淫血
「んっ……ふ……あむ……っ」
唇を塞がれたまま、耳奥で軽快な水音が響いていた。
吉野さんの熱い吐息に、思考は麻痺していく。
(僕の椅子を……?)
頭の中の前提が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちる。
吉野さんは舌を引くと、濡れた唇を微かに歪め、真剣な眼差しで僕を見つめた。
「……忘れちゃった?」
「え?」
「中学二年の秋。県の中学生数学競技会……」
その単語を聞いた瞬間、僕の背筋に冷たい氷が突き刺さった。
――記憶の底に封印していた、僕の人生の最初にして最大の挫折。
「あの時のあなたは……私にとって、紛れもなく白馬に乗った王子様だった」
吉野さんは僕の身体に寄り添い、しなだれかかりながら、静かに語り始めた。
——それは、大会会場の大型ホールでのこと。
各校の代表が集まる壇上。
スポットライトを浴びながら、プロジェクターの前に立っていたのは中学時代の甲斐だった。
当時の甲斐は私立中学の生徒会長を務め、県内でも知られた数学のトップランナー。
大勢の観客と男子生徒たちの視線を一身に集めながら、難解な数式をスラスラと黒板に滑らせ、堂々と解法をプレゼンしていた。
客席の後方。
三つ編みに丸メガネをかけた地味な少女——吉野明日香は、息をのんで壇上の甲斐を見上げていた。
圧倒的な知性と自信に満ちた佇まい。
自分とは住む世界が違う、完璧で孤高の天才。
憧れていた。
自分には理解も及ばなかった難解なロジックを、教師の指導よりも遥かに優しく解りやすく紐解いてくれるその知識力に、心の底から心酔していた。
甲斐の静かな語り口で、耳元に囁かれる想像をして、何度も至っていた。
抱きしめられたい。
抱かれたい。
難解な数式の狭間にこの身を沈め、甲斐に、野生のままに解かれめちゃくちゃにされたい——。
まだ中学生だった吉野にはその意味さえも分からなかったのに、身体の芯から求めているものが彼なのだと悟った。
彼をこの身に沈め、閉じ込めてしまいたい。
私の空虚なこの穴を満たしてくれる。
彼ならきっと。
自分に夢中にさせ、ぴくりとも身動きが出来なくなるほどに締め上げ、彼と溶け合い融合したい——。
その瞬間、つと流れる温かい感触が下半身から伝わる。
しばらくは身をよじり逃がそうとした。
しかし会場の照明が点き、人々が移動を始めたとき、周囲がざわめく。
会場のほとんどが男子生徒で埋め尽くされていた。
その中で吉野は突然の生理に見舞われたのだった。
白い制服のスカートに、鮮血がしっかりと滲んでいた。
慌てて立ち上がった太ももの間から、紅く鮮やかな一本の筋が流れる。
青ざめて震える彼女に気づいた周囲の男子たちが、ヒソヒソと下劣な笑いを漏らし始めていた。
『おい見ろよ、あいつ……』
『うわ、うっそだろ、スカート血まみれじゃん』
屈辱と羞恥で、世界が真っ暗になった。
両手で顔を覆い、座りこもうとしたその時、壇上から駆け寄ってきた——甲斐浩臣。
上着を脱ぎながら駆け寄り、吉野の腰に巻きつける。
抱き締めて、人々の視線から隠すように真横の出入り口に誘導した。
その自然で完璧な振る舞いに、吉野の心は震えた。
いや……。
人々の悪意の眼差しの中心で、恥辱と羞恥の決壊により、精神が崩壊し心が震えたのだろうか……。
甲斐に抱き締められながら、口の端が上がっていくのを感じていた。
(怖い。………でも…………みんな見て)
興奮した。
甲斐を見て至った自分を恥じながら、女性ホルモンの異常な高まりから初潮を迎えたことを理解した。
顔を上げれば、真剣な甲斐の横顔がある。手を伸ばせば触れられる……。
だけど、今はだめだ。
理性で押さえ込んだ。
そうして鬱屈した欲望は、甲斐に再会し爆発したのだった。
一方、甲斐もまた正気ではいられなかった。
壇上から少女の恥辱の現場を目撃し、自身も固く立ち上がってしまった。
それを恥じた自分を奮い立たせ、彼女を救うことにしたのだ。
自分の学ランの上着を脱ぐと、周囲の嘲笑を遮るように、吉野の腰元へ静かに掛け、隠す。
その細い身体に触れると、小刻みに震えていた。
指先は氷のように冷たく、息も荒い。
濡れた瞳で見上げられ、思わず抱きすくめた。
会場から出よう。
男の好奇の目線から、一刻も早く彼女を逃してやりたいと思った。
顔を下げれば、彼女の頬に触れそうな距離。
甘く熱い吐息が、ずっと首筋に掛かっていた。
人の目が無ければ……彼女のその口にキスをしたい。
尽きぬ欲望を押し殺し、彼女を会場の外へと出した。
吉野は呆然と立ち尽くしていた。
膝はガクガクと震えていた。
甲斐は、ポケットの中のハンドタオルで太ももの血液を拭ってやった。
白く細いふくらはぎから、スカートの際のところまで。
その先へ手を差し入れることはしなかった。
だが経験もなく、まだ中学生の甲斐には十分すぎるほどの刺激だった。
熱を帯び堪らなく疼く身体で、二人暗がりの中、秘密の時間を共有していた。
甲斐はシャツを脱ぎ、彼女のスカートに巻きつけ、女子トイレに連れて行った。
自分は肌着の上に直接制服を着た。
そこまでしか覚えていない。
彼女とどうやって分かれたか、どんな会話をしたか、何も覚えていなかった。
気が付くと、午後からの競技本番が始まっていた。
記入用紙の端に、赤い色がついた。
ふと見ると、自分の制服の袖口に血液が付いていた。
彼女の深部から溢れた、いやらしくも魅惑的な一滴。
試験中、甲斐は思わず袖口の血液を……
舐めた——。
数学の問題を解きながら、頭の中は彼女のことでいっぱいだった。
抱き締めたい。
この熱いものを、彼女に受け取って欲しかった。
濡れたその唇に触れたかった——。
そして、致命的なミスを犯してしまう。
記入欄を一つずつ下にズラしてマークしてしまったのだ。
全問正解ペースだったはずの答案は連鎖的にすべて不一致となり——結果はまさかの最下位、ゼロ点。
チームを道連れにして惨敗した甲斐に対し、周囲の手のひら返しは苛烈だった。
『大口たたいてマークミスでゼロ点かよ』
『あいつのせいで負けた』
『期待外れのハッタリ会長』
ハブられ、陰口と嘲笑の標的となった甲斐はプライドを打ち砕かれ、「陰キャ」へと転落していった。
だが——吉野にとっては、その日はどん底の地獄であり、同時に絶対の救済の日だったのだ。
「……あの時からずっと、私の王子様はあなただけよ」
靴箱の陰、夕闇の中で吉野さんは涙を溢れさせながら微笑んでいた。
「あなたが自信を無くして、私を見ようともしなくなっても……私だけは覚えていたわ。私を救ってくれた。賢くて、優しくて、勇敢な私のご主人様」
「吉野さん……」
僕は手を伸ばし、吉野さんの胸に顔を埋めた。
ドクドクと激しい心臓の音。
僕たちは完全な暗闇で、息も絶え絶えに、互いの身体を弄り続けていた……。




