反転
吉野さんは、僕の顔から指を外すと、汚い物でも見るように薄目にした。そして顎でしゃくって、下半身を指し示しながら言い放つ。
「今日一日、そこを慰めていないわよね? ……我慢できた?」
「えっ!?」
「なーんだ……気付いてなかったの? 今朝は、履いてなかったのに」
そう言って、彼女はスカートの裾をちょんとつまんだ。
「見てません……でした」
顔を伏せて小さく答える。
「ねぇ……」
吉野さんは顔をぐっと寄せ、僕の耳の中に、直接声を吹き込んだ。
「霧山くんの……見せて」
ドクンと心臓が跳ね、脳から背筋までを一直線に電流が走った。
「霧山くんのそれ、見せてくれたら、今朝と同じことをしてあげる」
人差し指を、熱くなった先っぽに、グッと押し付けられた。
「ひっ……!」
敏感な部分が、ドクンと波打ち、思わず情けない声を漏らしてしまう。
「ぷっ。弱弱すぎでしょ。……なんて雑魚、ち○こ」
僕の顔を覗き込みながら喋り続ける。
「……何を期待しているの?」
「……」
「何をしてもらえると思ってるの?」
生地の表面を滑らせるように撫で上げられる。
「っ……!」
彼女が痺れを切らし、僕の制服の隙間に指先を掛けた。
一気に冷や汗が吹き出す。
——そうだ。
まだナプキンを外していない……。
……小さな絶望。
この情けない姿を吉野さんに見られたら、また何を言われるか分かったもんじゃない。
「焦らしているの……?」
「……っ、待って……!」
手を払いのけようと勢いよく立ち上がった瞬間、僕の手が吉野さんの頬に強く当たった。
パンッ!
乾いた音が、静まり返った教室に響く。
膝の力を失った彼女は、大きくバランスを崩し、無防備に床へ尻もちをついた。
立ち上がった僕と、床に座り込んだ吉野さん。
放課後の夕闇の中、視線の高低差が一瞬で入れ替わった――。
吉野さんは、赤く染まった頬を手のひらで押さえ、信じられないものを見る目で、僕を見上げている。
僕の足元で身を縮め、怯えたように一瞬だけ視線を泳がせた。
しかし——。
「……ぶったわね! 親にもぶたれたことないのに!」
涙の滲んだ瞳で、必死に威勢を張り直そうとしていた。
そして、彼女は震える右手をこちらへ差し出す。
手を取って立ち上がらせろ、ということだろう。
「立たせなさい!」
上目遣いに睨みつけながら命令する。
だが、その声は微かに擦れ、強がりの裏にある動揺を、完全には隠しきれていなかった。
僕は、それに応じることなく、「……はぁ」と、深いため息をついた。
そのとき——吉野さんの肩がビクッと跳ね、差し出されていた手が空中でピタリと止まる。
――どういうことだ?
――なぜ怯える?
僕が首をわずかに傾け、見下ろすような冷ややかな流し目で顔色を伺うと、視線が合った瞬間に彼女は弾かれたように目を伏せた。
――さっきまでの勢いはどうした。
――高飛車な女王の仮面はどこへ行った。
そして……確信した。
ずっと考えていた一つの答えが、正解を叩き出していたのだと。
一歩を踏み出し、彼女の上に影を落とす。
たったそれだけで、吉野さんの身体は小動物のように小さく身を縮ませた。
完全に、蛇に睨まれた蛙。
猫の前の鼠。
吉野さんは、金縛りにあったように硬直し、動けなくなっていた。
――所詮、男と女の物理的な体格差・力の差は歴然。
世界大会を何連覇もして『史上最強の女子』とまで称された格闘家でさえ、本気を出した男子中学生の腕力にはあっけなくねじ伏せられたという話があるくらいだ。
ましてや、運動すらろくにしていない華奢な副会長が、男である僕の腕力に叶うはずがない。
暴力を使う気などさらさらないが、僕が「本気を出せばいつでも力で制圧できる」という事実は、彼女の身体に抗いがたい本能的な恐怖を刻み込むには十分すぎた。
そして何より——彼女は、僕のこの冷酷な視線そのものに、狂おしいほどの恐怖と快感を覚え、悶え、打ち震えている。
見ていれば解る。
――この堕ちた表情。
僕はポケットに両手を突っ込んだまま、彼女のプライドを射殺すよう、冷徹な眼光をそのまま投げつけた。
「……霧山くん?」
「キリヤマくん? ……ねぇ、さっきからずっと誰のことを呼んでるの?」
低い声で問いかけると、吉野さんは僕の目を見つめたまま、逃げるように身をよじった。
「はっ……」
「僕は、霧山じゃないよ」
「……っ」
「最初から分かってるんでしょ?」
ゴミ屑でも見るような冷淡な瞳でじっと射抜くと、彼女は僕の圧迫感に耐えかねたように、自ら床へ深く膝をつき、すがるように僕の足元へ視線を落とした。
さっきまでの威圧感など、どこにも残っていない、面白いくらいに惨めな怯え顔だ。
「名前を知らないんなら教えてやるから、これからはそう呼びなよ」
吉野さんの顎に指をかけ、上を向かせる。
「……んっ!」
抵抗して顔を背けようとするが、指先を彼女の頬に深く食い込ませ、絶対に逃さなかった。
そして、唇が触れそうな距離まで近付き、息を吹きかけながら囁く。
「甲斐浩臣」
「……」
「ほら。言ってみて」
彼女の身体がビクッと震えた。
「……っ……か……甲斐……くん……」
「うん。霧山じゃないよ。……甲斐浩臣だ」
口元だけで笑ってみせる。
――完全に捉えた。
もう逃がさない。
偽物の名前に隠れていた少女の首輪を、僕は冷たい視線だけで完全に締め上げたのだった。




