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「そろそろだな」


 やや散らかった六畳間で井上芳信は古ぼけたラジカセ――カセットは既に動かない――を手元に引き寄せてスイッチを入れ、ダイヤルを回して周波数を合わせる。今どきずいぶんとアナログな操作だが、家にあったのは学生時代に使っていたこれくらいしかラジオが見当たらず、新しく買うのも何となく気が引けたのだが、果たしてちゃんと聞こえるだろうか?


「えーと、この辺……この辺、お、聞こえる」


 サーッと言う雑音がプツリと途切れてどこの国の言葉なのかさっぱりわからない言語で話す音声がしばらく流れる。


『それではザザッ来週お会いしましょザザッさようなら』

『@※%$#*>>』


 雑音が少し混じるが聞き取れないほどではないなとホッとしながら耳を傾ける。軽快な音楽と共に別れの挨拶を講師が告げるといよいよ目当ての番組まで秒読みだ。

 先月、出張の帰りの新幹線車内で憂さ晴らしに飲んだ酒が妙に回り、最寄り駅を降りたときには少し悪酔いをしてしまっていて少しばかり酔い覚ましに街を歩いた。そして偶々(たまたま)立ち寄った本屋のラジオ講座のコーナーで、妙なタイトルを見つけ、気になって買ってしまった。その場の勢いで。

 そして買ってしまったからには最初の放送ぐらいは聞いておこうとこうして待ち構えているというわけ。いよいよその放送時間が迫ってきてなんだか少し緊張してきた。自分が出演するわけでもなく、誰が見ているわけでもないのに。

 そして、前の番組のエンディングの音楽が途切れて数秒、静かだが軽快な音楽が流れ始めた。


「いよいよか」


 テキストをそっと開き、第一回のページを開く。この手の講座にありがちな挨拶や自己紹介から始まるようだが、先入観を持たないようにと今日この日まで開かずにいたので……ああ、もう。早く始まってくれ。


『みなさんこんにちは。ラジオザザッ講座、講師の三宅孝史です』

『……』


 数秒間の沈黙、いや、音楽は流れているけどね。


『それでは早速ザザッ一回、基本の挨拶、始めてザザッしょう』

『……』

『それでは基本の挨拶。中学生の倉沢啓太と綾乃の兄妹の隣にザザッ家が新しく引っ越してきました。早速引っ越しの挨拶に訪れた稲垣さんたちにザザッ俊之くんが紹介されました。さて、そこで起こったことは……』


 軽やかなSE音の後、会話形式の題材が始まった。


『こんにちは、はじめまして』

『はじめまして』

『隣に越してきました稲垣ザザッと申します』

『倉沢啓ザザッす』

『綾乃です。すみません、両親は少ザザッ掛けていまして』

『いえいえ、突然お邪魔して申し訳ありません。お二人ザザッ学生ですか?』

『ええ、すぐそこの市立中学にザザッいます』

『そうですか。ちょうどザザッ俊之、ほら挨拶して』

『……』

『えーと?』

『お兄ちゃん、もしかして』

『え?』

『ザザッ』

『……』

『そうか……』

『ご丁寧にどうもありがとうございます』

『いえ』

『……』

『ザザッ』

『……』

『よろしくね』


 全く頭に入ってこない会話だなと思っていたらどうやら終わりらしい。


『それでは早速見ていきましょう。ザザッ最初の俊之くんのこの台詞から。大西さん、お願いします』

『……』

『はい、ありがとうございます。まず最初に左手の甲と右のザザッを重ねて上に持ち上げます。そして持ち上げながら人差し指以外をザザッみながら両手を肩幅くらいの位置に持っていき、人差し指を近づける。これが「はじめまして」です。もう一度やっていただきましょう』

『……』


「わかるか!」


 全っ然伝わってこないよ!期待した俺がバカだったよ!

 そう思いながらが立ち上がり、テキストをテーブルに叩き付け、ラジオを切った。


「やっぱり無理があるだろ、これは」


 チャレンジ精神では乗り越えられない、高い壁があったんだよな。

 そう思いながら、捨てる雑誌を入れる箱にテキストを放り込んだ。


『ラジオ手話講座』


 どこからから抗議が入ったらしく、翌月の終わり頃には打ち切られるように番組は終わったらしい。

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