蜜月
——吉野さんの唇から紡がれる『あの日』の光景。
僕の脳裏で、ずっと分厚い氷の底に閉じ込められていた記憶の霧が、一気に晴れ渡っていく。
(そうか……。僕は……)
マークミスでゼロ点をとり、チームを惨敗させ、仲間から罵倒されたあの日。
あまりの恐怖と惨めさに、僕の脳は『あの日起こったすべての出来事』を都合よくトラウマの奥底へと封印していた……。
僕が影の薄い「陰キャ」として息を潜めるようになったのも、女の子を遠ざけるようになったのも、あの日からだった。
僕の人生を狂わせ、僕の性癖を狂わせたのは——。
「……あれは、君だったんだね」
僕は弾かれたように息を呑むと、震える手で吉野さんの頬をそっと包み込んだ。
それから吉野さんの細い肩を抱き寄せ、その目を見つめた。
「僕の心も、身体も……人生ごと狂わせた女の子……。……君だったんだね」
「甲斐くん……」
記憶の中の少女の面影が、いま目の前にいる、凛とした副会長の姿へと重なっていく。
「……あの時のメガネの子、すごく可愛かったんだ。……あの日からずっと……僕の心を狂わせていた。あれは……吉野さん。君だった」
吉野さんの瞳から涙が溢れ出す。
――忘れていた。
――ずっと逃げていた。
この性癖の起源も、彼女への歪んだ執着も、すべてはあの日、彼女の血液が付着した袖口を舐めた、あの瞬間から始まっていた――。
「吉野さん……」
「はい」
落ちぶれて自信を失った僕の記憶の底に、ちゃんと吉野さんはいた。
「……思い出したよ」
僕が言うと、吉野さんは涙を流し頷いた。
「僕はあの時、人生で初めて女の子に心を奪われ、自身が熱くなっていくのを感じた」
「……知ってる」
僕も吉野さんを見つめながら続けた。
「あの衝撃的な事件のせいで、僕は決定的なミスをしてしまった。僕は、どん底の地獄を味わった……」
身体を寄せ合い、息の触れ合う距離で、互いの胸の内を打ち明け合う。
呼吸は荒く、熱く、深くなっていく。
「それって、私のせい?」
「そうだよ」
「許してくれる?」
「許さない」
「……意地悪」
吉野さんは、僕の胸元に手を当て、やさしく押す。
僕は吉野さんをそのまま引き寄せ、力任せに抱きしめた。
そして再び、互いの舌を絡め合わせる――。
「好き」
「好きだ」
「好きよ」
「好きだよ」
唇を離すことなく、告白を続ける。
僕たちは完全に酔っていた。
再会できた喜びと、互いの恥辱に塗れた思い出を語るうち、心の底から湧き上がる得体のしれない興奮の波が幾度も押し寄せる。
後で思い出すと、きっと、おかしくて吹き出してしまうようなことを、勢いのまま平気でやり続けた。
「私が生まれてきた理由は、あなたという絶対的な支配者に出会うためだったんだって……今、完全に理解したわ」
心に浮かぶ想いを一言一句漏らさぬように、全てを吐き出し、伝え続ける。
「あなたを感じた瞬間、全身の細胞が歓喜で震え……脳の深い場所が、溶けていく快楽に支配された。私があなたに囚われるのは、数学の定理よりも確実で、美しく不可避な証明なのよ……」
僕たちは互いこそが運命の人で、欠けた自分を満たす、かけがえのない存在なのだと認識しあった。
ようやく巡り会えたパズルのピースを確かめるように、僕たちは何度も何度も、熱いキスを交わす。
唇と舌が絡み合い、甘く熱い吐息が交差する。
夕闇の中、ただひたすらに艶めかしい水音が頭の中に反響していた。
互いの肉体に指先を這わせ、すべての快楽を拾っていく。
僕は彼女を求め、彼女は僕を求めた。
「あの日、私はあなたに恋をして……完璧な出会いを果たした。私は、あなたを感じた瞬間、魂が震えた。それは……脳髄から甘い蜜が溢れ出すみたいに、とても甘美な経験だったわ」
吉野さんは僕の耳元に、その濡れた舌先を這わせた。
背筋に、電流が走り抜ける。
「私……もう、あなたじゃなきゃ感じられない身体になってしまったの。あの日、初めて生理が来た日から、毎日欠かさず、あなたのことだけを想って一人でこの身を慰めてきた。……一日だって欠かしたことはないのよ……」
俯いた吉野さんの顔を、指で引き上げる。潤んだ瞳が、キラキラと輝いていた。
「すごいな。すごく、いやらしいんだね……吉野さん……」
「いや。……『吉野さん』、なんて言わないで」
「……あすか」
「はい」
「明日香」
「はい!」
吉野さんは嬉しそうに僕に飛びつくと、耳元にぴたりと顔を寄せた。
細い指先が僕の制服の襟元を優しく撫で上げ、背筋に心地よい痺れが走る。
「浩臣くん……私を、もっとあなたでいっぱいにして」
「そんな風にねだられたら、僕……もう我慢できないよ」
「私は……ずっと我慢できてなかったわ」
――んむ……っ、ちゅ、ふぁ……
吉野さんは僕の耳たぶを噛み、その中に舌を差し入れてきた。
「吉野さん。汚いよ」
「汚くないわ」
「……」
「……ううん……汚くてもいいの」
僕も吉野さんの耳たぶを噛み返した。
吉野さんの甘い吐息が漏れると、僕の全身を刺激する。
僕たちは互いを確かめ合うように深く抱き合い、夕闇の中に溶けていく。
……ふふ。
作者も予想外の展開になってしまった。
勝手にこんなことして、けしからん!☹




