歌姫の声
『雪原の青い薔薇』と呼ばれる歌姫の声は、ただただ美しく響いていた。
(これだ……。これが私の聴きたかった歌だ……)
茫然と指揮棒を握りしめ、クロードヴィスは予想外の場所で初恋の女性に出会ったように、「銀翼の魔女」が身体を浮かせている上空を木偶の坊のごとくぼぅっと見上げていた。
その歌姫の声が聞こえなくなる。いや、消えたわけではない。不安な気圧の変化に似た感触がクロードヴィスの中を通り過ぎた。
途端に、サラマンデル号の無線用アンテナがくにゃりと崩れる。まるで目に見えない巨人の手で弄ばれたかのように……。
その他にも奇妙なことは甲板のあちこちで起こっていた。上空を狙っていた高射砲が、ほとんど音もなく砂でできた玩具みたいに崩壊してゆく。後部甲板の高速翼船に至っては、石炭ガスを詰め込んだ気嚢がぱちんぱちんと爆ぜてゆく。指令室の窓枠に張られたガラスもさらさらと溶けだした。
(……これは、まさか!)
クロードヴィスの脳裏に甦ったのは、過去、学生時代に読んだ軍事的音楽に関する論文だった。
つまり、本質的に音と風は空気の振動という一点において、同じものだ。
その音を極端に高周波化した人間の耳に聞こえない音、「超音波」を兵器化することができるのではないか──という内容だったとクロードヴィスは思い出す。
「論文上で『超音波破壊』とか書かれていた、アレか……?」
うわごとのようにクロードヴィスがつぶやく。当然だ、かつて自分が軍の音楽科の生徒だった頃、習った「超音波破壊」などというのは机上の空論だったのだから。
けれどそれを、今現在、たった一人の「風使いの魔女」が操っているというのか?
信じられない──。
だが今度はサラマンデル号自慢の三十インチ巨砲までもが、さらさらと音を立てて崩れ始める。十五インチ砲に至っては、すでに砲台すら砂の山と化している。
まるで悪夢を見せられているかのようだと、クロードヴィスは呻いた。
愕然としながら空に浮いている白衣の魔女を見つめていると、次第にその姿がこのサラマンデル号の甲板に向かって近づいてくる。
小さな竜巻のように衣服や髪を乱して、「銀翼の魔女」は甲板の上に降り立った。そのまま真鍮でできた機械人形の方へと、しずしずと進んでゆく。
「……ラーイ先生。クロエさん、ダリアさん」
跪き、「銀翼の魔女」は涙を流しながら、昔懐かしい仲間たちの姿をした人形の頬を撫でた。
「兄さん、あなたはどれだけの人を殺したのです。なんという罪深いことを……」
キッ──とした氷青色の眼差しが、黒衣の魔法使いに向けられる。歌姫と同じ色の髪の毛と瞳をした兄は、引き攣れたふうな笑いを顔に浮かべた。
「なにを言う。おまえとて『銀翼の魔女』という二つ名を付けられるほど、空軍の兵士たちを殺しまくっているくせに。懺悔するならおまえの方が先だ」
言いながら、フェルディナンドが腰だめから拳銃を抜く。六発の回転式リボルバーが空になるまで、跪いている妹に向けて弾丸を発射した。
しかし、その弾はすべてルシアの身体を通り過ぎる。後ろに居た交響楽団員が、流れ弾に当たり、悲鳴を上げた。
「……お、おまえ……、実体ではないのか?」
ガチャガチャと無意識のうちに拳銃の引き金を引きながら、脂汗をじんわり流し、うろたえた声でフェルディナンドが言う。
すいっと立ち上がり、長い髪の毛を整えながら、ルシアは真正面から兄に顔を向ける。
「カトラン・グリューネヴァルトに魔法を掛けてもらったの。普通に暮らせる肉体と、魔女として生きる精神体とのふたつに『わたし』を分かつようにと」
「カトラン・クリューネヴァルトだと!」
その名前に驚くのはフェルディナンドだけではない。あまりの衝撃を受け、クロードヴィスの右手の指揮棒が──へし折れた。
「あの、理学魔法の数式の完成者か……。音楽魔法にも造詣が深いと言われている。そいつは……、カトラン・グリューネヴァルトはどこに居るっ!」
フェルディナンドが怒気の混じった声を張り上げた。
しかし、ルシアは一歩も引かない。引かないどころか、ずいっと兄のフェルディナンドの方へ向けて歩み寄った。
「教えることはできません。何故ならわたしたちは戦争をしているのだから」
そして、大切な人たちを殺したあなたを憎んでいるのだから──。
その時、きつい眼差しで兄をにらみ付けるルシアの足元の方が『ドカンッ!』と揺れた。
甲板に居る人々がその揺れと音に強烈な不安を感じるその隙の中、ふわり……と、ルシアの身体が宙に浮く。そして雲雀のごとく銀髪の歌姫は乱雲の中へと消えたのだった。




