メイドとアイデンティティ
日曜日、閉店後。
床の掃除が終わった。
ユカとハナが最後の区画を片付けた。私は厨房の洗い物を終えて、裏方に戻った。いつものラップトップを開く。発注の確認と、来週のシフトの調整。これが閉店後の私の仕事だ。静かにやれる。
リンとミサキはすでにテーブルの端に教科書を広げていた。珍しくもない。この二人は空き時間があれば課題をやる。リンがやるのはわかる。ミサキがやるのも、まあわかる。不思議なのは、この二人が並んで座ると、なぜかリンがミサキに問題を聞く側に回ることだ。
「この証明、どこで詰まっていますか」とリンが静かに言った。
「三行目です。仮定の展開順序が逆です」とミサキ。「こうすれば——」
私はコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
豆を挽く音が裏方に広がった。
ユカが入ってきたのは、コーヒーが落ち切る少し前だった。
エプロンを外しながら、椅子を引いて、向かいに座る。いつもの動線だ。何かが目に入った、という顔をしている。これは嫌な予感のする顔だ。
「ねえ」
「なんだ」
「あたしたちって、メイドなの?」
リンの鉛筆が止まった。
ミサキが手を挙げた。
私はコーヒーを注いだ。
ハナが戻ってきたのはそこだった。モップを片付けて、手を洗って、椅子を引いた。ユカの隣に座る。
「なんの話」
「あたしたちがメイドかどうか」とユカ。
「メイドだろ」とハナ。即答だった。「制服着てる」
「でも秋葉原のメイドって、踊るじゃん」とユカ。「客と遊ぶじゃん。『萌え萌えキュン』とかやるじゃん」
「……なにそれ」とハナ。
「やったことない?」
「ない」
「知らない?」
「知らない」
「店長は?」
「知っている」と私は言った。ラップトップから目を上げずに。
「でしょ。あれがメイド喫茶じゃん。あたしたちは何?」
「お客様のご注文を承り、飲食物をご提供する業態の従業員です」とリンが言った。教科書を閉じながら。諦めたらしい。「それ以上でも以下でもありません」
「それ喫茶店じゃん」
「そうです」
「メイドじゃないじゃん」
「衣装がそうなっているだけです」とリンは言った。「混同する方が不正確です」
「でもさ」とユカが続けた。「本物のメイドって何?」
「定義によります」とミサキが手を挙げた。「まず時代区分が必要です。十九世紀英国のヴィクトリア朝メイドを基準にするなら——」
「それにしよう」とユカ。
「彼女たちは住み込みで、朝五時から働き、石炭を運び、暖炉を掃除し、家族全員の衣類を管理し、食事の準備と後片付けを行い、来客の応対をして、就寝は夜十一時以降です。休日は月二回。給与は現代換算で手取り月五万円前後」
全員が少し黙った。
「……休みが月二回?」とハナ。
「多い年で」
「……」
「なお雇用契約は存在しません。解雇は主人の一言で即日有効です」
「それ奴隷じゃん」とユカ。
「労働条件だけ見るとそう近いです」
「あたしたちの方が全然マシじゃん」
「比較にならないほど」
ハナが腕を組んだ。「じゃあ何が同じなの、あたしたちと」
「衣装だけです」とミサキ。「フリルとエプロンの意匠がそこから派生しています。ただしフランスを経由してから日本に輸入されたので、原型からはすでにかなり変形しています」
「フランス経由?」
「フランスのブラッスリー文化と混合されて、その後日本のサブカルチャーが独自に再解釈しました。今のメイド喫茶の衣装は英国でもフランスでもなく、主に一九九〇年代の日本のアニメとゲームの影響下にあります」
「それコスプレじゃん」とユカ。
「定義上、かなり近いです」
リンが静かに言った。
「つまり私たちは、本物のメイドでも、秋葉原的なメイドでもなく、アニメのコスプレをしながら飲食を提供している従業員、ということですね」
「端的に言えば」
「……なるほど」
リンの声のトーンは平坦だった。怒っているのか受け入れているのか、私にも判断できなかった。
「それを、世間はメイド喫茶と呼んでいる」
「呼んでいます」
「呼ばせておけばいいですね」
「呼ばせておけばいい」と私も言った。
リンが私を見た。
「同意見ですか」
「業態の呼称より内容の方が重要だ。うちは料理がまともで、コーヒーがちゃんとしていて、接客が機能している。客はそれで来ている」
「割高でも来ます」とリン。
「割高でも来る」
「……まあ」とリンは言った。そこで止まった。
一ミリも崩れていない顔だったが、何か小さいものが通過した気がした。
「でもさあ」とユカが頬杖をついた。「コスプレカフェってことは、もっとかわいい衣装にできるじゃん。ミニスカとか、フリルもっと多いやつとか、色もバリエーションあっていいじゃん。ピンクとか、水色とか」
「衣装は私の管轄外だ」と私は言った。
「え、誰の管轄なの」
「オーナーだ」
「オーナーに言えないの?」
「言える。ただ決めるのは向こうだ。私はただの店長で、オーナーではない」
「……みんなそう思ってないけど」とユカが言った。
「知っている。訂正する機会を逃し続けている」
ユカは少し笑った。
「でもさ、もしミニスカになったら、あたしの自撮り、バリ映えるんだよね。フォロワーにも需要あるし。ちょっとフリルあるだけでエンゲージメント違うんだよ、マジで」
「需要を数値で持っているなら提案書に書いてオーナーに送れ」と私は言った。
「提案書って何」
「Word文書でいい。三行あれば足りる」
「三行……書けるかな」
「書けないなら却下と同じだ」
ユカは真剣に考える顔をした。珍しい顔だ。三秒で終わった。
「まあ、いっか」
「そうだな」
「でも」とハナが言った。
声が少し低かった。
「ミニスカ、似合う人とそうじゃない人、いるじゃん」
ユカが横を向いた。
「似合うでしょ、ハナは」
「……」
ハナは少し間を置いた。
「うちの学校、去年の文化祭でメイド喫茶やったんだよね。クラスの出し物で」
「へえ」
「そのときの衣装、かわいかったんだよ。ミニスカで、レース多くて、白と黒じゃなくて、えーと、くすんだピンクみたいな」
「モーブ?」とミサキ。
「知らない、そういう色」
「くすんだピンクならモーブかダスティローズです」
「……そのどっちかかも」
ハナはテーブルに視線を落とした。
「やってた子たち、すごくかわいかった」
ユカが少し黙った。
「ハナもやったの? 文化祭」
「……見てただけ」
一拍あった。
「クラス違ったから」
それだけ言って、ハナはテーブルを見たままだった。
私はコーヒーを一口飲んだ。ラップトップの画面を見た。シフト表がそのままある。
「でもあれだよ」とユカが言った。
ハナを見ながら。
「うちの制服、動きやすいじゃん。フリル多いやつって、引っかかるんだよね、動くと。バイトしながらあれは無理だよ、正直」
「合理的ではないです」とミサキ。「装飾過多のスカートは可動域を物理的に制限します。運搬業務において明確なデメリットです」
「あたし、この制服わりと好きだよ」とユカが続けた。「動けるし、自撮り角度によってはちゃんとかわいいし」
ハナが少し顔を上げた。
「……ユカさんはどこでも映えるじゃん」
「フォロワーの錬成の賜物だよ。修行だから」
「修行って」とハナ。
「そう。どう見せるか、毎回考えてる。生まれつきじゃない」
ハナはまた少し黙った。
そのまま何も言わなかった。
「ところで」とリンが言った。静かに、完璧に。
「なんですか」とミサキ。
「萌え萌えキュン、というものは」
「はい」
「実際にどういうものですか」
「ご覧になりますか」
「概要だけ」
ミサキは手を挙げた。
「特定の動作と台詞のセットです。店舗によって差異がありますが、標準的には両手でハートを作りながら『萌え萌えキュン』と発声します。客に向けて行います。起源は諸説あります」
「……」とリン。
「やってみましょうか」
「絶対にやらないでください」
「わかりました」
「永遠にやらないでください」
「理解しました」
「私が見ている前では特に」
「明文化します」
私はラップトップを閉じた。
シフト表は終わった。発注書もいい。
「本物のメイドではない、コスプレに近い、それでも客は来る」
誰に言うでもなく言ったら、全員が私を見た。
「それでいいんじゃないか」
「……店長らしい締め方です」とリンが言った。
「褒めていない顔だ」
「褒めていません」
「知っている」
ハナが少し笑った。気づかなければ見逃す程度の笑い方だった。
「でもまあ」とユカが立ち上がりながら言った。「かわいい衣装、ちょっと見てみたいよね。オーナーに言っといてよ、店長」
「検討する」
「検討って却下の意味でしょ」
「検討だ」
「同じじゃん」
「違う」
ユカはエプロンをロッカーに押し込んだ。
ハナはもう立っていた。先に外に出る気だ。
「ハナ」とユカが言った。
「なに」
「その文化祭のやつ、写真ある?」
ハナが止まった。
「……ない」
「そっか」
「うん」
ドアが開いた。
ハナが先に出た。
ユカが後を追うように出た。
リンとミサキが教科書を片付けた。
「勉強、終わりましたか」と私は言った。
「証明は終わりました」とミサキ。
「私は半分です」とリン。
「帰ってやれ」
「そうします」
リンが立ち上がって、椅子を静かに引いた。
「店長」
「うん」
「萌え萌えキュン」
「うん」
「……ああいうことを、この店のスタッフに求める方は、いらっしゃいますか」
「来たことはない」
「そうですか」
「なぜ」
「べつに」とリンは言った。完璧に何でもない声で。「ただの確認です」
ドアが閉まった。
私はコーヒーカップを片付けた。
裏方が静かになった。
文化祭の写真がない、とハナは言った。
見ていただけだったからか、持っていないのか、聞かなかった。聞く理由もなかった。
明日の発注書には、コーヒー豆と、業務用の食器洗い洗剤と、予備エプロンが四枚ある。
衣装の変更は、私の管轄ではない。
ただの店長だ。
オーナーではない。
私はジャケットを取って、電気を消した。
【了】




