観客
視界がぼやけ、景色が揺れているようだった。
耳鳴りがする。
「しばらく俺がこうしててやるよ」
心配するような優しい声で、霧山が語りかけてくる。
――こうなった元凶は、お前だろ!
僕は言いかけて、やめた。
身を捩り、振り解こうとしたが、霧山の胸元に強く抱えられ、簡単には抜け出せなかった。
霧山の胸元から立ち昇るムスクの香りが、一段と濃くなった気がした。
むせ返るような霧山の匂いに、目の前が、くらくらする。
霧山の息が掛かる距離……。
逃げ出せないように、拘束されたみたいだ。
――この状況を誰かに見られたら、完全に勘違いされそうだな。
……そう思った瞬間、心臓の鼓動が激しくなった。
胃をひっくり返しそうなほどの、強烈な吐き気。
笑っているのに、笑っていない。
笑顔の裏に潜むその正体に、未だ辿り着けていない現実。
笑いながら脅してくる――完全に、サイコパスじゃないか。
何を企んでいるのか、全く予想がつかない。
その不安感で、呼吸が荒くなっていく。
霧山は、真剣な顔で僕を真上から見下ろし、視線をじっと合わせてくる。
逃げ場のないこの状況に、軽く絶望していた。
僕も反射的に、霧山の顔を睨むように見返した。
そしてしばらく、互いに目を反らすことなく、二人で睨み合っていた。
完全に弄ばれてる。
呼吸が整い始めると、視界もクリアになった。
吐き気も治まってきたようだった。
「ありがとう。霧山……もう大丈夫だから」
「……まだ、だめだよ」
腕に霧山の指先が食い込む。
「もう治まった」
「急に動いたら危ないよ」
「大丈夫……ありがとう」
霧山は、ふーっと息を吐いて、軽く頷いた。
「わかった」
そして、にっこり笑うと、僕からゆっくりと離れる。
彼は、再び階段に座り直した。
そして横に少しずれると、「どうぞ」と左手で指し示した。
壁と霧山の間のわずかなスペース。
そこに座れと言ってるのだろうが、それじゃ身体が密着するんじゃないのか?
もやもやとしたが、僕は促されるまま、霧山の隣に座った。
案の定、少し動くだけでも肘が当たってしまう。
肩なんか、身体を斜めにしないと、ずっと当ったまんまだ。
霧山は、ひそひそと囁くような声で話し始めた。
「副会長の吉野さんと秘密の関係を結んだって、相当ヤバい脅しのネタがあるってことだよね?」
「だから、何も知らないよ。吉野さんと僕は何の関係もないんだ」
「でも、それだとおかしいんだ」
「何が……」
「この一週間、ずっと一緒に登校してるだろ?」
「それは。たまたま……」
「たまたま。並んで……指先を触れさせながら?」
「…………」
――プッ。
霧山は突然、吹き出した。
「甲斐って、誤魔化すの下手すぎん?」
「誤魔化すも何も……」
「言ったじゃん。俺、視力が異常にいいって」
霧山は逃げ場を塞ぐように、僕の目の前に腕を伸ばし、壁に手を着いた。
少しでも動けば口先が触れてしまう。
そんな距離感に、頭がバグってしまいそうになる。
霧山は、畳みかけてくる。
「もしかして、もうセックスしちゃった? んー……でも。甲斐って……まだ、童貞でしょ?」
「っ……!」
「吉野さんもまだ、経験してないから……」
霧山がくすっと笑った。
「……それであの、潮吹きって。……相当、変態でしょ、彼女」
怒涛の追及に、息が止まりそうになる。
一番隠しておきたかった生々しい光景を、容赦なく暴かれ、頭の中は完全にパニックだった。
しかし霧山は、顔色ひとつ変えず、どこか楽しそうに笑っている。
霧山が顔を傾け、顔を寄せた。
咄嗟に横に反らすと、再びプッと笑った。
「キスされると思った? 期待した?」
「ばっ……かじゃねーの!」
真顔で見つめられる。
「……いいよ。してやるよ」
霧山が唇を開きながら、顔をゆっくりと近付けてきた。
「……っ! いい加減にしろって!」
僕が左手で強く胸を押し返すと、ふっと横を向いた。
口の端で笑っている。
完全にからかわれていた。
耳元に注ぎ込まれる霧山の声。
そこから伝わる熱気が、僕をじわじわと追い詰めていく。
「俺の持ってるこのネタってさ、甲斐くんを脅すネタくらいにはなってるでしょ?」
僕は必死に声を絞り出した。
「……僕なんかを脅したところで、何のメリットもないだろ……」
「と、思うよね?」
霧山はくすりと鼻で笑い、僕の顔を覗き込んできた。
「でも、俺のネタってさ。君を脅してるようで……必然的に、吉野さんを脅すネタに帰結するんじゃない?」
言葉が出なかった。
確かにその通りだ。
僕がここで崩れれば、吉野さんの尊厳も、僕たちのあの濃密な時間も、すべてが破滅する。
僕の次の返事ひとつが、吉野さんの運命すら握られているのだ。
「……霧山くんが僕を脅して、得たいものって一体何なんだよ?」
吉野さんへの取り次ぎか。
それとも、この脅しのネタを使って、彼女と付き合う口実にでもしようとしているのか。
必死に思考を巡らせ、相手の狙いを予測しようとする僕に、霧山は事もなげに言った。
「それは……やっぱり、男子高校生ともなればさ。ねぇ、分かるでしょ」
やっぱりそうか。
コイツの狙いは吉野さんだ――そう確信しかけた瞬間、霧山の口から飛び出したのは、僕の予想を遥かに斜め上を行く言葉だった。
「単純なことだよ」
耳元でそっと息を吹きかけられる。
「俺を、観客にさせてほしい。……君と、吉野さんの倒錯した関係に、触れさせてよ」
――狂ってる。
観客になりたい?
あり得ないだろ、そんなの。
再び僕の目の前が、暗くなっていった――。




