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「ふう、こんなもんかな」


 腰をトントン叩きながら、石井昭彦はそう呟いてあたりを見渡す。

 三十年勤めた商社を辞め、趣味が高じて本格的になっていたソバ打ちで店を開こうと決めて二年、ようやく明日が開店だ。

 仕事を辞めてソバ屋を始めると言ったときにも文句一つ言わず付いてきてくれた妻には感謝の言葉しかないなと、店内をもう一度確認する。コレ、何度目だろうかと苦笑しながら。

 テーブル、椅子、壁に貼ったメニュー、調理場の中の様々な道具類。いざ店を開こうとすると意外にもいろいろと必要で、ギリギリ……それこそ数時間前まで「アレが無い、コレが足りない」をやっていたが、もう大丈夫だ。

 明日は早くから仕込みになるからそろそろ寝ようかと思ったところ、店のドアがガラガラと開かれた。


「すみません、明日から開店でして」


 入ってきた男にそう告げたが、


「いえいえ、知ってますよ」


 そう言ってズカズカと入ってくる。何だろうかと少し警戒する。商店会の会長からは新しい店を開こうとすると色々(・・)あるから注意するように言われていたが、まさか?


「えーと、石井さんでしたか。初めまして。私、宮坂安郎と申します」

「あ、えっと……すみません、名刺は持っておりませんでして」


 シンプルな細田興業という社名が書かれただけの名刺を受け取る。裏面にも何もなく、電話番号すらない名刺は何の役に立つのだろうか?


「石井さん、ウチのおしぼり、使いませんか?」


 来たか。

 いわゆる反社会的勢力の者が、みかじめ料を徴収する代わりにおしぼりを納品。そのおしぼりの袋に書かれた業者名で、バックに誰がいるかを示すとかそう言うのだと会長が言っていたな。


「えーと、そういうのは、その……もう契約をしておりまして」


 やんわりと断る。商店会を通じて紹介された地元のリネン業者と契約しているから、何ら困らないし。


「ま、皆さんそうおっしゃいます」


 にこやかに手を振りながら、手にしていたアタッシュケースをテーブルの上に置く。さっき拭いたばかりなんだが、と思うが口にしない。何をきっかけに言いがかりを言ってくるかわからないからだ。

 そう思ってみていると、パチンパチンと留め金を弾き、アタッシュケースを少し開けると中からビニールに包まれたおしぼりを一つ取りだした。


「こちら、サンプルです。どうぞ手に取って」

「は、はあ……」


 受け取ったおしぼりはどういうわけかアツアツ。あのアタッシュケース、保温機能付きなのか?


「ささ、熱いウチにポン、と」

「はあ……」


 言われるままに袋をポンとやり、中のおしぼりを出す。見たところ普通のおしぼりだが……ま、ちょうどいい。準備で手が少し汚れているのでコレで拭き取って


「う、うひゃわああああ!」


 変な声が出た。

 何だこのおしぼりは。

 見た感じでは普通のおしぼりなのだが、手を拭った瞬間の肌触りは明らかに普通のタオル地ではない。滑るように滑らか。なのに手の皺、指紋の隙間にまで繊維が入り込んで汚れをこそぎ落とすような、こそばゆく撫で回すような柔らかさ。


「こ、これ……は……」

「驚きましたか?コレ、ウチの特許ですわ。開発に十年かかってます」

「は、はあ……すごいモンですね」


 宮坂がずいと顔を近づけてくる。


「どうです?ウチのおしぼり、使いませんか?今なら最初の三ヶ月、サービスしときますよ?」

「え、えと……その……」

「隣街の『トンカツ菊地』ってご存じです?」

「え、ええ……行ったことは無いですが。すごい行列ですし」

「ここらだとあそこに納めとります。あの店が繁盛しとるの、このおしぼりの効果かも知れませんで?」


 え?マジで?


「で、どうです?」


 手元のおしぼりを見る。すっかり冷めたおしぼりの手触りはごく普通のタオル地で、あの最初の悦楽は感じられない。つまりアレはアツアツを取り出した直後にしか味わえないと言うことだ。

 このおしぼりがあったらどうなるだろうか?

 まず間違いなく、使った客はこのおしぼりの虜になるだろう。冷めたあとは普通のおしぼりになると言うことに気付いたら、もう一度この快楽のために来店するかも知れない。

 飲食店にとって、リピーターというのはとても大事だ。何でも良いから次にまた来ようという気にさせることが出来れば、店としては成功。そしてそれが続いていけば大成功だ。




 このおしぼりがあれば、それが約束される可能性があるのだ。




 だが、と(かぶり)を振る。

 何を考えているんだ俺は。

 飲食店が客を呼び込むのは味、それ以外は無い。

 もちろん値段や店の雰囲気も大事だが、何よりもまずは味で勝負するのが筋。おしぼりで客引きなど邪道も邪道。飲食店の風上にも置けない。


「すみませんが……お断りします」


 勇気をふるってそう答えた。


「そうですか。残念ですわ」


 そう言って、アタッシュケースをパチンと閉じ、スッと姿勢を正す。


「それじゃ、コレで失礼します。あ、そのおしぼりは差し上げますんで。では」


 あっさりと去って行った。

 実にさっぱりと。

 食い下がることもなく。




「ありがとうございました。またお越し下さい」


 その日の最後の客を見送ると、店先の暖簾を下ろし、営業中の札を外してドアの鍵をかける。

 開店から一年。立地条件もよかったのだろうか、店は軌道に乗り、地元のコミュニティ誌とやらの取材もあって、順調そのもの。あまりの忙しさに夫婦だけでは接客が追いつかず、アルバイトを一人雇い入れるほど。

 おそらく内心は不安と不満を抱えていたであろう妻も、今は「今日も疲れたわね」と言いながらも微笑みが絶えない。会社勤めの頃にはなかった幸せを噛み締める毎日だ。




 だが




 あのとき、あのおしぼりを使う選択をしていたらどうなっていたのだろうか?もしかしたらもっと繁盛していたのだろうか?しかし「ダシが旨いね」「コシが強くていいね」という褒め言葉はもらえなかっただろうと思うと、これでいい、と思うことにしている。

 あの名刺には連絡先が書かれていなかったし、ネットなどで探しても見つからなかった。本当にあの男はこの店に来たのだろうか?開店準備に疲れた心が見せた幻だったのではないかとも思う。

 まあいい。店が軌道に乗った。夢が叶った。それでいいじゃないか。




 だが、どうしても気になることがある。




 あの人気店。

 あの行列の出来る店。




 本当に味だけで客が集まっているだろうか……

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