愚者
一時限目の授業が始まってすぐ、僕は腹痛を装って教室を抜け出した。
静まり返った廊下を急ぎ、向かったのは校舎奥にある職員用の多目的トイレだ。
男性の先生が使っているところなど一度も見たことがない、事実上の「聖域」。
誰も来ない授業中の今だからこそ、潜み込むことができる。
鍵を閉め、便座の蓋の上に倒れ込むように腰を落とすと、深くため息を吐き出した。
——煩わしい。
……死ぬほど、面倒なことになった。
校内人気No.1のアイドル・吉野さん。
普通なら可愛い女子に迫られれば、男として喜ぶべきなのかもしれない。
だが、朝の体育倉庫で味わわされた、絶望的な屈辱。
汚れた下着を前にし、冷め切った頭で考える。
今の僕を支配しているのは、甘い欲望などではなく、鬱屈だけだった。
辱められた絶望と、芽生えた復讐心。
ズボンと下着を膝まで下ろし、冷たい湿り気をトイレットペーパーで拭き取っていく。
ボロボロになった紙くずが、虚しく床へとこぼれ落ちた。
とんだメンヘラじゃないか。
悲劇のヒロインを気取りやがって、被害者は僕の方だ。
個室の棚にあるナプキンを取り出し、内側に貼り付けた。これで当面の不快感からは解放される。
こんな惨めすぎる姿、絶対に誰にも見せられない……。
床の紙くずを拾うため膝をついたとき、一本の縮れた毛が落ちているのに気づいた。
女性教師のものだろうか。
……美術補助の長門先生のならいいのに。
美しい長門先生を、僕の足元に跪かせ、好き勝手に支配できたらどれほどいいか……。
そして、ふと考える。
なぜ吉野さんは僕なんかに執着するのだろう?
彼女の容姿とステータスなら、本物の霧山などすぐにものにできるはずだ。
あいつは来るもの拒まずな男だ。
僕にしたみたいに待ち伏せて、同じことをすればいい。彼女に抵抗できる男など、いるはずがない。
僕だって、元々は吉野さんなど眼中になかったのだ。
学校のアイドル、雲の上の存在。
僕の手に余る。
この不調和な関係が継続され、万が一他人にバレたら僕の学校生活は終わる。
彼女が自己保身のため、僕に脅されたとでも吹聴すれば、僕を信じる者など一人もいないはずだ。
僕はただの陰キャとして、平々凡々と静かに卒業したいのだ。
——だから、僕は彼女との関係を今日限りで終わらせる。
僕を脅かす存在は、こちらから絶ち切ればいい。
放課後の誰もいなくなった教室で、自分の席に座っていた。
廊下に足音が響く。
カラカラとドアが開き、入ってきたのは——冷酷な笑みを浮かべた吉野さんだった。
「委員会が長引いたの。ごめんね、霧山くん」
彼女は、制服の裾を揺らしながら、ゆっくりと僕のデスクへ歩み寄ってくる。
優等生の完璧な仮面を剥がし、見下ろす瞳には、僕を支配することへの、歪んだ愉悦が宿っていた。
「さあ……朝の続きをしましょう。私に見せて」
吉野さんは僕の目の前に立つと、逃げ場を塞ぐように覆いかぶさり、僕の顎を指先でクイッと持ち上げた。
見下ろしてくる彼女の恍惚の表情。
至近距離から漂う甘い体温。
終わらせるつもりだった。
冷酷に切り捨てるはずだった。
なのに——。
目の前の圧倒的な色気と威圧感に、僕のズボンの内側の熱が、男の愚かな本能とともにドクンと力強く脈打っていた。




