表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

メイドとアイデンティティ

 日曜日、閉店後。

 床の掃除が終わった。

 ユカとハナが最後の区画を片付けた。私は厨房の洗い物を終えて、裏方に戻った。いつものラップトップを開く。発注の確認と、来週のシフトの調整。これが閉店後の私の仕事だ。静かにやれる。

 リンとミサキはすでにテーブルの端に教科書を広げていた。珍しくもない。この二人は空き時間があれば課題をやる。リンがやるのはわかる。ミサキがやるのも、まあわかる。不思議なのは、この二人が並んで座ると、なぜかリンがミサキに問題を聞く側に回ることだ。

「この証明、どこで詰まっていますか」とリンが静かに言った。

「三行目です。仮定の展開順序が逆です」とミサキ。「こうすれば——」

 私はコーヒーメーカーのスイッチを入れた。

 豆を挽く音が裏方に広がった。


 ユカが入ってきたのは、コーヒーが落ち切る少し前だった。

 エプロンを外しながら、椅子を引いて、向かいに座る。いつもの動線だ。何かが目に入った、という顔をしている。これは嫌な予感のする顔だ。

「ねえ」

「なんだ」

「あたしたちって、メイドなの?」

 リンの鉛筆が止まった。

 ミサキが手を挙げた。

 私はコーヒーを注いだ。


 ハナが戻ってきたのはそこだった。モップを片付けて、手を洗って、椅子を引いた。ユカの隣に座る。

「なんの話」

「あたしたちがメイドかどうか」とユカ。

「メイドだろ」とハナ。即答だった。「制服着てる」

「でも秋葉原のメイドって、踊るじゃん」とユカ。「客と遊ぶじゃん。『萌え萌えキュン』とかやるじゃん」

「……なにそれ」とハナ。

「やったことない?」

「ない」

「知らない?」

「知らない」

「店長は?」

「知っている」と私は言った。ラップトップから目を上げずに。

「でしょ。あれがメイド喫茶じゃん。あたしたちは何?」

「お客様のご注文を承り、飲食物をご提供する業態の従業員です」とリンが言った。教科書を閉じながら。諦めたらしい。「それ以上でも以下でもありません」

「それ喫茶店じゃん」

「そうです」

「メイドじゃないじゃん」

「衣装がそうなっているだけです」とリンは言った。「混同する方が不正確です」


「でもさ」とユカが続けた。「本物のメイドって何?」

「定義によります」とミサキが手を挙げた。「まず時代区分が必要です。十九世紀英国のヴィクトリア朝メイドを基準にするなら——」

「それにしよう」とユカ。

「彼女たちは住み込みで、朝五時から働き、石炭を運び、暖炉を掃除し、家族全員の衣類を管理し、食事の準備と後片付けを行い、来客の応対をして、就寝は夜十一時以降です。休日は月二回。給与は現代換算で手取り月五万円前後」

 全員が少し黙った。

「……休みが月二回?」とハナ。

「多い年で」

「……」

「なお雇用契約は存在しません。解雇は主人の一言で即日有効です」

「それ奴隷じゃん」とユカ。

「労働条件だけ見るとそう近いです」

「あたしたちの方が全然マシじゃん」

「比較にならないほど」

 ハナが腕を組んだ。「じゃあ何が同じなの、あたしたちと」

「衣装だけです」とミサキ。「フリルとエプロンの意匠がそこから派生しています。ただしフランスを経由してから日本に輸入されたので、原型からはすでにかなり変形しています」

「フランス経由?」

「フランスのブラッスリー文化と混合されて、その後日本のサブカルチャーが独自に再解釈しました。今のメイド喫茶の衣装は英国でもフランスでもなく、主に一九九〇年代の日本のアニメとゲームの影響下にあります」

「それコスプレじゃん」とユカ。

「定義上、かなり近いです」


 リンが静かに言った。

「つまり私たちは、本物のメイドでも、秋葉原的なメイドでもなく、アニメのコスプレをしながら飲食を提供している従業員、ということですね」

「端的に言えば」

「……なるほど」

 リンの声のトーンは平坦だった。怒っているのか受け入れているのか、私にも判断できなかった。

「それを、世間はメイド喫茶と呼んでいる」

「呼んでいます」

「呼ばせておけばいいですね」

「呼ばせておけばいい」と私も言った。

 リンが私を見た。

「同意見ですか」

「業態の呼称より内容の方が重要だ。うちは料理がまともで、コーヒーがちゃんとしていて、接客が機能している。客はそれで来ている」

「割高でも来ます」とリン。

「割高でも来る」

「……まあ」とリンは言った。そこで止まった。

 一ミリも崩れていない顔だったが、何か小さいものが通過した気がした。


「でもさあ」とユカが頬杖をついた。「コスプレカフェってことは、もっとかわいい衣装にできるじゃん。ミニスカとか、フリルもっと多いやつとか、色もバリエーションあっていいじゃん。ピンクとか、水色とか」

「衣装は私の管轄外だ」と私は言った。

「え、誰の管轄なの」

「オーナーだ」

「オーナーに言えないの?」

「言える。ただ決めるのは向こうだ。私はただの店長で、オーナーではない」

「……みんなそう思ってないけど」とユカが言った。

「知っている。訂正する機会を逃し続けている」

 ユカは少し笑った。

「でもさ、もしミニスカになったら、あたしの自撮り、バリ映えるんだよね。フォロワーにも需要あるし。ちょっとフリルあるだけでエンゲージメント違うんだよ、マジで」

「需要を数値で持っているなら提案書に書いてオーナーに送れ」と私は言った。

「提案書って何」

「Word文書でいい。三行あれば足りる」

「三行……書けるかな」

「書けないなら却下と同じだ」

 ユカは真剣に考える顔をした。珍しい顔だ。三秒で終わった。

「まあ、いっか」

「そうだな」


「でも」とハナが言った。

 声が少し低かった。

「ミニスカ、似合う人とそうじゃない人、いるじゃん」

 ユカが横を向いた。

「似合うでしょ、ハナは」

「……」

 ハナは少し間を置いた。

「うちの学校、去年の文化祭でメイド喫茶やったんだよね。クラスの出し物で」

「へえ」

「そのときの衣装、かわいかったんだよ。ミニスカで、レース多くて、白と黒じゃなくて、えーと、くすんだピンクみたいな」

「モーブ?」とミサキ。

「知らない、そういう色」

「くすんだピンクならモーブかダスティローズです」

「……そのどっちかかも」

 ハナはテーブルに視線を落とした。

「やってた子たち、すごくかわいかった」

 ユカが少し黙った。

「ハナもやったの? 文化祭」

「……見てただけ」

 一拍あった。

「クラス違ったから」

 それだけ言って、ハナはテーブルを見たままだった。

 私はコーヒーを一口飲んだ。ラップトップの画面を見た。シフト表がそのままある。


「でもあれだよ」とユカが言った。

 ハナを見ながら。

「うちの制服、動きやすいじゃん。フリル多いやつって、引っかかるんだよね、動くと。バイトしながらあれは無理だよ、正直」

「合理的ではないです」とミサキ。「装飾過多のスカートは可動域を物理的に制限します。運搬業務において明確なデメリットです」

「あたし、この制服わりと好きだよ」とユカが続けた。「動けるし、自撮り角度によってはちゃんとかわいいし」

 ハナが少し顔を上げた。

「……ユカさんはどこでも映えるじゃん」

「フォロワーの錬成の賜物だよ。修行だから」

「修行って」とハナ。

「そう。どう見せるか、毎回考えてる。生まれつきじゃない」

 ハナはまた少し黙った。

 そのまま何も言わなかった。


「ところで」とリンが言った。静かに、完璧に。

「なんですか」とミサキ。

「萌え萌えキュン、というものは」

「はい」

「実際にどういうものですか」

「ご覧になりますか」

「概要だけ」

 ミサキは手を挙げた。

「特定の動作と台詞のセットです。店舗によって差異がありますが、標準的には両手でハートを作りながら『萌え萌えキュン』と発声します。客に向けて行います。起源は諸説あります」

「……」とリン。

「やってみましょうか」

「絶対にやらないでください」

「わかりました」

「永遠にやらないでください」

「理解しました」

「私が見ている前では特に」

「明文化します」


 私はラップトップを閉じた。

 シフト表は終わった。発注書もいい。

「本物のメイドではない、コスプレに近い、それでも客は来る」

 誰に言うでもなく言ったら、全員が私を見た。

「それでいいんじゃないか」

「……店長らしい締め方です」とリンが言った。

「褒めていない顔だ」

「褒めていません」

「知っている」

 ハナが少し笑った。気づかなければ見逃す程度の笑い方だった。

「でもまあ」とユカが立ち上がりながら言った。「かわいい衣装、ちょっと見てみたいよね。オーナーに言っといてよ、店長」

「検討する」

「検討って却下の意味でしょ」

「検討だ」

「同じじゃん」

「違う」

 ユカはエプロンをロッカーに押し込んだ。

 ハナはもう立っていた。先に外に出る気だ。

「ハナ」とユカが言った。

「なに」

「その文化祭のやつ、写真ある?」

 ハナが止まった。

「……ない」

「そっか」

「うん」

 ドアが開いた。

 ハナが先に出た。

 ユカが後を追うように出た。


 リンとミサキが教科書を片付けた。

「勉強、終わりましたか」と私は言った。

「証明は終わりました」とミサキ。

「私は半分です」とリン。

「帰ってやれ」

「そうします」

 リンが立ち上がって、椅子を静かに引いた。

「店長」

「うん」

「萌え萌えキュン」

「うん」

「……ああいうことを、この店のスタッフに求める方は、いらっしゃいますか」

「来たことはない」

「そうですか」

「なぜ」

「べつに」とリンは言った。完璧に何でもない声で。「ただの確認です」

 ドアが閉まった。


 私はコーヒーカップを片付けた。

 裏方が静かになった。

 文化祭の写真がない、とハナは言った。

 見ていただけだったからか、持っていないのか、聞かなかった。聞く理由もなかった。

 明日の発注書には、コーヒー豆と、業務用の食器洗い洗剤と、予備エプロンが四枚ある。

 衣装の変更は、私の管轄ではない。

 ただの店長だ。

 オーナーではない。

 私はジャケットを取って、電気を消した。

【了】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ