天才音楽史の苦闘
問題は、オーケストラ団員のうち、何人が正規の音楽教育を受けているかだ──と、ヴィクトールは練習場を眺め渡した。
金管楽器演奏の基本、ロングホーンの特訓の真っ最中である。
護国卿のお声掛かりで、一般兵士の中からも演奏者を寄せ集めた混成部隊のようなオーケストラには少年の姿が多かった。
演奏会本番まであと三週間、日曜日といえども休日返上で練習に励んでいる──のだが。絶対音感を持つヴィクトールの眉間には、不快そうな縦皴が刻まれている。
(チューニングがなっていない……)
基本となるA音からして、ほとんどの者が微妙に高さが狂っている。
だがそれ以上に、この隊員のほとんどが、ろくに楽譜を読めていないのではなかろうかとの疑念が、ヴィクトールを不安にさせる。文字が読めなくても母国語は話せるように、楽譜の読み方、記号の意味を知らなくても、学校の音楽教育とは無関係に育った市井の辻楽師の中には、自己流のやり方で流暢な音楽を奏でる者が大勢居るからだ。
五線譜も音符もメトロノームも、すべては「演奏する」とき便利な道具であって、音楽そのものではない。
けれども、その意味を理解していなければ、魔法音楽理論に副って作られた交響曲を演奏するのは難しい──だから楽譜を読めない者に、ここに居てもらっては困る。
(まぁ、塹壕の中で一日中身を潜ませていなければならない前線に送られるより、演奏家として上級士官の晩餐に侍っていられるほうが遥かに楽だというのが、このぼうやたちの本音なのだろうな)
どうしても楽隊兵の席を手放したくないがために、顔を真っ赤にして練習を続ける少年たちの立場に、ヴィクトールは少々同情する。
塹壕を掘りめぐらせた最前線の戦場に送られれば、あの少年たちは、冷え切った缶詰めの豆と簡易食料の黒パンしか食べられないだろう。兵舎でさえも、皿ひとつに盛られたごった煮料理をスプーン一本でかき込むのが一般兵士の食事の常だ。
しかし士官は──軍の指揮官が貴族出身者だけで占められていた頃から続く悪習なのだが──たとえ戦場に向かう船上であろうとも、優雅に食前酒や前菜から始まるフルコースを食すのが基本であり、ダイニングルームには伴奏曲を演奏する楽師まで配置される。
軍隊が、吹奏楽を中心とする交響楽団を持つのはこのためだ。上級士官の華やかなパーティーでは、運が良ければお相伴にも与れるので、楽隊兵になりたがる兵士は多い。
両手を叩いてロングホーンの練習を中断させると、ヴィクトールは少年たちに言った。
「これから楽譜を配る。全員、楽器を置いて。椅子だけ持って、こちらへ集合」
交響曲「鉄槌」のスコアは、ヴィクトールが一晩かけて過剰な装飾音符を取り除き大幅に改編した。そうでなければ二時間近くにも及ぶこの大作を、素人同然の少年兵を寄せ集めた急造楽団では演奏できないだろう。
それでも本番までたった三週間だ、地獄の特訓になるのは間違いない。
少年たちに丸く円を描くよう椅子を並べさせる。五線譜が印刷された分厚い紙束を、使う楽器ごとにパートが違う譜面を配りながら、その円の中央に立つと、ウィクトールは冷徹な口調で宣告した。
「私の指導下にあるかぎり、軍の吹奏楽団はお気楽な演奏楽隊との概念は捨ててもらおう。これから三週間、一日十時間の練習に耐えられぬ者は、即座にこの場から去ってもらって構わない」
おのれの容赦ない物言いに、少年らが萎縮するのが分かる。けれど椅子から立ち上がって、部屋の外へ出てゆく隊員は皆無だ。
「さて、これから私がする質問に素直に答えてもらおう。この中に、楽譜が読めない者が居るはずだ。その者は挙手して欲しい」
練習場が、針を落としても分かるほどに静まり返った。うつむき、自分と目を合わせようとしない少年たちの様子を見て、ヴィクトールは言葉を続ける。
「楽譜が読めなければ、この楽団から追い出されてしまうのではないかという、君たちの危惧はよく分かる──けれども実は、私も十五歳の頃までは楽譜が読めなかった」
監督官の告白に、少年たちの間から声にならないどよめきが起こる。
さて、ここからは吟遊詩人ばりに、おのれの半生を語らなければならない──と、ヴィクトールは開き直る。胸襟を開かなければ、相手もこちらを信用しない。もっとも胸中の本音までさらけだすつもりは、さらさらないが。
「楽譜は読めなくても、耳だけで曲を倣い憶えて演奏するのは、辻楽師の家に生まれ育った者にはよくあることだ」
私は辻楽師の家に生まれたのだと、静かに、つぶやくような口調でヴィクトールはおのれの過去を語り始めた。
「ピアノが好きでね。どうしてもピアノの演奏家になりたかったが、貧しい家だったから、高価なピアノなど買えず、音楽教師にもつく金はなかった。一家の稼ぎ手である辻楽師だった父が、早死にしたのも痛手だったな」
寡婦となった母は、ひとり息子を学校に通わせたい一心で、昼も夜も縫製工場で働いた。
けれど女工の安い賃金では、息子を中等学校にまで通わせるのが精一杯だった。幸い、ヴィクトールの成績は飛びぬけて優秀だったから、教師も目を掛けてくれて、
「無償の奨学金が受けられる士官学校へ進学したらどうか」と勧めてくれた。
「そのため、士官学校でなんとか音楽を志す道はないかと私は探し求めた」
道はあった。士官学校に合格すれば、戦略手段としての魔法音楽を学ぶことができる音楽科もあるのだと、幼い日のヴィクトールは知ったのだ。
「だがそのためにはまず、楽譜が読め、そこに記されている音符や記号の意味をたちどころに理解して、初見で演奏できるようにならなければならない。私は五線譜を目の前に置いて、爪が割れ、指先が血に染まるほど、黒板にチョークで描いた鍵盤で練習したよ」
実技試験に合格するための練習は、筆記試験の勉強よりも過酷だったという。その練習があったからこそ、今の自分があるわけだが──と、ヴィクトールは結ぶと、壁際に、影法師のごとく無言で並んでいる部下たちの中から、ひとりを呼んだ。
「ランビエール。そこのフルートを持って、こちらへ来てくれ」
いきなり名前を呼ばれ面食らっているが、ヴィクトールは構わず、「三十六小節目まで、演奏してくれ」と、部下の手に無造作にスコアを押し付ける。
しぶしぶといった表情で部下はフルートを唇にあてがう。すると、五線譜の上に印刷された音符が、奏者とその楽器により再生され、滑らかな響きとなって部屋に広がってゆく。
ヴィクトールは、楽譜が読める演奏家になれば必ず出世できるという希望の種を、この少年たちの心に植え付けたかった。目の前にニンジンをぶら下げてやれば、まぬけなロバとて真っ直ぐ走るのだから。
どうやらその目論見は成功したようだ。早くも幾人かが尊敬の眼差しで、初見のスコアを三十六小節目までよどみなく吹き終えた奏者を見つめている。
「このレオン・ランビエールをはじめ、私の部下は皆、優秀な演奏家だ。君たちの、良き模範となってくれるだろう。今後しっかりと指導してもらいなさい。そうすれば君たちにも演奏家としての未来が開けるはずだ」
その発言に、ヴィクトールの部下どもの眼が見開かれ、「そんな話しはひとことも聞いていない」と声高に訴える。
そんな部下たちの不満を、ヴィクトールは一瞥して黙らせる。
「六十人ものオーケストラ団員全員の面倒を、私ひとりで見て回ることなど不可能だ。楽譜の読めない者たちには、なるべく私が直接指導を行うが──」
「待ってください、室長!」
「キャンデーロは第一ヴァイオリンの首席に就いて、団員との意思の疎通と演奏の際の統率を図ってくれ。ジュベールは打楽器の指導を。ベルネンは管楽器を中心に指導──」
「室長!」
声を荒げる部下たちがヴィクトールを取り囲み、強引に廊下へと連れ出した。
軍部ではヴィクトールは戦略音楽の第一人者。同時に、現代魔法音楽の最先端をゆく理論者として、シテ・ドゥアン屈指の名門音楽院「サンクチュエール」からも一目置かてれている。本来の職務に忠実になるなら、こんなところで素人楽団の監督役をしている暇などないのだ。
「いや、それどころか。いまや叡智の殿堂『アカデミオン』からの招待状を受け取るほどのあなたが、田舎の音楽教師の真似事ですか! 馬鹿げている!」
「新たな『魔術師』として正会員の席を、しかも新月ではなく、いきなり三日月の階級を与えるという破格の待遇を蹴って、どうして!」
「魔術師」とは、古代の知恵ではなく、新たな理学魔法を使役する技術者を呼ぶ時の名称である。「正真正銘の魔法使い」とは別物とされている。ヴィクトールの七人の部下は、全員が、三代前までの祖先の中に「正真正銘の魔法使い」を持つ、「魔法血統」に認定された家系の出身だ。そのため気
位が高く、軍部の連中をなにかと俗物呼ばわりし、上官であるヴィクトールもその点が扱いづらい。
「メルヴェイユ護国卿のご機嫌取りなど、取り巻き連中に任せておけばいい。今、我々が成さなければならないのは、完全音階を究めた魔法音楽理論の完成です!」
「そうです! 戦略音楽や、俗世の権力者崇拝のための曲作りなど、なんになるというのです!」
「少なくとも、飯のタネにはなる」
逆上気味に詰め寄ってくる部下たちのやか
ましさに、内心うんざりしながら、ヴィクトールは十二分に冷淡な口調で答えた。
「私は、『魔法使い』の血縁者として身分を保証された、君たちとは違う。季節の変わり目ごとに入退院を繰り返す厄介な病人を抱えて、高額な治療費の支払いに頭を悩ませる身の上ともなると、扱う音に低俗も高尚もないんだよ」
なにが「魔術師」だ、「アカデミオン」だ──と心中、ヴィクトールは毒づく。おのれの母親を始め、魔法音楽では救われない病人がこの世には多すぎるのを、自分の眼は見てきたのだから。
「それにあの護国卿は、腐っても総統閣下の甥っ子だ。七光りとはいえ、その権力をみくびるな」
ここは俗世で、自分たちが組み込まれている組織は総統府直属の特殊機関なのだと、いい加減理解して欲しいと思いながら、ヴィクトールは沈痛な面持ちを装うと言った。
「とにかく、メルヴェイユ護国卿や側近を感動の渦に巻き込み、歓喜の涙を会場に降らせなければ。三週間後の就航式典で、つつがなく『鉄槌』を演奏し終えなければ、我々がこの役目から無事に降りられる保障はどこにもない」
下手をすれば首が飛ぶ──右手を上げると、ヴィクトールはおのれの咽喉を掻き切る仕種をする。
貴位ばかりが高く扱いづらい部下だが、馬鹿ではない。
だから今一度思い出させてやった。この革命政府支配下のルブランスでは、セザール・ゴドフロアという独裁者が、自分たちの生殺与奪の権利を握っていることを。




