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メイドとパンストか、ガーターか

 日曜日の朝、開店前。

 裏方は静かなはずだった。

 はずだった。

「ねえ、パンスト派って人生で一回でも楽しいと思ったことある?」

 また飛んだ。


 発言の主は坂田ユカだ。今この瞬間、ロッカーの前で自分のガーターベルトのクリップを三回外して三回つけ直しながら喋っている。手が暇だと口が動く。生まれつきらしい。


「楽しいと思ったことなら、昨日の閉店後に帳簿を合わせたときです」

 リンが、パンストのつま先を丁寧に整えながら返した。答えが完璧にずれている。本人は気づいていない。

「それパンスト関係ないじゃん」

「質問が曖昧だったので、直近で楽しかったことを答えました」

「あたしの質問のどこが曖昧なの」

「『人生で一回でも』の主語がユカさん自身なのか、パンスト装着者全般なのかが不明でした」

「全般に決まってるでしょ」

「では答えが変わります。統計を持っていないので、回答不能です」

「統計取れないじゃん」

「だから回答不能と言いました」

 ユカはクリップを四回目に外した。

「…話しにくい女だな本当に」

「ありがとうございます」

「褒めてない」

「存じています」


 私はコーヒーを飲みながら発注書を確認する。これが私の至福の十分間のはずだった。

 はずだった。


「でも実際さあ」とユカが続ける。「パンストって、色気なくない?」

「条件によります」と神田ミサキが手を挙げた。今日もエプロンを算術的に折り畳んでいる。畳む必要はない。本人が落ち着くらしい。

「条件って何」

「気温です。十五度以下ならパンストが正解。保温性、シルエットの均一性、摩擦の低減、全部パンストが上。ガーターはその点で構造的に不利です。クリップが外れるリスクもある」

「外れない」とユカ。

「外れます。確率の問題です」

「あたしのは外れない」

「ユカさんの個体差を統計に組み込む根拠がありません」

「でも夏は?」とユカが食い下がった。

「夏は逆転します。素足に近い感覚で動ける、通気性、洗濯の容易さ。ガーターとストッキングを分離管理できる点も合理的です。ただし視覚的印象で言えば、デニール数を十五以下に下げたパンストは光の屈折で肌の透明感が増す。これも一種の色気に含まれます」

「じゃあパンストでいいじゃん」とユカ。

「冬は。夏はガーターが合理的です」

「どっちの味方なの」

「どちらでもありません。条件の味方です」


 ユカはクリップを五回目に外した。


 裏口のドアが開いた。

 荒木ハナだった。今日は絆創膏がない。珍しい。平和な夜だったらしい。

「なんの話」

「パンストとガーターどっちが色気あるか」とユカ。


 荒木は答えなかった。


 代わりに、ロッカーを開けて着替えを始めた。メイドスカートを穿いて、エプロンを結んで——それからためらいなくスカートの裾を両手でまくった。太ももの中ほどまで。全員に見えた。

 黒いボクサーブリーフだった。

「…荒木さん」とリン。

「冬はこれ」と荒木、スカートを戻しながら。「暖かいし動きやすい。パンストはトイレが面倒だ」

「それは確かに」とユカ。感心した顔をしている。


 私は発注書から目を上げた。


「それ」と私は言った。「ウエストのライン、オレンジのやつか」

 荒木が私を見た。

「そう。なんで知ってんの」

「持ってる」

 荒木の顔が少し変わった。珍しい顔だ。

「あれ、いいよな」

「いい。縫い目が当たらない」

「走っても落ちないし」

「蹴っても動かない」

「そうそう」

「……」


 全員が私を見た。


「店長は蹴る機会があるんですか」とミサキ。

「ない」と私は言った。

「では走る機会は」

「ない」

「ではなぜ——」

「快適なものを選んだ結果そうなった」

「快適さの基準がハナさんと一致していた、ということですか」

「そういうことになる」


 荒木は少し嬉しそうな顔をした。認められると単純に喜ぶ。これは変わらない。


「じゃあ店長は」とユカが身を乗り出した。「パンスト派?ガーター派?」

「私の話をした覚えはない」

「今したじゃん」

「ボクサーの話をした」

「それ下着の話じゃん、つながってるじゃん」

「つながっていない」

「じゃあ何派なの」

「発注書を書いている」

「逃げた」とユカ。

「業務中です」


「色気の話からそれましたね」とリンが静かに言った。

「荒木さんのせいです」とミサキ。

「あたしのせいじゃない」と荒木。

「スカートをまくったのは荒木さんです」

「見せた方が早かった」

「早さと適切さは別の話です」


「でも荒木の言いたいことわかる」とユカが膝を叩いた。「色気って纏う人によるじゃん。荒木はボクサーでも荒木だし、リンはパンストでも色気あるし」

 全員がリンを見た。

 リンは表情を動かさなかった。

「…ありがとうございます」

「褒めてるから素直に受け取れよ」と荒木。

「受け取りました。ただしその評価基準が主観である点は留保します」

「褒め言葉にデータを求めるな」

「習慣です」


「あのさ」と荒木が言った。「そもそも仕事中に色気出していいの」

 全員が少し黙った。

 私もコーヒーを一口飲んだ。関わらない。これが正解だ。


「でもさ」とユカが方向を変えた。「普段の話。仕事以外。デートとかさ、どっち選ぶ?」

「デートの経験がないので仮定になります」とミサキ。

「仮定でいいよ」

「相手の属性によります」

「また属性か」とユカ。

「重要な変数です。相手が視覚情報を重視するタイプなら、段階的開示の構造を持つガーターが有効かもしれません。相手が安定感を好むタイプなら、均一なシルエットのパンストが好印象を与える可能性がある」

「デートを最適化するな」

「最適化しないと失敗するかもしれません」

「失敗してもいいんだよ、デートは」

 ミサキは三秒考えた。

「…その発想が私には、まだよくわかりません」

 ユカは少し黙った。

 珍しく、責めなかった。

「まあ、そのうちわかるよ」

「そうですか」

「そうだよ」


「あたしは」とリンが言った。静かに。ほとんど独り言のように。

 全員がリンを見た。

 リンはエプロンの紐の端を、指先でかすかに整えた。

「普段は、パンストです」

「そうだろうな」とユカ。

「ただし、選ぶ理由は色気でも合理性でもありません」

「じゃあ何?」

 少し間があった。

「慣れているので」

 全員が少し黙った。

「…それが一番正直かもしれない」とユカ。

「そうかもしれません」とリン。

 荒木が伸びをした。

「あたしはボクサー」

「「「知ってる」」」

 三人の声が揃った。


 私は発注書に視線を落とした。

 開店まで、まだ三十八分ある。

 色気の定義。条件の最適解。慣れているから、という答え。

 どれも発注書には書けない。

 書いたところで、仕入れられるものでもない。

 この馬鹿どもが今日も客の前で笑顔を作るのだから、世界というのは不思議なものだ。

 私はそれを、ただ見ている。


【了】


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