他人
雲ひとつない秋晴れの朝。
まぶしい太陽の下、登校する生徒たちの賑やかな笑い声が、校門へと吸い込まれていく。
その喧騒の渦の中に、彼女の姿があった。
特進コースの制服の胸元を飾る、静謐な桔梗色のリボン。
そして、僕たち普通科の制服の襟元に結ばれた、深くくすんだ深緋のネクタイ。
鮮やかな対比を描くその二色が、眩しい太陽の下で僕と彼女の間に横たわる、決して越えられない階層の壁を雄弁に物語っていた。
特進コースの彼女は、校内No.1と称される、清楚で気品のある佇まいで歩く、生徒会副会長・吉野明日香。
そして、その数歩後ろを、ごく自然な歩幅を装って歩く普通科の僕――甲斐浩臣。
周囲から見れば、ただ登校時間が重なっただけの二人。
だが、決まった時間、決まった場所で待ち合わせ、触れ合うことも喋ることもせず、ただ並んで歩く約束をした。
歩く拍子に、ほんの少しだけ袖と袖が触れ合い、指先が掠れる。
触れるか触れないかという極限の緊張感に、僕の心臓は高鳴っていた。
(今すぐその細い腕を引き寄せて、自分のものだと叫びたい……)
脳内で何度も夢想する激しい熱情。
だが、校門をくぐった瞬間にその幻想は無慈悲に打ち砕かれる。
「おはよう、吉野さん。今日の朝のミーティングなんだけど――」
爽やかな笑顔で彼女に声をかけたのは、生徒会長の沖永 大湖。
容姿端麗、成績優秀。
裏では何人もの女子生徒を口説き落としているというヤリチン噂の絶えない、校内No.1の有名人。
彼は親しげに吉野さんの肩へ手を添え、親密な距離感で、そのまま彼女を生徒会室へと連れて行ってしまった。
吉野さんは断る素振りも見せず、綺麗なお辞儀をして彼に従う。
……特進と普通科。
校舎すら違う。
住む世界の違いを、目の当たりにさせる。
やっぱり僕なんかじゃ、彼女の視界にすら入れないのだ。
……いつも卑屈になってしまう。
僕が彼女と付き合えているのは、ただの彼女の気まぐれに過ぎない。
僕は彼女に奉仕し、欲望を叶えるためだけに存在しているに過ぎないのだから……。
彼女と生徒会長の後ろ姿を見送りながら、現実味のない熱情の行方に絶望していた。
僕は静かに心の中の幕を下ろした。
昼休みの賑やかな廊下で、窓枠に寄りかかり特進棟を眺めていた。
斜めから差し込む日差しが、教室に降り注ぐ。
秋の気配は至るところにあった。
髪を揺らし、耳元を流れていく風に吹かれていた。
特進棟で、今ごろ吉野さんは何をしているのだろう?
また生徒会室で、あの会長と話をしているだろうか?
肩に手を乗せられ、口説かれているかもしれない。
彼女はうまく断れるだろうか……?
――無理かもしれないな。
僕は、呆れて笑ってしまう。
彼女の恋人には、生徒会長の方がお似合いだ。
分かりきっている。
なんの取り柄もない、ただの腐男子の僕には、何一つ太刀打ちできる武器がない。
彼女を惹きつけておける魅力も、持ち合わせていない。
上級国民の気まぐれで迷い込んだ、一時のラッキースケベ。その程度の認識でいた方が、後々、気が楽かもしれないな。
顔を上げたとき、廊下の向こうのざわめきに気付いた。
人だかりが移動している。
女生徒の集団の中心に、生徒会長の顔が見えた。書記の平沢さん、廣田さん、会計の村木さん……。
集団に遅れて吉野さんの姿もあった。
生徒会執行役員の巡回だ。
定例会議のあと、各校舎を回って挨拶をしていく。
背景に花を纏い、華々しく堂々と歩いていく。
女生徒のみならず、男子生徒にとっても彼らの存在は別格だった。
大名行列さながらに人並みが移動していく。
ざわめきと歓声の中、吉野さんと視線が合った――。
心臓が跳ね上がった。
どくん、どくんと、聞いたことのない拍動に、目眩を起こしそうなほどの興奮。
放課後になれば、あの密室で誰にも言えない濃厚で歪んだ時間を共有しているというのに、眩しい太陽の下では、声をかけることすら許されない。
目の前に彼女がいるのに、こんなにも……遠い。
放課後のあの顔を知っている。
なのに僕は……ただ片想いをしているみたいだ。
そんな惨めな思考に苛まれながら、目を伏せる。
廊下の壁に寄りかかり、人混みが通り過ぎて行くのを見送った。
生徒会長が振り返ると、声をかけた。
「明日香! おいで」
そして吉野さんの手を掴むと、強引に引き寄せ、隣を歩かせた。
吉野さんは照れたように俯いたが、ゆっくり顔を上げると、一瞬だけ僕に視線を向けた。
――呼吸が、急激に荒くなる。
脈拍の異常を感じた。
すれ違う、ほんの数秒間。
大勢の生徒が行き交う人波の中で、彼女と僕の距離が極限まで縮まる。
もう視線すら合わさない。
完璧な『他人』の顔のまま、僕たちの身体がすれ違った――その刹那。
ぎゅっ。
すれ違いざまに、彼女の細い指先が、僕の手を強く握りしめた。
「……っ!?」
人混みに紛れた、わずか一秒にも満たない接触。
跳ねるように心臓が震える。
掌から伝わる彼女の体温と、指先を強く締め付ける自発的な服従の合図。
たったそれだけの刺激だった。
朝からの飢餓感と、極限まで高められていた神経が一気に跳ね上がる。
下半身へマグマのような熱い血液が、一気に流れ込み、僕は廊下の真ん中で、瞬時に絶頂を迎えた。
……エンドルフィンがμ受容体に結合し、強烈な多幸感と鎮痛作用をシナプスへ伝達させ…………これは、生物学的な抗えない反応……
目を閉じたまま、ビクビクと小刻みに揺れていた。
――壁があってよかった。
寄りかかり、快感を逃がすことができた。
荒くなった息を殺し、必死に理性を保つことだけを考える。
壁に手をつき、吉野さんの後ろ姿を見送った。
その時……。
「ねぇ、甲斐……」
背後から、静かに忍び寄る気配。
耳元で落とされた低い声に、僕の背筋に冷たい汗が伝う。
「……なんでさっき、副会長と手を握り合ってたの?」
振り向くと、そこには普段の軽い笑みを浮かべた、サッカー部のエースにしてキャプテンの――霧山 秀人が立っていた。
その瞳の奥には、逃げ場を塞ぐような歪んだ光が宿っていた――。




