1話 忘れられた日 前編
1
その日は晴れていた。
空気は朝ならではの爽やかな香りを漂わせ、木々は太陽の光を燦々と浴びて健やかに茂り、町歩く小学生は元気に走り回っていた。
高校の通学路。
両手を伸ばし、工藤 舞藻は大きなあくびと伸びをする。
平和だなぁと和やかな気持ちになりながら、そういえばと昨日の課題をやっていないことを思い出した。強面ゆえ生徒から恐れられている教師が担当の数学課題だ。断りに行くのはなんとも苦行である。
「うわぁ最悪だ!! なんでゲームをしてたんだ昨日のオレ!」
舞藻は徐々にスピードをあげながら走り出す。一つ結びの黒髪が宙で揺れた。
学校に着くと八時を回ったばかりだった。提出までは十分に間に合いそうである。
「助かった…。無駄に足が早くてよかった…。」
胸を撫で下ろしながら教室のドアを開ける。この時間帯だと電車通学のクラスメイトは揃っているだろう。
「おはよう。」
挨拶を口に出しながら教室に足を踏み入れた。
「えっと、誰?」
ドアに最も近い机に座るクラスメイトがそう言った。
「え?」呆けた声が漏れる。
「もしかして三年の先輩ですか?誰に用事ですか?」
「待ってくれ。なんで三年に間違われるんだ。どういうことだよ。」
そのクラスメイトは首をひねった。それはこちらのセリフだとでも言いたげだ。
「オレは舞藻だよ。そこの席の!」
舞藻は窓から三列目、一番後ろの席を指した。しかし同時に息を飲んだ。
「俺の、席…ない。」
なかったのだ。引き出しの中に入れていた荷物も共に姿を消していた。教室の後ろに設置されているロッカーを見る。だがやはり教科書も靴袋も自分のものはなかった。
どうして? 何があった?
自分のことを覚えていないクラスメイト。なくなっている私物。頭を抱えたくなるとはこのことだ。これからどうやって過ごしていけばいいんだ。教科書は買い直さなければならないのだろうか。
「クラスが、違うとか?」
クラスメイトの一人が言った。
「いやいや、そんなわけないない! オレはここにいる全員のこと知ってるんだ。好きなこととか、ハマってることとか、家に行ったこともあるし…」
舞藻は笑い飛ばすノリで口にしたが、クラスの誰かの、悲鳴を飲み込む声が聞こえた。
「なんか、キモチワルイ…────もしかして、不審者じゃない?」
女子クラスメイトがぽつりと言った。まるで、波静かな水面にポツリと水を垂らすように。
ハッと顔を上げる。クラスメイト達の嫌悪がこもる視線は自分に向いていた。
舞藻は初めて、自分の置かれている状況に気づいた。教材を買い直す直さないの話ではない。それ以前に、自分はここにいて良い存在ではなくなっているのだ。
「そ、そんなアヤシイものを見るような目で…」舞藻は口角を引き攣らせながら震えた声を出す。
「だ、誰か先生呼んで来てよ!」
クラスのリーダーである学級委員が叫んだ。それに呼応するように騒ぎの輪が広がる。「やばい」「助けて」「逃げろ」と、ここにいる全員が舞藻から距離を取る。昨日まで一緒に過ごしてきた人間に対する接し方ではない。
「お、落ち着けって…。」
舞藻は無意味に言葉を発す。
あまりにも酷い状況に胸が詰まりそうになるが、ただぼうっと見ているわけにもいかない。このまま教師を呼ばれたら確実に警察沙汰になってしまうだろう。それは困る。
舞藻は力を手に握りしめ、騒ぎに向かって声を張り上げた。
「落ち着けって!!」
途端、クラスの全員がこちらを無表情で凝視した。突然の変わりように舞藻はたじろぐ。やがて、そのうちのひとりが口を開いた。
「てか、ただの不審者じゃん。」
その隣にいた人も頷く。「それな。そこまで騒ぐことじゃなくね。」
突如にして教室内は落ち着きを取り戻し、舞藻を気にする人はいなくなった。唖然と立ち尽くす舞藻に誰も興味を示さず、各々が通常の朝のように、友人と話したり勉強したりと過ごし始めた。
「────あ、の」
舞藻は近くにいるクラスメイトに話しかけようとした。その時、教室のドアが勢いよく開かれた。
「騒動があるって聞いたんだが、大丈夫かー?」
体育担当教科であり舞藻たちの担任である男性教師が現れた。おそらく先程の騒ぎで このクラスの様子がオカシイと、他クラスの誰かが垂れ込んだのだろう。
「大丈夫ですよ。不審者がいるだけです。」
学級委員は静かに言った。周りのクラスメイトも舞藻を見ながら「そーそー。ただの不審者。」と同調する。
しかし、当たり前であるが担任は目を見開いた。
「はっ!?不審者!?」
今まで聞いた事のない大声だった。巨躯である男が舞藻を睨みつける。
舞藻は射すくめられたかのように体が縮こまった。息が上がる。恐怖で回転が鈍っていく脳が司令を出す。身の安全のための本能だった。
─────逃げなければ
足元を転回させ、転がるように廊下に出る。目指すは昇降口だった。
「待てっ!」担任の鋭い声が耳を突く。待てと言われて待つやつがどこにいるのだ。
捕まったら死ぬ。身体的にも社会的にも。そう思いながら必死に走った。
下駄箱まで来た。靴を履き替えている時間はない。内履きのまま学校を出て、しばらく足を動かし続けた。
「はぁっ…はぁ…」
心臓が掠れながら悲鳴をあげ、口の中に血の味が滲んできた頃。
流石に体を動かせなくなりその場にへたりこんだ。だが背後をふりかえってみても担任や大人の姿はない。どうやら逃げ切ったようだ。
深く息を吐きながら体重を地面に乗せ、本格的に休憩をとる体勢に入る。
さて、これからどうしようか。状況を鑑みるに、自分は学校の仲間や教師たちから存在が消えているようだ。
実は今でもドッキリを疑っていたり望んでいたりする。こんな規模の大きいドッキリを仕掛けられるほどの大物ではないのは分かっているが。
流れ落ちる汗が目に染みた。
「家…、そう、家族はどうなんだ。」
舞藻は目の前に並ぶ一軒家を見る。いま帰宅したら専業主婦の母親がいる。母親ならば自分を覚えているのではないだろうか。
「今日の朝も普通だったしな。」
弁当ここに置いとくからね、と声をかけてくれた母親の存在が、今はとてつもなく恋しい。普段の会話が、日常が、行為が、こんなにも尊いものだとは思わなかった。
舞藻は金属のように重い腰をゆっくりと上げた。鉄球を引きずるように歩き出す。
たったひとつだけの、帰る場所を目指して────
2
『工藤』の表札が飾ってある玄関口。すぐ横には母親の趣味で置いてある白い植木鉢があった。その中に植えてある黄色の花が、相も変わらず元気に咲いている。
「こんなの、普段は気にもしないのに。」
舞藻はとんでもない自分の状況を自嘲しながら、改めて息を吐く。「よし」と決意を新たにドアノブを掴んだ。
あらおかえり、という普通の挨拶を心待ちにしながら。
玄関口から家の中に入って、最初に耳に届いたのは短い悲鳴だった。次に視界に飛び込んだのは目を見開いている母親の顔だ。
見慣れた玄関に、驚いて腰を抜かす女性がひとり。
「だれ… ご、強盗…!?助けっ!」
母親は見ているのが辛くなるくらい情けない姿を晒していた。
腰が抜けて立てなくなってしまい、這って自分から距離を取ろうとしている。
彼女はよそ行きの格好をしているため、これから出かける予定だったのかもしれなかった。そこに出くわした舞藻も母親も、運が悪かった。
舞藻は何も言葉を発せなかった。
母親は強い人なのだ。己が人生で迷わぬように手を差し伸べてくれ、道を踏み外しそうになったら引っ張って元の道に戻してくれる。
オレにとってはずっと、大きな背中だったのに。
自分の前で縮こまっている母親が許せなかった。そしてその原因である自分は、もっと許せなかった。
「け……け、警察っ!」
彼女が手に持っていた鞄からスマホを探す動作をした。
そこでようやく 頬を叩かれたかのように舞藻の意識が戻ってくる。
「母さん!!」
目の前の女性が顔を上げる。その眼は怯えを孕んでいた。それを見て、もうダメだと思った。
説得するのも、強硬手段に出るのも、無理だと悟った。
舞藻は後ずさり、左手でノブを掴んだ。ドアを押して外の空気を感じる。外界へ繋がる隙間。そこに身体を通したら、ここへは二度と戻って来れない予感がした。
躊躇った。一秒ほど、躊躇った。それで十分だった。自分にとってこの場所がどんな場所か分かったから。少し旅立ちが早くなるだけ。もうオレは、戻って来れなくても大丈夫。
「最後まで、親不孝者でごめん。父さんにもよろしく言っといて。」
小さく呟き足を踏み出す。最後まで母親は怯えていた。
家の敷地の外に出ると、遠くからパトカーの音が聞こえてきた。母親が呼んだものだろう。
舞藻は音の反対方向に足を動かした。手も動かした。無我夢中で、頭では何も考えていなかった。背中に乗っている薄いカバンが何度も跳ねる。胸が苦しくなった。涙腺が痛くなった。でも涙も出なかった。
ただ荒い息が口から出るだけだった。
頭を空っぽに走って行き着いた先は最寄り駅だった。平日の昼前だからか客は誰もいない。駅中にある切符販売機で2460円の片道切符を、カバンに入っていた財布で買った。
ホームに行き、設置してある椅子に座る。
明日は筋肉痛かもなとか、どうでもいいことを口にしながら朝からの出来事を思い返していた。
クラスで突然不審者扱いをされる。
担任から追い回され、
家を出る前は普通だった母親もクラスメイトと同様の扱いをする。
なんだこれ。感動ドキュメンタリー映画が一本出来上がるな。
突然起こった『知り合い全員から忘れ去られる事件』。
この事件の謎を解明するひとつの仮説は────
「もしかしてオレ…」
キキーッ という、金属製の鋭い音に顔を上げる。
待っていた電車が到着したようだった。
二車両目に乗ると、客はそこそこにいた。舞藻は椅子の一番端に座る。
ここにいる全ての人間が他人に無関心。ここでは自分も他人に括られる"普通の人間"だ。
約九十分ほど揺られていただろうか。窓の向こうに見覚えのある駅の風景が見えてきた。
次の停車駅で下車すると、そこには舞藻の住んでいた町よりも栄えている『都会の街』─────山倉市の景色が広がっていた。
しかし駅まわりは栄えていても、少し歩けばのどかな自然も見えてくる。舞藻はそののどかな自然のある地域に用事があった。
駅から十数分ほど歩くと街頭樹が多くなる。少し先には小さな公園なども見えてきた。
「ここら辺だよな。」
舞藻は数年前の記憶を辿り、並ぶ家の外装を眺めていく。
「『須藤』……。ここか。」
やがて、『須藤』と書かれた表札を見つけた。見上げてみると、確かにその家は、数年前までの記憶を想起させる風貌だった。
須藤とは母の旧姓だ。つまりこの家は母方の実家である。小学生の頃はよく遊びに行っていた。あの切符もここへ来るためのものだ。
「じいちゃん達…いるかな。」
もしかしたら町外にいる祖父母たちは記憶が消えてないかもしれない。そんな希望を少しだけ、抱いていた。
舞藻はゆっくりとインターホンに手を伸ばす。
「おや? どうしたんだい?」
横から明らかに自分に話しかけている人の声が聞こえ、思わずのけぞってたたらを踏む。
数回息を吐いて気持ちを落ち着かせたあと、相手を目視すると、そこには記憶よりも幾分か老けた祖父がいた。
「わしの家に用かね。若い子なんてなかなか来ないからびっくりしたわい。」
祖父は笑う。
「あ、の、さ」
舞藻は顔を引き攣らせながら口を開いた。
「オレのこと、覚えてる?」
祖父は舞藻の顔を凝視した。
「────はて。どこかで会ったかな?」
舞藻は道路に突き出されたような感覚だった。
「オレだよ!孫の舞藻だって!よく遊びきてたじゃん!ねぇ思い出してよ!!」
縋り付くように大声で捲し立てた。
「はぁ。そんな不思議な名前の子、孫にいたら覚えてると思うけどねぇ。」
祖父が極めて穏やかに言う。
舞藻はその場でガックリと項垂れた。もはや自分を知っている人はこの世に居ないのだと分かった。
「ありがとうございました………。人違いだったみたいでした……。」
舞藻はゆらゆらとその場を後にする。
「おい! 何かあったらまた来てもいいからな!」
祖父がこちらに向かって声をかけてくれる。しかしその声は、舞藻には届かなかった。
3
腕に顔を埋めてうずくまる。太陽の光が届かない場所で静かに息をする。川の音がサラサラと聞こえて、身体まで流れていくと錯覚しそうだ。
ここは祖父の家から少し歩いたところにある河川敷。大きな橋の真下で舞藻は座り込んでいた。
健康的な緑が地面を埋め尽くし、土手には全てを覆うようなコンクリート。
相反するこの場所で、自分も緑色の中に紛れて、誰にも見つからないまま一生を終えたい。そんな悲観的なことが脳内に浮かんでは消えていた。
だから最初は気のせいだと思った。
「ねぇ。何してるの。」
隣から爽やかな声が聞こえてきた。
「そんなところでうずくまってさ。」
舞藻はゆっくりと顔を上げる。
左側に舞藻と同い年くらいの男性が立っていた。前髪が長く、長身痩躯といった具合だが、男子なら一度は羨んで一度は憎むような顔をしている。つまり、かなり整っているのだ。しかし光を反射させまいとするような真っ黒な二つの瞳には、なんだか怖いものがある。
「えっと…どなたですか」
こんなにイケメンな知り合いは居ただろうか。
すると男は笑って言った。
「 工藤 舞藻 くんだよね。」
みんなに、世界に忘れられた名前を。
舞藻は目を見開いた。胸の中にとある感情が湧き起こる。思わず手を振りかぶってしまった。
「────マジで!?」
舞藻はその手で男の左手を取り、勢いよく立ち上がった。
「知ってんの!? オレのこと、覚えてんの!?」
男は僅かに驚いた顔をした。そのあと、ゆっくり頷く。
「君に何が起こったのかも知ってるよ。」
「マジか!!」
舞藻は表情をパッと笑顔に変えると、拳を天に突き上げた。
「良かった〜〜!!まだ死んでなかった〜〜〜!!」
「し、死ぬ?」
男はいよいよ戸惑った声を出した。
「誰もオレのこと覚えてないからさ。実はオレ、死んじゃったのかなとか考えてたんだよ。」
「あぁ。なるほど。」
男は納得したように頷いたあと、クスリと笑った。
「君、面白いね。今まではそういう状況の人に声をかけると、話しかけるなって突き放されたり逆ギレされたりしてたんだ。こんなにテンションが高い人は初めてだ。」
舞藻は不思議そうに首を傾げる。
「へぇ、そういうこともあるのか。オレは嬉しかったけどなぁ。」
その答えに、男は再び笑った。
「ねぇ舞藻くん。知りたくない?」
舞藻は再び首を傾げる。
「何が?」
男は「そんなの決まってるよ」と手を広げた。
「────どうして自分がこんな状況になっているか。」
河川敷に強い風が吹いた。短く生えている草がゆらゆら揺れる。
周りの温度が少し下がった気がした。
「俺に着いてきてよ。教えてあげるから。」
仰々しい男は薄暗い雰囲気を纏っていた。
舞藻はわずかに逡巡する。そして口を開けた。
「いや、まずは名前教えてよ。お前の。」
「……えっ?」
男は腑抜けた声を出した。
「ふつうにオレだけ名前知らないの、不利じゃん。仲良くなりたいからさ。情報格差反対。」
舞藻はニコッと口角を上げる。
「はは。参ったな。」
男は頭をポリポリとかいた。
「変わってるね君。」
「よく言われる。」
男は舞藻を見据えて柔らかく笑う。暖かな風が二人の元に舞い込んでくる。
「俺の名前は、志麻 聖我。よろしく。」
聖我は手を差し伸べてきた。舞藻はその手を勢いよく握る。
「おう!よろしく!」
聖我は小さく笑うと、「早速だけど、舞藻くん────」と声をかけた。
「待ってくれ。」
しかし舞藻は静止をかける。
「オレのことは『マイ』って呼んでくれ。『マイモ』って変な名前だから少し恥ずかしいんだよ。"みんな"もマイって呼んでたし。」
聖我は目をぱちくりとさせた。そのあと、ゆっくりと口を開く。
「……いいんじゃないかな、変でも。俺はいいと思うけど。」
舞藻は「そうか?」と嬉しそうな顔をした。
「じゃあせめて呼び捨てにしてよ。くん付けは慣れてないんだ。」
「────わかった。じゃあ、舞藻。」
「おう!」
舞藻は笑顔で返した。
「それで、どこか行くんだったか?」
「そう。着いてきて欲しいところがあるんだ。」
聖我はくるりとこちらに背を向けて笑った。橋の下から太陽の元に出る。
「そこで君の身にあったこと、説明してあげるよ。」




