
白い部屋には、何も残っていない。
過去へ持ち込めるものは、己の記憶だけだと告げられていた。
百二十年分の記憶。友の顔、積み重ねてきた仕事、自分の老いを見届けてくれた人々。
過去へと戻った時、それらはもう意味を持たない。
再びこの未来へ戻れるかどうかも、分からなかった。
(覚悟は、とうにできている)
市丸は装置のシートに、ゆっくりと腰を下ろした。
「歴史修正プロジェクトの最終確認を行います」
無機質な声が静寂を破る。
「過去改変の機会は一度きり。現在の時間軸への帰還は保証されません」
「構いません」
即答だった。
「あなたは歴史上、強い反発を受ける可能性があります。名誉、評価、記録 ―― そのすべてを失うかもしれません」
一拍の間。
「それでも、行きますか?」
市丸は静かに目を閉じた。
静まり返ったゴーストタウン。とうに機能停止した社会保障。誰もが未来を諦め、政治を語らなくなった社会。
この破滅を防ぐ手立ては、いくらでもあったはずだった。
目を閉じれば、決まって浮かぶ顔がある。
六つ下の妹、遥だ。
この凍りついた時代には、もういない。輪郭はすでに曖昧になりかけていた。
それでも、胸の奥の灯火だけは消えない。
知れば、戻れなくなる。
覚えているのは、小さな手。
不器用に折った、赤い折り紙の鶴。
「お兄ちゃん、あげる」と言って差し出した時の、誇らしげな顔。
それだけは、今でも鮮明に思い出すことができた。
(市丸拓己の人生くらいなら、かけてもいい)
ゆっくりと、目を開けた。
「はい」
短く、しかし地を這うような確固とした声だった。
「嫌われ役として、歴史に悪名を残すとしても?」
一瞬の間をおいて、市丸は不敵に、静かに微笑んだ。
「それをするために、私は百二十まで生きたのです」
光が満ちる。
次の瞬間、その姿は消えていた。




