授業
――生徒会室。
机の縁に尻を乗せ、優雅に脚を組んだまま、引き出しへと手を伸ばした。
腰をひねった後ろ向きの姿勢は、長い脚で絶妙にバランスを取るのが重要だ。
そうして取り出した、一枚の紙。
――何度も見ていた。
その証拠に幾重にも皺が入り、握り潰した跡が深く刻まれている。
つい苦々しい顔になってしまう。
その鬼気迫る表情に、本人はまるで気付いていない。
書類を届けに生徒会室の扉を、細く開けた書記の廣田 寿一は、その見たこともない沖永の表情に息を呑んだ。
普段の完璧で美麗な生徒会長からは想像もつかない、剥き出しの執着と憤怒。
恐怖に全身の毛穴が開くのと同時に、ドクンと胸の奥が怪しく跳ね上がるのを感じた。
廣田は固まったまま、吸い寄せられるようにその横顔に見入ってしまい、ハッと正気に返ると、静かに扉を閉じた。
ドクン、ドクン……。
胸元に当てた指先に、激しい脈打ちが伝わってくる。
(僕、どうしちゃったんだ……? 爽やかでスマートな生徒会長。今まで、何の面白味もない、退屈な男だと思っていたのに――優等生の仮面の下に、あんなにも猛々しく、淫靡なまでの色気を隠していたなんて! 感情を露わにした、あの瞳を知ってしまった! 僕のこの動揺は何だ!? 見てしまった、あの瞬間から、もうずっと頬の熱が引かない。完璧な生徒会長の姿に、『男』を見せつけられてしまった! ヤバい……この感情は一体……)
頬を染めながら、心臓の鼓動を聞いていた。
バンッ!
机を力任せに叩きつける重い音が、生徒会室内に響き渡る。
「いつもあいつが邪魔をする……! 甲斐浩臣……っ!」
ぐしゃりと歪んだ申請書を見下ろし、沖永は憎々しげに毒づいた。
沖永は、自分一人だと思っていた。
しかし、隣の生徒会予備室のドアの裏に身を潜めたもう一人の書記、平沢 叶多が、細く開いた扉の隙間から、熱を帯びた吐息をそっと漏らした。
荒々しく肩を上下させ、毒づく沖永の美しい横顔を、平沢はじっと見つめている。
(……ああ、いい。僕だけの会長……。甲斐浩臣に感情を乱されている会長は、凶暴なまでに甘美で、恐ろしいほど麗しい。……せいぜい、もっとあいつに掻き乱されればいい)
甲斐への嫉妬と、会長への胸を焦がすような愛おしさと衝動で、身体が熱く痺れていくのを感じていた。
平沢はその背中を、熱い視線で舐めるように追っていた――。
◆ ◆ ◆
一方同好会の部屋の片隅では――。
「副会長! これ!」
村木が差し出した一枚の資料に、吉野が手を伸ばした。
持ち前の速読で一瞬にして目を通した吉野の唇が、わずかに吊り上がる。
ピースは、揃いつつあった。
吉野は、込み上げてくる笑みを静かに噛み殺す。
(……まだよ。まだ、焦る段階じゃないわ……)
何が進行しているのか、甲斐にはまだ知る由もない――。
2つの思惑が水面下で交錯する中、部屋の中央では、「ある講義」が始まろうとしていた。
神坂が壇上に上がり、その下に古井戸と石田が、狛犬のように鎮座している。
見慣れた、いつもの通りの配置だ。
甲斐はその目の前に、肩を縮こませた姿勢で、大人しく正座していた。
「いいか甲斐。よく見ておけよ」
神坂がピンヒールで地面を打ち鳴らす。
足下に控える古井戸と石田は、それを合図に這いつくばる。
「支配する側とは、単に痛めつける者のことではない。相手の苦痛と歓喜の境界線を見極め、精神を完璧に支配する『導き手』のことだ。
――ほら、このブタどもの目を見なさい」
「ひぃんっ! 神坂先生……もっと、もっと罵ってくださいっ!」
「私めを……私めを女王様の蔑みの目で踏みつけてくださいっ♡」
あられもない姿でヒーヒーと喘ぐ二人の教師に、神坂の冷徹な言葉責めが飛ぶ。
「黙れ。無能な肉塊ども。お前たちの存在価値は、甲斐の教育資材になることだけだ!」
「「はいっ!」」
古井戸と石田は、声を揃えて返事をする。
「……どうかしら? 支配される側の『悦び』を引き出してこそ、真のSなのよ」
「は、はあ……(なんだこの狂気の授業は……!?)」
水を打ったように部屋中が静まり返る。
ろうそくのゆらめきの音さえ、聞こえてくるようだった。
「いいか甲斐!」
白ブリーフ姿で四つん這いになった石田が叫んだ。
「Sとは単なる支配ではない! この部屋を見て分からんか? 神坂先生のように、安心できる場所を整え、Mを深く包み込み、決して嫌がることはしない! 必要とあらば互いの方向性を語り合う……そうして初めて、痛みが至高の快楽へと昇華していくのだ! お前はまず、その本質を知らねばならん!」
石田が、真剣な顔で喋ればしゃべるほど、その姿とのギャップが目についてしまう。
遠くで村木が小さく吹き出した。
(……ぶふっ)
神坂の手がピタリと止まった。
――まさかそんな高尚な理論を展開されると思っていなかったのか、あからさまに目を泳がせ、気まずそうに、胸元に隠しておいたチュッパチャプスを取り出して舐めた。
甲斐は目ざとく気付いていた。
……しかし何も言わなかった。
(……やばい。私、コイツらに対しては、日頃の鬱憤を晴らしたくて叩いてただけだったわ……)
そんな神坂の内心に気づく者はおらず、古井戸が追い打ちをかけるように叫ぶ。
「そうだぞ、甲斐! 単なるDVが作り出す不快な束縛と、精神の繋がりによる美しい束縛は、似て非なるもの……いや、真逆の存在! SMとは究極のコミュニケーションであり、深い信頼のもとで行われる魂と魂のぶつかり合い……いや、ぶつかり『愛』なのだ!」
ブリーフ姿で這いつくばった古井戸は、唾を飛ばして熱弁を振るった。
石田も恍惚とした表情でそれに頷き、涙ぐみながら叫んだ。
「神坂先生は今! こうして我らに鞭を打つことで、全身全霊で『愛の施し』を伝えてくださっているのだぁっ♡」
神坂が鞭を高々と構え、振り下ろす。
バシーン!
ピシーッ!
「「はぁぁんっ♡」」
ふたりは身をよじるようにして、神坂先生の鞭の痛みを全身で受け止め、恍惚の表情を浮かべ、キラキラと眩いよだれを垂らした――。
あまりの熱量に引き気味の甲斐だったが、ふと神坂に目を遣ると、気まずそうに視線を逸らし、チュッパチャプスのプラスチック軸を、器用に転がした。
(……やっぱり、ただの憂さ晴らしで叩いてただけなんだな)
甲斐は、口にしかけたその言葉をそっと呑み込んだ。
確信した甲斐は、冷ややかな視線で、その愚行を眺め続けていた――。
「……」
吉野は速読の目を休めることなく、横目で甲斐の後ろ姿を見つめていた。
(ひろくん、ガンバ! ……私も、早くお仕置きされたい……)
サッカー部の練習の合間に、ファンサを済ませた霧山は、黄昏ながら肩で汗を拭った。
「俺も、早くSM倶楽部に行きたいな……」
盛大な勘違いをしている霧山は、夕日に目を細めながら小さく呟いた。
(サッカー部なんか辞めちゃおうかな……ちぇっ。窓が塞がれてるから、何にも見えないや……)
霧山はグラウンドから部室棟を見上げていた。




