神坂
甲斐の後ろ姿を見送った神坂サクラ。
年齢不詳。
数学科担当。
神坂は、口の中でチュッパチャプスをバリバリと噛み砕いた。
――ここからは、大人の時間だ。
彼女は胸ポケットから、長年愛用するセブンスター(通称:セッター)を取り出した。
タール14㎎。
国産でガツンとくる吸いごたえと、強い旨味が気に入っている。
(ハイライトは、元カレと交換して吸ったな……懐かしい。……あいつ、今頃はどこぞの犬に成り下がっているかしら。ふふ、あれの調教は完璧だったわ)
だが、それも遠い昔の話だ。
甘酸っぱい青春の1ページだと、あいつも笑いながら許してくれるだろう――。
小さくほくそ笑み、過去の倒錯した日々を脳裏に浮かべる。
パッケージを指で弾いて一本だけ取り出すと、真っ赤な唇の端に軽く咥えた。
ジッポーの蓋をカチリと開けたとき、いつもは気にならないのに、なぜか今日はそのパッケージに目を止めた。
「……たばこの煙は、あなたの周りの人、特に乳幼児、子供、お年寄りなどの健康に悪影響を及ぼします。喫煙の際には、周りの人の迷惑にならないように注意しましょう……か」
「神坂先生、どうかされましたかな?」
階段から降りてきた教頭が声を掛けた。
「いえ。なぜか急に、このパッケージを読んでみたくなりまして……」
「はっはっは! その文字を見るとぞっとしますな」
「はぁ……」
「私らが若い頃は、生徒がいる教室でも平気で吸ってたもんです。昔が懐かしいですよ!」
「いやはや……何とも」
教頭は神坂の背中をバンバンと叩くと、笑いながら職員室に入っていった。
神坂は携帯灰皿を確認し、ジッポーの火をオイルの匂いと共に立ち昇らせた。
ジッポーの火をタバコの先に近づけ、深く息を吸い込む。
紙がジュっと焼ける音。
ジジッと音を立て、炎が葉を包み燃え進む。
煙を肺の奥深くまで染み渡らせると、凝り固まっていた身体が一気に解放されたように軽くなる。
この最初の一口のためだけに生きていると言っても過言ではない。
一日我慢していた身としては、これが堪らなく美味いのだ。
――まぁ、それはビールでも言えることか……。
神坂は、口の端で笑った。
数週間前――。
グラウンドを見下ろす校舎の窓辺。
放課後の茜色が差し込む室内で、白衣姿の神坂は双眼鏡を覗き込み、唇の端のチュッパチャプスを転がした。
レンズの先で展開されていたのは、夕闇の校庭の陰で試行錯誤される、不完全で生々しい、甲斐と吉野のSMごっこ――。
(あなた、まだ蒼いチェリーのくせに、あんなことも出来ちゃうの……将来性があるじゃない)
――ふふっ。
『……お見事よ、甲斐くん。何の予備知識もない中、よくそこまで辿り着けたわ。……でも、まだまだお遊びね。あなたの底力は、そんなものじゃない』
神坂は双眼鏡を外し、白衣のポケットに手を突っ込み、妖しく目を細めた。
◆ ◆ ◆
神坂の脳裏に鮮明に蘇るのは、数年前の中学数学競技会の光景だ。
優勝確実と言われた圧倒的天才・甲斐が、突如としてマークシートを1段ズラすという、美しくも致命的な解の崩壊(自滅)を引き起こし、自ら栄冠を投げ捨てたあの日……。
中学時代の甲斐は、間違いなく、数学のトップランナーだった。
その日も、数人の数学教師たちと壇上に立っていた。
プロジェクターの光を浴びながら、独自の新しい数式解法を鮮やかに解き、誰もがその天才ぶりに息を呑んでいたのだった。
――その同じ壇上に、この神坂も居た。
彼女もまた、トップランナーだった。
同じ数学を愛し、孤独な高みに立つ者同士――言葉を交わさずとも理解し合える、狂気的で密接な思考の同調を感じていた。
それぞれの発表も終わり、会場の明かりが灯ったその時――突然、会場がざわめく。
何事かと皆が戸惑う中、甲斐はいち早く壇上から飛び降りた。
会場中の視線を掻き分け、或いはわざと視線を集めながら、一人の少女の前まで、一目散に駆けていた。
彼の辿り着いた先にいたのは、顔色を失い、思いがけない「女としての変化」にただ一人震えていた吉野だった。
周囲が混乱し冷笑する中、神坂だけは見逃さなかった。
――彼は知ってか知らずか、中2という幼さで、無自覚にも主人を演じ、聡くもわざと自分に注目を集めさせた。
そして、あろうことか、彼女の恥辱を覆い隠してみせた……。
こんなの、優しさなんかじゃない!
優しさの訳がない!
……相手の人生と心を、一生自分から逃げられないレベルで救い、同時に泥の中に縛りつけ、相手の存在そのものを永久に従属させる!
これぞ紛う事なき、SMの最強にして最凶――【不可逆的精神束縛】!
究極のS(支配)よ!
私は、甲斐のその目を見た。
あれは確かに、狂気を孕んだ目だった。
愛に狂い狂わせ、従わせようとする決死の形相。
……私は震えた!
甲斐の鬼気迫るその表情、その振る舞い。
とても中学2年の男子にできることではなかった。
甲斐と同じ壇上にいた私は――独り、静かに達した……。
その直後の午後の競技会。
精神を激しく乱された甲斐はマークシートを一段ずつずらし、歴史的大敗を喫した――。
◆ ◆ ◆
神坂は妖しく目を細め、白衣の胸元から潰れた紙タバコを取り出す。
早くここまで登って来なさい、甲斐くん。
あの日のあなたの目を、私は決して忘れることができない。
私の手で、本物のSとして、君臨させてあげるわ――。




