ジョゼット・クラーセンの場合
三ツ星娼館「ゴールダンリリィ」二階の応接室から、窓に引かれたレースのカーテンの越しに外を眺め遣ると、すでにすぐ向こうの路地の曲がり角から、この店の玄関を見張る秘密警察の者の姿が望めた。
防疫所から解放されたジョゼットがやってきたのは、女日照りな船乗りが陸に上がったらまずは直行するという、東港近くの娼館街であった。
「あらまぁ。クラーセン様ってば、いつの間にこんな有名人になられましたの?」
追っかけ記者が張り付いていますわよ──そう朗らかに言うのは、派手な化粧の娼婦ではなく、いかにも品の良い中流階級層の外出着を纏い、結い上げた髪の生え際に幾筋もの白髪が目立つ、初老の御婦人だった。
部屋にはもう一人、若い男が居た。身長や体付きどころか、よく日に焼けた顔の目鼻立ちに至るまで、まるで双子の兄弟のようにジョゼットとそっくりだ。
ジョゼットと瓜二つの顔をした男は、敬礼しながら、緊張気味に口を開いた。
「クラーセン少尉。無事のご帰還、お喜び申し上げます」
「このご時勢に、普段着を着たまま軍隊用語使うなよ。しかも今は、俺らレジスタンスだろう。海軍に居た時の階級なんざ、糞壷の蓋の役にも立たねぇぜ」
などと、くだけた口調でジョゼットが、自分そっくりに変装したレジスタンスの同志を、なんだか気味の悪い物を見るような目つきで眺めている。
「にしてもなんだなー。これだけそっくりに変装された相手と向かい合っていると、なんか虫唾が走るような妙な気分になるな」
「顔は、魔法使いのじぃさんが作ってくれた肉付き仮面を張ってます。髪は、頭の毛どころか、眉毛や睫毛まで染めたんですよ。靴も少し上げ底して、身長も同じ高さになるように工夫してみました」
防疫所から解放されてからも、ジョゼットに尾行が付いてくるだろうことは予想の内だった。だから秘密警察の目を眩ますため、地下活動家に協力的な娼館「ゴールダンリリィ」内で、変装した替え玉役と入れ替わるという計画を、用意周到に準備してあったのである。そのため二人は、お互い着ていた服まですべて交換していた。
「というわけで、今日これからの、同志フレデリック・シュルトム君の任務は。俺の替え玉として、この店で遊んだ後、外出禁止門限の午後九時までに港の『デメテール号』に戻り、以後、明後日の出航時まで船内で過ごすこと。その後は次の寄港地、セバスゲートでの指示を待て──以上だ」
外国籍船舶内は治外法権なので、港に着岸していても、特別な捜査令状でもない限り秘密警察ですら立ち入ることはできない。つまり出航まで、替え玉の「マルセル・アラン・ルマット」は、船内に篭城する作戦だ。
その命令を聞いた替え玉側は、爛々と目を輝かせた。
「ってことは、活動資金使って、堂々と女遊びしてもいいってことですかぁー? でもって、港に戻る前にポルノショップとかへ寄って、航海中のお楽しみ用に、彩色石版刷りのお色気雑誌なんかも買っちゃってもいいわけですかぁー?」
「おまえなー、御婦人の前ではそういう質問は控えろよ」
これだから水兵ってヤツは……と、ジョゼットは鎮痛な面持ちでその場を取り繕う。
「ま、今回渡された予算内なら、二、三冊の雑誌の購入くらいはいいんじゃないの」
というか、その手の個人的な「おみやげ」を買わずにこの娼館街を後にする船乗りの方が、絶対的な少数派だ。尾行者に疑われないためにも、その手の店に立ち寄ってから船に戻ったほうが安全と思われる。
「でも、はっきり言って。俺らレジスタンスの資金源、亡命政府の金庫の状態は芳しくないんだ。賭け事みたいな無駄な使い方は慎めよ」
「了解しましたっ! それでは僭越ながら、楽しませていただきますっ!」
そう返答して敬礼しおえると、替え玉は鼻息荒く、ベッドの上で一戦やらかすため応接室を出て行った。
「面白い方ねぇ。海軍の兵隊さんって、みんなああなの?」
替え玉の行動を見ていた、この娼館の経営者の妹である老婦人は、おっとりとした笑みを浮かべた。
「まぁ、海軍は士官学校ですら、試験にさえ合格すれば、洗濯屋の息子だろうが靴屋の倅だろうが入学できますから、指揮官からして個性的なのが多いですよ。その下に付いてきてくれる兵卒ともなれば、いわずもがな、ですわな」
苦笑いしながらジョゼットは、やや緊張感が解けたふうに、くしゃくしゃになった煙草の紙箱を、ツイード織りの上着のポケットから取り出した。
「すいません、一服してもいいですか?」
「あら。お煙草なら、そんな紙巻きの粗悪な品より、もっと上等な物を用意してありましてよ」
そう言って老婦人は、テーブルに置かれたシガレットケースの蓋を開けて見せる。箱の中にはずらりと、金色の紙で一本ずつ封された、最高級品の葉巻が並んでいた。
その葉巻一本分の代金で、今、手にしている紙巻き煙草が三カートンは買えるだろう。ジョゼットは、一瞬ごくりと喉を慣らしたが……。
「いえ、あんまり上等なヤツを呑み慣れちまうと、ハドニア海軍の知り合いから巻き上げてくる官給品が吸えなくなっちまうんで。ご好意はありがたいんですが、遠慮しておきます」
結局マッチだけを借りて、微妙に折れ曲がった紙巻き煙草に火を付ける。
「まぁ。クラーセン様ってば、本当に倹約家で謙虚で質素で奥ゆかしくて、まったく典型的なアウステンダムっ子でいらっしゃるのねぇ」
「いえ……。貧乏暇無しって感じで、上からこき使われて。金勘定に小煩くて、こつこつ小銭貯めることだけが楽しみっていう、下町根性丸出しのアウステンダムっ子なのは、確かですが」
自虐的になりながらも、全面否定しないあたりが、いかにもジョゼットらしい。
では、代わりにコーヒーでも淹れましょう──そう言って老婦人は、この戦時下ではすでに貴重品である本物のコーヒー豆を、手回しハンドルのミルで挽き、サイフォン式の抽出機に水を注ぐと、マッチを擦ってアルコールランプの芯に火を灯す。
「──実は先月の末に、兵役に取られていた次男が、傷病兵として、強制除隊になって戻ってまいりましたの」
コーヒーが入るまでの十数分間、話題を途切れさせぬよう、老婦人はおのれの近況を語り始めた。
「塹壕足、というのですか? 湿度の高い、泥沼のような塹壕の底で這いずり回らなければならない戦いの中。悪い病原菌に感染した両足が先端から壊疽を起こして、足を切断せねばならなくなったのですよ。なのに、ルブランス人の軍医は、『ベート人のような劣等人種に、麻酔をかけて手術してやる必要はない』と、息子の両足を腐らせた状態のまま、この街へ送り返してきました」
ふつふつと静かに沸騰してゆくフラスコの中身が、ジョゼットには、まるで老婦人の心中の怒りを表しているかのごとく見える。
「それでも──ベート教の司祭として信仰を捨てられず、礼拝所の建物ごと焼き殺された父や、危険思想犯だと決め付けられ、秘密警察の手で拷問死させられたあげく、『ベート人なのだから、ベート人の墓地へ葬れ』と、粗末な木箱に亡骸を詰められ突き戻されてきた長男よりは、命があっただけ、マシなのでしょうが……」
無条件降伏したアウステンダム市内でも、特別商業区内のこのベート人居住区でだけは、一時期、ルブランスの革命軍兵士の手によって、地獄のような光景が繰り広げられた。首都を無血占領することに成功したメルベイユ将軍は、まるで全アウステンダム市民への見せしめとするかのごとく、国を持たぬ民である異教徒、ベート人の宗教指導者に「棄教か死か」との二者択一を迫った。
三千年もの間、世界中に散らばり放浪の民として生きるベート人を、ひとつの民族として結び付けているのは、なによりも強い信仰の力だ。
メルベイユ将軍は、最初からベート教の宗教指導者が信仰を捨てるはずなどないと踏み、礼拝所に彼らを押し込めると、建物に火をつけ、生贄の羊として血祭りに上げた。
やがて占領軍政府の命令により、次々と軍に徴兵されたベート人の若者も、露骨なほど危険な戦闘地帯、東部のドルンベルガー帝国との最前線へと送られて行ったのである。
「次男の足の切断手術は成功しましたけれど、今後は一生、車椅子暮らしですわね。そんな身体では、お嫁に来てくれる娘さんなんて、見つかるかどうか……」
フラスコから、湯気を上げる琥珀色をした飲み物が、青い染付け模様の白磁のカップへと、静かに注がれる。ジョゼットが口に含んだコーヒーの味は、やけに苦く感じられた。
「確か、まだお子さんが何人かいらっしゃったと記憶していますが……」
「ええ、結婚前の娘が二人と、年の離れた末っ子で、まだ中等学校生の息子がおります。でも、あの子たちはもうここには居ません。新大陸に移住した親族の元へ預けましたから」
ここへ置いておいたなら、いつ何時、どんな災いが降りかかるか分かりませんもの──と、老婦人は親心を吐露する。
ルブランス人のベート人嫌いは有名だ。
革命前──ルブランス人の大多数がロマーナ旧教を信仰していた時代も、ベート人は「豚」と呼ばれ、蔑まれてきた。ベート人というだけで、姓を持つことは許されず、土地を所有する権利はなく、真っ当とされる職業からは追放され、賎業とされた畜殺業や金貸しや娼館の経営者になる他、生きる道はなかった。
「まったく──わたくしたち、ベート人ほど数奇な宿命の星の下を生きる民族は他にありませんわね。なにしろもう、三千年という気が遠くなるような歳月を、神から祝福された祖国からの追放、異民族からの支配と迫害、異国の地での再集合と束の間の繁栄、そしてまた迫害と流転とを、幾度となく繰り返してきましたもの」
その長い旅の中で何世代も続いた混血の果てに、白い肌や金髪や青い瞳を持つ子供たちがベート人として生まれてきたが。それでも今もなお肌の色を書類上記す時、ベート人の肌は「赤色」と書かれる。
歴史上でも、今を遡ること四百年ほど前──大陸の西端・タンベル半島のガスパニオ王国で暮らすベート人たちには、ロマーナ旧教徒から、「改宗か死か」という大暴行が加えられた。しかも、半年以内に国内から立ち退かない者は虐殺するとの、国王からの最終通告が突きつけられたのである。
「けれども、そんな大迫害の時代でも、この自由都市・アウステンダムだけは、わたくしたちの移住を認めてくれました」
当時のローランドは、宗主国ガスパニオとの六十年間にも及んだ独立戦争の真っ最中であった。独立派の最大拠点であったアウステンダム側としては、金融業を営むベート人の組織力を利用し、軍資金を得たいとの思惑があったのだが。
しかし、それ以上にベート人にとって魅力的だったのは、アウステンダムは、当時の宗教事情では信じられぬほど画期的なことに、完全な信仰の自由を認めていたのだ。
そのため、タンベル半島から逃亡したベート人のほとんどは、アウステンダムへと移住した。
「思えばこのアウステンダムの街は、三年前のルブランス軍侵攻までは、本当にベート人にとって暮らしやすい土地でした。その昔、クラース三世陛下が新市街地造成に着手された折り、わたくしたちベート人居住区となる予定地に、ベート教の礼拝所と聖職者育成のための神学校用地が確保されていると知った先祖は、それこそ涙を流して喜んだと伝え聞いております」
そう言う老婦人の灰色の瞳も潤み、いつの間にか涙が滲んでいた。
「このアウステンダムで代々暮らしてきたベート人は、ロザムンド王家から受けた数々のご恩を忘れることなどできません。ですから、なんとしても勝ってください。あの、憎んでも憎みきれないルブランスの軍勢に──」
目蓋をもうひと瞬きでもすれば零れ落ちるだろう、目尻の大粒の涙を、老婦人はレースの縁かがりが美しい絹のハンカチでぬぐった。
そして毅然とした表情でジョゼットに向き直ると、つとめて明るい口調で、彼女の側から話題を変える。
「さて、それではそろそろ『クリューゲル宝飾店』の経営者として、取り引きのお話しとまいりましょうか? 今回はどれだけの量、ダイアモンドの原石をお持ちになったのです?」
その言葉を聞き、やおらジョゼットはテーブルの上に帆布製の筒袋を置く。ズボンのポケットから小型の折り畳みナイフを取り出すと、袋の底を補強するため付けられている皮製の部分と、帆布とを縫い合わせている糸を、その刃先で切ってゆく。帆布の底と補強皮の間は、二重底になっていて、そこには、レジスタンス組織の資金源になってくれる、貴重な密輸品が詰め込まれている。
緩衝材の真綿に包め込まれたそこからは、八角形の無色透明な小石が、ざらざらと百個近く現れた。
「これだけの量ともなれば、正確な鑑定には時間が掛かるだろうが。とりあえず、産出地での品質鑑定では、すべて無色透明、内部に傷無し、五カラット以下の石はない──」
と言いながら、こちらも二重底の中に隠されていた、ダイアモンド原石の鑑定書の束をジョゼットは取り出す。初老の夫人もピンセットやルーペを用意して、テーブルの上にスタンド式の陽光灯の明かりを灯した。
「では、拝見させていただきます」
海洋交易王国として発展したローランドは、他の列強諸国の例に漏れず、海外に本国以上の面積を有する植民地をあちこちに持っている。
古くは暗黒大陸と呼ばれた地の南端に有する植民地・オランジェムンドは、本国ローランドがルブランス共和国の手に落ちてからもなおローランド領を名乗り、現在も亡命政府を支持している。
それはこの地に、すでに大勢のローランド人移民が生活しているからであるが、最大の理由は、オランジェムンドには世界最大級のダイアモンド鉱床が存在するからだ。
資源に乏しく、小麦が実る土地にもあまり恵まれず、干拓工事で国土を広げるしかなかったローランド王国は、植民地から輸入された資源の加工貿易で富を得てきたといっても過言ではない。
その中でも莫大な富を左右するダイアモンド貿易に関しては、アウステンダムの特別商業区に暮らすベート人宝石商たちが、世界中の加工石流通の九割近くを掌握しているのである。ダイアモンドを、原石から美しい装飾宝石として加工する技能を持つ職人も、ほとんどがベート人だ。
「とりあえず十個ほど、特に目に付く大きな石だけ拝見させていただきましたが、見事なものばかりです。これならば、最上級の宝飾用原石として立派に加工できますわ」
女性ながら、ダイアモンドの等級を品定めしてすでに三十年という年期の入った鑑定士は、ジョゼットが、レジスタンス活動資金として換金するために持ち込んだ原石の、品質の高さを断言した。
「では、こちらは前払い金のほんのごく一部と、この国でクラーセン様がしばらくの間生活してゆけるよう、当方で用意したものです」
旅券と船員手帳、身分証明書や夜間外出許可書からはじまって、外国人在留許可書や拳銃携帯許可書、出稼ぎ労働者用の就労許可書──そして巡回公安から脱走兵と疑われ、職務質問された時に差し出す除隊証明書などなど、占領下アウステンダムにおける不法滞在に必要と思われる許可書一式が、ずらりとテーブルに並べられる。
実はこれ、すべてレジスタンス活動に加担する印刷工たちが作り上げた贋物だ。
「相変わらず、見事なもんだ。これ、ほんとにみんな偽造品?」
ジョゼットが感心しながら、偽名を記されているそれらの許可書を一点ずつ確認してゆく。印刷技術の高さも素晴らしいが、芸の細かいことに折り皺や手垢汚れまでわざと付けて、いかにも許可書を使い込んでいるよう見せかけてあるところが、また凄い。
「おほほほ……。アウステンダムの印刷技術は世界中でも最高レベルですわ。四十年ほど前の、オランジェムンドを巡るハドニア連合王国との紛争の折り、ハドニア経済を混乱させるために印刷したアウステルダム製偽造紙幣は、熟練銀行員の指先でも判別できず、中央銀行の大金庫の中にまで行き着いたという逸話が残っておりますわよ」
といって老婦人は、一般人が普段の生活で使用する小額紙幣の束を──もちろん使用済みの札ばかりを、男物の財布に入れてジョゼットに手渡した。
「残りの代価は、鑑定をすべて終えた後、いつものように中立国のザルツランド国営銀行の秘密口座へ入金させていただきます。それでよろしいでしょうか?」
「ええ、そのようにお願いします」
うなずきながらそう答え、ジョゼットはツイードの上着の内ポケットに、手渡されたばかりの財布を仕舞った。
「──あのぉ、ところで」
ダイアモンド原石の取り引きがひと段落すると、老婦人は遠慮がちに声を潜め、ジョゼットの耳元で囁いた。
「裏の運河にボートを用意してありますが、日が暮れるまでにはまだかなりあります。クラーセン様がお望みになるのでしたら、時間潰しのため、この店のどの娘でもお好みの相手を選んでいただいてかまいませんのよ」
ここはわたくしの兄が経営する店ですから、料金のことなど気にせず、ごゆっくりなさってくださいな──と、最後の最後まで細かく気を使われてしまう。
けれど、それを聞いたジョゼットは、微妙に視線をはぐらかせた。
「いやぁ……。その申し出、男としては角が立つから、言いにくいんですが──」
そこまで気を使わないでくださいと、やんわり遠まわしに申し出を断る。
「なにしろ俺の貞操は、『歌姫ルシア』って銀行に、十年満期で預けてありますから」
ジョゼットは真面目ぶった表情をくしゃりと崩すと、思いっきりにやけた顔で、飛び切りののろけ台詞を言い切った。




