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メイドと血痕

 日曜日の朝、開店前。

 裏方は静かなはずだった。

 はずだった。

 

 私の名前は言わなくていい。肩書きは店長。実態は、この動く災害たちの管理人だ。コーヒーを飲みながら発注書を確認する。これが私の至福の十分間だ。

 十分間。

 それだけあればいい。

「ねえ、エプロンに血が飛んだときってどうすんの」

 飛んだ。

 

 発言の主は坂田ユカ。二十六歳。フルタイム。今この瞬間、冷蔵庫から生ハムを一枚抜き取りながら喋っている。食材泥棒。借金総額、私への未払い立替分だけで四万二千円。数えるのをやめた。

「なんで血が飛ぶんですか」

 小野寺リンが、エプロンの紐を丁寧に結びながら返した。高校二年生。見た目は完璧な大和撫子。声のトーンは能の謡みたいに落ち着いている。ただし言葉の中身に、私への敬意が一ミリも存在しない。

「厨房で怪我するじゃん」

「怪我しないでください」

「するじゃん」

「しないでください、が正しい日本語です」

「じゃあするじゃん、を正しい日本語で言って」

 リンは三秒黙った。

「…することがあるかもしれません」

「そうじゃん」

 

 私はコーヒーを一口飲んだ。関わらない。これが正解だ。

「水で落とせばいいんじゃないですか」

 神田ミサキが手を挙げた。高校一年生。パートタイム。本人いわく「このメンバーで唯一まともに思考できる人間」。まあ、間違ってはいない。ただしその思考が、しばしば人類の理解を五十年ほど追い越す。

「水で落ちるの?」とユカ。

「血液は冷水なら落ちます。温水だとタンパク質が凝固して逆効果。基本です」

「へえ」

「ただし私のエプロンに血が飛んだ場合は、飛ばした人間に買い替えを要求します。なぜなら私のエプロンには私の知性が宿っているので、汚れること自体が損失です」

 私は発注書に目を落とした。

 知性がエプロンに宿るか。

 黙っておく。

 

「水ぶっかけりゃいいんだろ」

 裏口のドアが開いた。

 荒木ハナ。高校三年生。パートタイム。昨日も駅前で三人組と揉めたらしい。右の拳の皮が少し剥けている。仕事は、なぜか真面目にやる。人間とは不思議なものだ。

「おせーぞ荒木」とユカ。

「うるさい。電車乗ったら元同中のやつがいてよ、降りてもらった」

「降りてもらった、の意味を聞きたいような聞きたくないような」とミサキ。

「降りた、だよ。自分から」

「怖くて、ですね」とリン。

「そうだよ。あたしが悪いのか」

「荒木さんが『悪い』という概念の外側にいるのは全員理解しています」

 荒木は特に気にせず椅子を引いた。ヤンキー特有の、何も傷つかない顔をしている。これはこれで才能だと思う。

「で、血の話?」

「なんで知ってんの」とユカ。

「入ってくるとき聞こえた。エプロンに血が飛んだらどうすんの、でしょ」

「そう」

「んなもん、気にしなきゃいい」

 

 全員が荒木を見た。

 荒木はテーブルに頬杖をついた。

「血ぐらい飛ぶだろ。飛んだまま働けばいい。味は変わんねえ」

「客が見ます」とリン。

「気にする客がおかしい」

「いや普通気にするだろ」とユカ。生ハムを二枚目に移行している。

「じゃあ前掛けしろ」

「前掛けしたら血が前掛けに飛ぶじゃないですか」とミサキ。

「それでいい」

「それでよくない」とリン。

「じゃあ着替えろ」

「着替えは一枚しかないんですよ店長が」

 

 全員が私を見た。

 私はコーヒーカップを置いた。

「…予算の都合です」

「着替えを二枚にする予算と、血まみれのメイドを見た客が二度と来ない損失、どっちが大きいですか」とリン。礼儀正しい言い方で、完全に詰めている。

「発注しておきます」

「ありがとうございます」

 一ミリの感謝もこもっていない声だった。

 

「でもさ」

 ユカが生ハムを飲み込んだ。それ昨日入荷した分です。

「そもそも血が飛ぶ状況って、怪我だけじゃなくない?」

「は?」とハナ。

「ほら、たとえばお客さんが暴れるとか」

「暴れるお客さんを想定しないでください」と私。

「でも来るじゃん。たまに変なの」

 これは否定できない。

「じゃあ来たらどうすんの、あたしら。メイドだよ?刃物も持ってないし」

「警察呼べばいいでしょ」とミサキ。

「呼んでる間どうすんの」

「逃げればいいんじゃないですか」とリン。静かに、完璧に合理的な提案をした。

「逃げんのかよ」とハナ。不満そうに。

「逃げるのが正解です。戦う理由がありません」

「かっこわるい」

「かっこいいかどうかと生存率は別の話です」

 

「だからさあ」

 ユカが身を乗り出した。目が少し輝いている。嫌な予感がする。

「メイドって、もっと武装してていいと思うんだよね」

 三秒の沈黙。

「武装」とミサキが繰り返した。

「そう。護身用。ナイフとかさ」

「ナイフを持ったメイドはメイドではなく刺客です」とリン。

「でも強くない?」

「強さを求める職業ではありません」

「いや、でもさ、護身用ならギリありじゃん。海外とかあるんじゃないの、そういう」

「ない」と私。

「絶対ない?」

「絶対ないです」

「調べた?」

「調べなくてもわかります」

 

「ナイフよりスタンガンじゃない?」

 ミサキが突然言った。

 全員がミサキを見た。

「護身用ならスタンガンの方が合理的です。非致死性、即効性、携帯性、全部上。ナイフは扱いに技術が要る。スタンガンは誰でも使える。エプロンのポケットに入る。あと見た目が物騒じゃない分、咄嗟の使用で法的リスクも低い」

「…詳しいな」とハナ。

「考えたことがあります」

「いつ」

「今」

 

「でも」とハナが腕を組んだ。「スタンガンって近づかないといけないじゃん。それが嫌なんだろ、怖くて」

「怖いとは言っていません。非効率と言っています」

「同じだろ」

「違います。私は怖いものがありません」

「嘘つけ」

「本当です」

「じゃあ幽霊は?」

「概念なので怖くない」

「蜘蛛は?」

「…節足動物なので適切な距離を取ります」

「ビビってんじゃん」

「距離管理です」

 

「だからさあ」ユカが話を戻した。「ナイフよりもっと遠くから対応できるやつがいいじゃん。接近しなくていい」

「銃ですか」とリン。

「そう!」

「「「「え」」」」

 全員の声が揃った。私も含めて。

 

 ユカは特に動じない。

「いや、だからさ、メイドって可愛い格好じゃん。それで銃持ってたらギャップがすごくない?強くない?」

「弱さとの混合が魅力、みたいな発想ですか」とミサキ。

「そう!わかる?」

「わかりますが賛成はしません。銃刀法違反です」

「そこはフィクションとして」

「フィクションとして、なら話が変わります」

 ミサキは少し考えた。

「メイドが銃を持つなら、リボルバーよりセミオートの方が装弾数で優れています。ただしメイド服との親和性を考えると、小型の方がシルエットを崩さない。グロック19あたりが現実的な着地点かと」

「詳しすぎる」とハナ。

「考えました」

「今?」

「今」

 

「銃はないです」と私。

 全員がまた私を見た。

「ないです。以上。血が飛んだら水で洗う、予備エプロンは発注する、問題のある客は警察に連絡する。それだけです」

「つまんな」とユカ。

「店長は夢がない」とミサキ。

「現実的です、の間違いです」とリン。これは珍しく、私の肩を持っているのか。

 と思ったら。

「ただ予備エプロンの発注が今になった点については、管理上の怠慢を認めてください」

 違った。

 

「あたしさ」

 荒木が唐突に言った。

「ナイフより素手の方が強くない?」

「主語が荒木さんに限定されます」とリン。

「なんで」

「荒木さん以外の人間が素手で暴漢に対応することは推奨されません」

「あたしはいいの?」

「荒木さんは例外です」

 荒木は少し嬉しそうな顔をした。ヤンキーというのは、認められると単純に喜ぶ生き物らしい。

「でもさ、素手だと血飛ぶじゃん」とユカ。

「飛ぶな」と荒木、あっさり。

「そしたらエプロン汚れるじゃん」

「洗えばいい」

「水で洗えば落ちます」とミサキ。

「冷水で、ですね」とリン。

 

 一周して元に戻った。

 私はコーヒーを飲み干した。

 開店まで、まだ四十分ある。

 発注書には「エプロン×4」と書いた。

 銃と、スタンガンと、ナイフの欄は、最初から存在しない。

 

 この馬鹿どもが今日も客の前で笑顔を作るのだから、世界というのは不思議なものだ。

 私はそれを、ただ見ている。

 

【了】


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