盗聴
しばらく見つめ合っていたが、霧山の薄気味悪いポーカーフェイスと、この場の息苦しさに耐えられなくなった僕は、とうとう小さく頷いた。
そして、「……吉野さんと、話してみる」と、そう答えるのが精一杯だった。
僕の返事を聞くと、霧山は満足そうに口角を上げ、尻を叩きながら立ち上がった。
「期待して待ってるよ!」
右手を挙げ、爽やかに笑った。
爽やかさって……顔の善し悪しで決まるのかよ!
腹の中でぼやきながら、霧山の後ろ姿を無言で見送った。
見ている分には、ただの陽キャで人畜無害なハズだった。
それが蓋を開けてみればどうだ、人を脅して悦に浸るサイコパス気質の異常者じゃないか!
『俺を、観客にさせてほしい。……君と、吉野さんの倒錯した関係に、触れさせてよ』
霧山の顔が脳裏から離れない。
色よい返事がなかったら、あいつはどうするつもりだろうか?
もしかして、吉野さんに何かするんじゃないだろうか……。
まさかな……。
いや、でも。
僕は弾かれたように、夢中で走り出していた。
廊下を駆け抜け、階段を一段飛びで上がり、特進棟の先にある生徒会室を目指す。
久々に全力で走ったせいか、心臓が早鐘のように脈打ち、汗が全身から噴き出していた。
早く吉野さんに知らせなければ!
僕たちの秘密が、あの狂った観客に見破られていることを――。
生徒会室のドアを目の前にして、僕は壁に手をつき、荒れた呼吸を必死に整えた。
ノックをしようと手を挙げかけた、その時――。
「どうしました? 生徒会に何かご要望でも?」
背後から掛けられた、落ち着いて耳心地の良い、爽やかな声。
ハッと振り返ると、そこに立っていたのは、あの生徒会長だった。
見上げるほどスラリとした高身長に、整った顔立ち。
学内No.1のモテ男と呼ばれるだけはある。その圧倒的な存在感だけで、気圧されていた。
そして、そのすぐ後ろには――吉野さんがいた。
完璧に整えられた制服。
隙のない立ち居振る舞い。
彼女はこともなげに、澄ました顔で、僕のことを見つめていた。
この人は、さっき廊下ですれ違いざまに、僕の手を握り締めてくれた吉野さんだろうか。
微動だにせず、表情も変えず、ただそこに居る。
冷静な顔で見つめられると、あの吉野さんとは別人のような気がしてくる。
それくらい完全な『他人』の顔だった。
「あの……えっと……」
二人の圧倒的な「表の世界」の光景に、一瞬頭が真っ白になったが、僕はとっさに言葉を絞り出した。
「ど、同好会の申請の……ご相談に……」
しどろもどろではあるが、何とかそれらしい事を言って、切り抜けることができた。
生徒会長の沖永は、顎下に手をやり、しっかり頷いた。
「なるほど。同好会の立ち上げですね」
そして、柔らかく微笑むと、隣の吉野さんに視線を送った。
「吉野くん、対応をお願いできますか?」
「はい。承知いたしました」
吉野さんは静かに頭を下げ、澄んだ瞳で僕を一瞥した。
その瞳の奥のわずかな揺らめきに、僕は喉の乾きを覚えていた――。
入り口を入ると、突き当りに生徒会長専用の大きなデスクがお出迎えしている。
生徒会長はその机の端に尻を乗せ、長い脚を優雅に組んでいた。
僕が頭を下げると、軽く右手を挙げた。
「それでは、こちらの生徒会予備室へどうぞ」
他の執行役員はどこに居るのだろうか? もう一つ部屋があるのだろうか?
場違いな空気に、居心地の悪さを感じていた。
吉野さんに促されるまま、僕は重厚なドアの奥へと入った。
無機質な会議用テーブルとパイプ椅子が並ぶ、静まり返った部屋。
二人きりになった瞬間、積もる焦燥感に耐えきれず、僕はすぐに口を開こうとした。
「吉野さん、あの――」
だが、吉野さんは僕を制するように冷ややかな声で言った。
「どうぞ、お話を続けてください」
ニコリともしない、冷たい表情。
来てはいけなかったのだろうか……。
戸惑う僕の目をじっと見つめながら、彼女は静かに唇だけを動かしていた。
声を出さず、口パクで、何度も――。
『ダ・メ』
その艶っぽい口元の動きに、あの放課後の記憶が蘇る。
あの全てが、僕の妄想ではなかったのか……?
こんな清楚で立派な人が、あんなふしだらな事をするはずが無い……。
そう思った矢先、彼女は僕の近くまで歩み寄り、頬に流れる汗を舌先で舐めとった――。
しかし、声が漏れそうになった瞬間、口元を抑えられてしまった。
『どうして?』
僕も口パクで返し、視線で訴える。
すると吉野さんは、手元にあった申請書の用紙を無造作に裏返すと、胸ポケットからペンを取り出し、紙の隅に小さな文字を走らせた。
『盗聴』
紙に躍る二文字を目にした瞬間、背筋に一筋の冷や汗が伝った。
(この部屋が……盗聴されているというのか……?)
信じられない思いで顔を上げると、吉野さんは静かに、こっくりと頷いた。
「では、説明を始めます。そちらにお掛けください」
促された場所に座ると、吉野さんは僕の真横にちょこんと座って、にっこりと笑った。
「――同好会の設立規約第三条に基づき、顧問教員の選任が必要となります」
吉野さんの声は、一切の淀みもなく澄み切っている。優等生そのものと言った、綺麗な発音と美しい発声。
けれど、彼女の右手は滑らかな動作でペンのキャップを外し、申請書の裏側にサラサラと異常な速さで文字を走らせていた。
『口を動かせ。申請の質問をしろ』
『この部屋は会長に盗聴されている』
(盗聴……!? どういうことだ?)
喉が引き攣りそうになるのを必死で抑え、僕は震える声を出した。
「あ、顧問の先生は……まだ決まっていなくて……っ」
「では、そちらの決定が最優先事項ですね」
吉野さんは真剣な眼差しで、紙に言葉を書き連ねながら、冷静に僕の対応もしていた。
『質問に答える事以外、余計な事は何も話すな』
『物音を立てず、じっとしていて』
僕の緊張をほぐすためか、左手を僕の手に重ねてきて、視線を合わせると無言で頷いた。
「同好会の目的や、立ち上げメンバーなど……こちらの記入用紙にご記入いただけますか?」
「あっ、はい。……あの。同好会を作るのが初めてなので、何から始めたらいいのか分からないのですが……」
『どうしたの? 緊急事態でしょ?』
僕は頷いた。
「同好会は、自由に活動を始めることができる場です。気軽に申請していただけたら、後は生徒会でもサポートしていけることがあると思います」
「はい。……よろしくお願いします」
僕は頭を下げながら、ペン先の文字を追った。
吉野さんは、冷静にアドバイスを口にしながらも、右手は一切止めず、僕に質問を繰り返す。
『今、すぐ伝えるべきこと? あと一時間で帰れるけど』
僕は一度ためらって、『きりやま』と、口パクをした。
吉野さんは頷きながら、ペンを走らせ、
「顧問の先生の心当たりはあります。現在、社会科の古井戸先生、2年副担で現国の石田先生がフリーだったはずです。私からも伺っておきますね」
と、口頭で言いながら、右手でペンを走らせる。
まるで右脳と左脳が完全に独立して、別の演算を行っているかのように、彼女は完璧な生徒会役員を演じながら、文字で僕を詰問していた。
『1.霧山に見られた 2.脅された 3.全部』
吉野さんが、ペンの後ろを机に当てて、コンコンと合図する。
僕は3回鳴ったところで頷いた。
吉野さんはニッコリと笑って言った。
「承知しました。それではこちらのご記入が終わりましたら、また明後日にでも、私をお尋ねください。これから私が窓口になります」
吉野さんは、僕の肩に頭を乗せて、唇を尖らせた。甘えるような仕草に心拍数が上がる。
僕は音を立てないように、触れるだけのキスをした。
紙の上に残された冷静な「文字」を見る。
彼女の今の表情は柔らかい。
だが先ほどまでは、発する言葉も表情も、今とは全く違う顔。
そして、生徒会役員としての落ち着き払った「声」。
どれが本当の彼女の姿なんだろう。
僕の知る放課後の、妖艶な吉野さん。
生徒副会長としての冷静沈着な姿。
こうして甘えてくるときの、幼く可愛らしい姿……。
複数の異なる情報が脳内に流れ込んできて、僕は軽いパニックに陥りそうだった――。




