顧問
僕は職員室の前にいた。
今日こそは、絶対に顧問の先生を見付けてみせるぞ!
意気込んで来たものの、やはり不安だ。
吉野さんの手前、鼻息だけは荒くしていた。
ポケットの中のレースの下着を握り締め、いざ……
ガラッ!
勢いよく扉が開き、中から出てきた人物とぶつかる。
「うぷ……」
柔らかい感触に埋もれ、僕はしばらくそこに身を任せていた。
――あぁ……
いい匂い。
柔らかくて、ふわふわしている……。
触るとすごく、気持ちがいい。
目を瞑ると、そこはまるで天上の雲の上……
これはまるで、極上の……
「おい! このド変態! そこを退かんか!」
ハッ!
目を開けると僕の顔面は、神坂の豊かなバストの上に張り付いていた。
ムニムニと両手で揉みしだきながら、神坂の胸に顔を沈め、恍惚の表情で浸っていた。
もう一度、顔を埋め……意を決し、膝から崩れ落ちる。
「も、申し訳ありませんでした!」
床にべたりと座り込み、そのまま土下座を繰り出した。
「チッ! 土下座は強要しとらん! 面をあげい!」
「ははーっ!」
僕は再び頭を下げてから顔を上げ、神坂に視線を向ける。
すると……。
「か、神坂先生~」
「神坂先生……」
神坂の後ろから、古井戸と石田が慌てて駆け寄ってきた。
「甲斐っ。神坂先生にご迷惑だろ! む、胸に顔を埋めるとは!」
古井戸が眉間にシワを寄せながら、神経質に言う。
「甲斐くん。今日も来てもらって申し訳ないが、顧問は誰か別の先生に当たりなさい」
石田も呆れたような声で、静かに言ってきた。
「シャラップ! 黙れ」
ピシャリと神坂が言い放った。
睨みを効かせ、二人の先生を黙らせる。
職員室中が息を殺し、こちらをジッと見守っていた。
「はっ!」
「ハイッ!」
古井戸と石田は、反射的に返事を返す。
直立不動で背筋を真っ直ぐ伸ばし、両手をピシッと揃えた。
神坂は、その姿を満足そうに一瞥した。
「それから甲斐、今すぐ土下座を止めんか! お前はソレをさせる側だ。自覚しろ。……ソレを、やっていいのは……」
神坂は、古井戸と石田をチラリと見やった。
二人はその視線の意図に気付き、互いに顔を見合わせてから、照れたような苦笑いを浮かべた。
立ち上がるとき、石田と目が合った。
古井戸も石田も、直立不動で背筋を真っ直ぐ伸ばし、両手をピシッと揃えた姿勢のままピクリとも動かず、目だけをギョロっとさせている。
女王様に、お仕置きでもされているつもりか?
その何とも言えない恍惚の表情が、真剣であればあるほど可笑しくて、思わず吹き出しそうになる。
……プッ。
偉そうな態度で生徒を見下し、神坂に命令されれば、誰の前でもお構いなしに従う。
まるで調教済みの犬だな……いや、ブタか。
甲斐のその冷ややかな視線に気付き、神坂もフッと笑った。
「それで……名を申してみよ」
「甲斐……浩臣。2年、普通科です」
神坂はニヤリと笑って頷いた。
「あい、わかった。さすれば……それを、見せてみよ……」
神坂は、僕の手にしていた同好会の申請書を見下ろしながら、チュッパチャプスを口の中でコロッと転がした。
「これは……申請書でございます」
「分かっておるわ。私がなってやろう」
「……は!?」
僕が慌てて顔を上げると、流し目でニッと笑った神坂と目が合った。
心臓が跳ね上がった。
妖艶で、芳しいその表情に、思わず釘付けになる。
大人の色気と、何とも言えない底知れぬ恐ろしさ。
その両方を併せ持ち、危険な香りを放っている。
僕なんかが関わっても、大丈夫なのだろうか……。
底なし沼のように、一度嵌まってしまったら、抜け出せなくなるかもしれない……。
ドクン、ドクンと、心臓が警鐘を鳴らす。
「どうした? 嬉しくないのか?」
神坂がヒールをコツンと鳴らして、僕の金縛りを解く。
「神坂先生が、顧問を引き受けてくださるんですか?」
僕は滑稽な姿の二人を、横目で見ながら尋ねた。
「そう言ったつもりだが?」
「ありがとうございます!」
僕は再び頭を下げた。
神坂は僕の手から申請書を抜き取ると、壁に紙をあてがい、胸ポケットからペンを取り出す。
「ほう。Science & Math……理数科学研究同好会、か……」
同好会名に目を留めた神坂は、鋭い目線で僕を捉えた。
「Science & Math。……S&M。……SM同好会。……なるほど。カムフラージュにしては……なかなか強引だな。だが、いい」
神坂は誰にも聞こえないほどの声で何かを呟くと、サラサラとサインをした。
僕の胸にそれを押しやり、「文句ないな?」と言った。
僕が神坂に視線を合わせ頷くと、赤い唇の端でニイッと笑った。
「ありがとうございます!!」
僕は半泣きで頭を下げた。
「私が副顧問をやります!」
唐突に、古井戸が手を挙げた。
「いやいや、そこは若輩の私がやるべきでしょう!」
石田は古井戸の肩を小突き、神坂の前へ飛び出した。
「副顧問など必要ないわ! 引っ込んどれ!」
苛立ちを隠すことなく、ビシッと言い放った。
職員室全体が再び緊張に包まれる。
「し、失礼しました……!」
(これ以上、長居は無用だ!)
神坂先生から受け取った申請書を、僕は宝物のようにしっかりと抱きしめた。
これで同好会が正式に認められる。
吉野さんとの「放課後の時間」を守ることができるんだ。
胸の奥から安堵が込み上げてきた。
「――甲斐」
背後から耳元で、低い声が囁かれた。
甘いチェリーの香りと、ほんの僅かな煙草の匂い。
「最初のレッスンとしては、及第点よ。……でもね」
ハッとして振り向いた時には、神坂先生はすでに歩き出していた。
白衣のポケットに手を突っ込み、カツン、カツンとヒールを響かせながら廊下の奥へと消えていく。
(レッスン……? なんのことだ……?)
去り際の彼女の口元に浮かんでいたのは、教師が教え子の成長を愉しむような――あるいは、獲物が罠にかかったことを確信した蜘蛛のような、妖しい笑みだった。
「おい、甲斐! 神坂先生にお前はまだ早いぞ!」
「くそっ、何で甲斐なんだ……っ!」
後ろで古井戸と石田が悔しそうに騒いでいる。
しかしその雑音も、今の僕には届かなかった。
手の中にある、神坂のサインが書かれた申請書。
無事に顧問を確保できた歓喜の裏側で、背筋をすっと冷たい汗が伝うのを感じていた。
僕はただ、誰にも邪魔されない隠れ場所が欲しかっただけだ。
だが――自ら飛び込んだその先は、更なる深淵の入口に過ぎなかったのかもしれない。
第二章 境界線の欠落、放課後の戯れ ――完




