56、どこか遠くへ
グロリアが目を覚ますと、見覚えのない天井が広がっていた。ぼんやりと天井を眺めながらだんだんと状況を思い出す。
ここはソムヌスの家だ。そしてソムヌスが近くにいるはずで……。
ぱっと起き上がったグロリアは、近くの椅子に座っていたソムヌスへと抱きついた。
「グロリア?」
心配そうなソムヌスの声を聞きながら、グロリアはソムヌスに回した手に力をこめた。
「全部、思い出しました」
絞り出すような声でグロリアが言うと、ソムヌスの身体が強張るのが分かった。ソムヌスの顔を見ないまま、グロリアは呟く。
「ソムヌスさん、私のこと好きですか?」
流れた沈黙が怖い。グロリアがさらに力を込めて抱きしめると、ソムヌスの低い声が聞こえてきた。
「もち、ろん。断って悪かった。あのときも好きだった」
ソムヌスがグロリアの背に手を回す。その手付きはぎこちなく、壊れ物に触るようだ。
グロリアの耳元で、ソムヌスがそっと呟いた。
「グロリア。俺から逃げるなら、今だ。きっと俺は君のことを放せなくなる。手からこぼれ落ちたと思っていた恋が、再び掴めそうなのだから」
グロリアはソムヌスから身体を離し、彼の目を見る。その金の瞳が不安げに揺れるのを見ながら微笑んだ。
「あなたから逃げるわけ、ないじゃないですか」
グロリアに、そんな選択肢は存在しない。ソムヌスから逃げるなどあり得ない。
「私はあなたとずっと一緒にいたかったのだから」
やっと、「好き」と言ってもらえているのだ。グロリアの好きと言わせるという宣言は、10年越しに実現した。
「私が記憶を取り戻す前、何であんなに謝っていたのですか? 傷つけたって?」
「……俺のせいで、君は怪我をした」
「ソムヌスさんのせいじゃないでしょう?」
「いや、俺のせいだ」
自分の顔を手を覆ったソムヌスの顔を見ることはできないが、声には悲痛さが滲んでいる。
「ソムヌスさんのせいじゃないです。私のことを突き飛ばした人が悪いんです」
自身の顔から手をどかしたソムヌスは、グロリアの頬に手を伸ばした。
「……怖かっただろう?」
グロリアの頬へあてられた手はわずかに震えている。
「複数人に囲まれて、俺のことでいろいろ言われて。階段からも落ちて、痛かっただろう?」
自分の顔が見えないから分からないはずなのに、ソムヌスの方が辛そうな顔をしていると断言できるほどの表情だった。
「ソムヌスさん。大丈夫です」
グロリアの言葉で、顔を上げたソムヌスは首を振った。
「君が苦しんだという事実だけで、もう無理だ。俺が君への自分の気持ちを受け入れていれば。俺への他者の感情を考えることをしていれば」
「ソムヌスさん。あなたは悪くないんです。本当に」
グロリアが否定をするが、ソムヌスが目を伏せた。
「でも、俺が……」
「ソムヌスさん」
ソムヌスがグロリアへ視線を向けた瞬間、ソムヌスの唇を奪う。固まっているソムヌスから離れ、グロリアは笑みを浮かべた。
「大好きです。それ以外のことが要りますか?」
目を見開いたソムヌスは、脱力したように微笑んだ。
「……いや。君に好きだと言われると、生きていて良かったと思う」
「私もそうです。ソムヌスさんから、『好き』とか『愛している』とか言われるのが嬉しいです」
グロリアは金の瞳だけを見つめながら言った。
「死ぬまで、一緒にいてください。いえ、死んでからも」
「もちろん」
そうは言っても、目下の課題は、グロリアの両親に反対されていることだ。しかし、何を説明してもソムヌスの話をまともに聞いてくれなかった両親を、どう説得すればいいのだろうか。
そもそも、説得の必要はあるのだろうか。ソムヌスの話すらできないのに、わかり合うことはできるのだろうか。
軽く息を吐いて、グロリアは口を開いた。
「二人でどこか遠くへ逃げませんか?」
半分冗談、半分本気でグロリアは提案をした。
濃い金の瞳が見透かすようにこちらを見る。その案じるような目をグロリアはじっと見返し続けた。
「それもいいかもな」
いつも理性的に判断をしていることの多いソムヌスの返事に、グロリアは目を見開いた。ソムヌスが頬を緩める。
「もし、どうしても反対をされたらそうしよう。その前にご両親にちゃんと謝って、どうにかできないか方法を探すから」
「ソムヌスさん、悪くないじゃないですか」
表情を固くしたあとに、申し訳なさそうな、痛そうな顔でソムヌスが口を開く。
「ごめんな、グロリア」
「それ以上、謝らないでください。私はソムヌスさんから、謝罪より別の言葉が聞きたいです」
ぱちりと金の瞳を瞬かせたソムヌスがふわりと笑った。
「愛しているよ」
低いが甘さを含んだ声だった。その心地良い声色にふわふわとした感覚が広がる。湧き上がる温かい気持ちに、目の前の彼が愛おしいという気持ちでいっぱいになった。
「私もです。ソムヌスさん、大好きです」
笑みを浮かべたソムヌスだったが、不思議そうに首を傾げた。
「ずっと、敬語なのか?」
「どっちがいいですか?」
ソムヌスがグロリアの銀の髪へ触れる。やはり優しい手つきだ。
先ほどもグロリアの頬に触れていたから、触らないという約束を忘れているのだろう。しかし、それでも構わないため、グロリアは特に言及することなく質問で返す。
「君が言いやすい方でいい。でも、敬語ない方が気安く話してもらえている感覚があった」
「それじゃあ、なしで」
ソムヌスの好きな方で良いと思っていたが、気安さが伝わるのならそちらの方が良い。グロリアがソムヌスに笑いかけると、ソムヌスは穏やかに笑った。




