「音」が消えた……
それは晴天の霹靂としか言いようがなかった。
『音』が、突然消えたのだ。
甲板上の交響楽団員はしっかり楽器を演奏しているのに。戦艦の機関が発する雑音もさっきまでは聞こえていたのに。
波の音、風の音、人々のざわめく音──それらが一瞬にして消えてしまった。
「ど、どういうこと……?」
アンリもそう声に出してみるが、『外』に声は響かない。口の中から頭蓋骨を通って耳の中に響くだけだ。
交響楽団の団員も、観客たちもおろおろして無音の世界を右往左往している。あのクロードヴィスすら、指揮棒を振るのをやめてしまった。
無音の世界は三分間ほど続いただろうか。突然に天から降りてくるみたいに、別の『声』が聞こえた。
『──立ちあがれ、鎖に繋がれた者たちよ!』
女性の声だ。しかもその声には聞き覚えがあると、アンリははっとして顔を上げる。
いましがたまで羊雲が悠々と浮かんでいた空が、一変していた。低いところにある雲が乱れ騒いでいる。あっという間に空は暗くなり、陰々と陽を影らせた。海から沸き上がった雨粒のような小さな水滴がふつふつと、重力の法則に反して天へと向かって昇ってゆく。
そして聞こえる風を巻き込んだソプラノの声──。
長い銀髪をなびかせ、白い服を着て、魔法機関の助けなく空を翔んでいる、この世の者とは思えない美しい女性がいる。
「……天使さまだ」
同時に『銀翼の魔女』とも『雪原に咲く青い薔薇』とも呼ばれる女性だと思い浮かべ、アンリはつぶやく。
そして気付く。この戦艦の上空に今、ルシア・ニールセンが来ていることを、どうにかしてジョゼットに伝えなければ、と。
(『青』、『青』! ここから、最下層で釜焚きをやっているジョゼさんに、『銀翼の魔女』が来ているって、直接伝えられる?)
口には出さず、脳内の思念だけで自分の相方の一角獣に、アンリは精一杯呼びかける。
(承知! ジョゼット殿の相方『白』に思念を飛ばせば、それはジョゼット殿に通じる。『黒』にも同様に伝えよう。あちらは『提督』の相方だからな)
(それと、ラーイ先生が殺されて。おかしな機械人形にされてしまったということもジョゼさんに伝えて!)
(了解したっ! 必ずその要件、伝えよう!)
直接脳内にそんな声が響く。幸いなことにやる気満々で『青』は了承してくれた。
地獄の釜焚きと言われる第四層のボイラー室だが──今現在はタグボート二隻が軍艦をトロールしてくれているので、火力は艦の発電用程度にしか燃え上がっていない。
それでも釜の中に描かれた魔法陣内で、しぺろっと二股に分かれた青黒い舌を伸ばして火蜥蜴が餌を欲しがってくるので、ジョゼットは適当にスコップを動かして、質の悪い亜炭や泥炭を釜の中に放り入れていた。
(ジョゼット……、ジョゼット!)
頭の中だけで、相方の一角獣・『白』の声が聞こえる。『白』が姿を現すことなく声を伝えてくるということは、非常時ということだ。
(どうしたよ?)
こちらも頭の中だけで言葉を連ねながら、ざらリ──と、やる気なく亜炭のカケラを釜に投げ入れる。
(この艦の上空に、今、『雪原に咲く青い薔薇』の君が来ている。『茨の丘を越えていけ』と唄っていると、アンリ殿からの連絡だ)
(ルシアがぁぁぁ~っ!)
暗号名で告げられても、ジョゼットにはそれが愛しい恋人であるルシアだと分かった。
(それとラーイ先生が殺され、おかしな機械人形になっていると報せてくれと『青』から伝言があった)
(なんだってぇーっ! どういうことだよ、ラーイ先生がなんでっ?)
そしてジョゼットがそれを知ったとほとんど同時に、突然、壁に固定されている艦内の有線電話のベルがけたたましく鳴った。
「へーい、こちら第四層。第一ボイラー」
ジョゼットと同じくの釜焚き人足に身をやつしている同志が、緊張感のない声で受話器に出る。
「へ、へい? 上空に敵? 対空砲を動かすから、どんどん石炭をくべろ──ですかっ?」
受話器に出ている同志と、ジョゼットの視線がかち合う。ライデン湾閘門を出ていないこの場所で、こんな巨大戦艦を沈めれば、後々の船舶の運行に支障が出るが、これが大きなチャンスであることは間違いない。
ジョゼットは片目をつぶって握りこぶしを作ると、親指を上にあげた。
それを見て、受話器に出ている同志も軽くうなづく。そして受話器に向かってこう答えた。
「アイ・サー。これから全員人足をたたき起こして、ガンガン石炭投げ入れますっ!」
「『黒』か? どうした?」
戦艦サラマンデル号を堤防閘門まで引きずってゆく役目のタグボートの機関室で、のんびりとマドロスパイプをくゆらせていた『提督』ことジーザスが声を上げた。
機械の配管で周りからは照明もなく暗くなっている所へ、ぬいっと一角獣の『黒』が姿を現す。
『「青」んトコの眼鏡のボウヤから連絡。上空に我らが歌姫「雪原に咲く青い薔薇」が姿を現して、歌い始めたそうだ』
「ほぅ……」
マドロスパイプの中の刻み煙草を捨て、その火をザリザリとデッキブーツの裏でもみ消すと、ジーザスは艦内の有線電話の受話器を取った。
「水先案内人っ、上空に敵有りとの情報ありっ! 詳細を連絡してくれっ!」
ジーザスは、ガリガリと雑音交じりの有線電話の受話器に怒鳴りつける。
数瞬経って、うろたえているらしい水先案内人の返事がかえってくる。
『上空曇天、波は穏やかだが。十時の方向に「銀翼の魔女」の姿ありっ!』
それを聞いて、ジーザスはひとつうなづいた。
「機関微速・テッド・スロー、舵は左へ取れ。新品の戦艦に横付けして、鈎付きの綱を投げ入れろ。俺が直接様子を見に行く」
こっちの武器はサーベルと拳銃だけだけどな──と思いながら、ジーザスが指令室へと逆に指示する。そして右手に持ったのは、巻き上げ機にスイッチが付いただけの携帯用のロープ昇降機だ。最近の魔法機関の進歩で、昔の海賊稼業時代より随分と便利な機械が発明されているものだと感心する。
万が一の場合に備え、デッキブーツに簡単に取り付けられる滑り止めスパイクを自分の分と、あと二組左手にぶら下げる。
ジーザスは六十を超えているとは思えない軽々しい足取りで階段を登って甲板に出向く。レジスタンス仲間でもある若者がサラマンデル号の船べりへ、三つ又の鈎付きロープを撃ち込んだところだった。そのロープに簡易昇降機の円盤を巻き付けると、身軽にジーザスは甲板の仲間に「後は頼む」と一言残して、サラマンデル号目掛けてロープを頼りに上昇しはじめる。
一角獣の『黒』からの念話があったとおり、遠くから聞き覚えのある美しい歌声が聞こえた。あれは確かに「雪原に咲く青い薔薇」こと、ルシア・セレスティア・ニールセンの声──同時に「風使いの魔女」の血を引く女のものだ。
簡易昇降機のスイッチを切り、サラマンデル号の甲板に降り立ちながらジーザスはつぶやいた。
「……なにが起こるか分からんな。運が悪けりゃ海の上の連中は、夕暮れまで死体すくいだぞ。こりゃ」
渋い顔付きをしながら、ジーザスはこれから起こるだろう事態への覚悟を決める。
魔術と魔法の戦いが始まろうとしていた。




