ワン・フォア・ザ・ロード
ジャズが静かに流れる、深夜のラ・シエル・ヴェール。とある酒を一緒に呑むようになってから、ふたつの季節を越えた今日この頃。いつものカウンター席でいつもの酒を傾けつつ、先輩はこう語りかけてきた。
「ワン・フォア・ザ・ロードって知ってるか?」
なんですかそれ、と少し浮遊感のある頭で答えると、「いや、前にドラマで見たんだがな」と話し始める。横顔を盗み見れば、どこか遠いところを眺めているような、いつもの表情をしていた。いくら呑んでも顔色が一切変わらない先輩が、少しだけうらやましい。
「直訳すれば、『道のためのひとつ』。んで、意訳が『家に帰る勇気を持つための一杯』、だったか」
「勇気も何も、帰ることは良いことじゃないですか」
「そうかあ? 俺は共感するよ」
先輩は、もうほとんど中身のない黄色のグラスを、左手で上から持ち、氷をカランと鳴らす。一方、私の青いグラスには、まだ半分も残っていた。先輩に倣って、グラスを傾げてみる。先ほどのような澄んだ音は鳴らず、カクン、と氷が傾くだけだった。
「いい時間を過ごしてると、離れがたくなるからな。何かしらの切っ掛けがあって初めて、よし帰るか、って気になれる」
「……ロマンチストですねえ、先輩は」
「お前もそういうとき、ないか? この瞬間が、いつまでも続いたらどんなに良いだろう、っていう」
一般論として、問いかけられているのだろうか。
確かに私にも、寂しいな、と思うときはある。大学に入ってからは、以前と比べて、それが増えたような気もする。絵で例えるならば、無心で美しい陶器を模写しているとき。いかに正確に、本物に近く、目の前の紙に写しとれるか。どれだけリアリティを追い求められるか。そんなことを考えながら手を動かしている時間は、私にとっては、とっておきだ。それから、散策から帰るとき。とっても素敵な場所を見つけたときは、なんとなく帰りたくなくなってしまう。
しかし、気持ちとは別に、頭の片隅では思うのだ。
「終わらない時間なんて、ありませんよ」
と。
「まあ、そうだけどなあ」
お前、相変わらず頭固いよなあ。そう苦笑されるが、私は本心を述べただけだ。
ふわふわ、くらくら。
常時と変わらぬ固い頭とは対照的に、浮遊感が更に増す。加えて、なんだか頭がぐるぐるしてきた。
「悪かったですね」
「お前はリアリストだからな。ついでに言えば、お前は――」
浮遊感が、確かなめまいに変わる。ぐい、と何かに引き寄せられた気がしたけれど、それが何かを確認する前に、私の意識は遠くなっていった。
▽
「――お前はもう少し、酒に弱いことを自覚しろ」
ぐらっと大きく傾いたところを、すんでのところで支える。くったりした後輩の頭を自分の肩に乗せ、俺はため息をついた。いまいましいわけではない。その表情が、あまりに無防備すぎたからだ。
「マスターぁ、何か入れただろ」
弱いにしても、いつもはこいつでも飲めるぐらいの度数で作ってもらっている。グラスも特別大きいわけではない。だから、半分も残して潰れるなんてことは、普段ではあり得ないのだ。問いかけられた当人はというと、しれっとした顔で、否定する素振りさえ見せなかった。
「ええ。同じフレーバーで、度数の高いものを使用しました」
「……こいつ、弱いって言っといたよなあ?」
「もちろん。だからこそ、ですよ」
にっこり、意地の悪い微笑み。後輩は俺のことを変わり者呼ばわりするが、一番タチの悪い人がマスターだってことを、俺はよく知っていた。
「サディストでもあるまいし」
「もちろん違いますよ。ただ、お節介を焼きたくなりましてね。むしろ遅いぐらいじゃないですか」
「……けっ、余計なお世話だ」
俺は吐き捨てると、荷物を担ぎ上げ、後輩を横抱きにした。そして、マスターに視線を戻す。
「叔父さん、お代は小遣いから天引きしといてくれ」
「……素直になりゃ、可愛げもあるんだがなあ」
「ほっとけ。……ありがとよ」
「おう。ああ、先帰るなら、朝飯作っといてくれよな。お前の超絶ふわっふわの卵焼きが食いたい」
「ええー。あれ、めんどくさいんだけど」
「頼んだぞー」
にやにやしながら、手を振る叔父。嫌な顔をしても効果が無いことはもう、長年の付き合いから学んでいる。仕方ない。静かに寝息をたてる後輩をもう一度確認し、珍しくマスターと常連の女性だけの店内を後にした。
▽
「あらあら。〝one for the tell〟ってとこかしら?」
「よくお分かりで。……あいつも、よく半年も待ったよなあ」
くすくす、と彼女は上品に笑う。だが手に持っているのは、かなり度数の高い、シェリー酒だ。それを事もなげに、水であるかのように飲み下す。それに関しては彼女の生い立ちも関係しているのだろう。
「本当に。あのカクテルを最初に二人分頼んだときにはもう、あの女の子も自覚してるものだと思ったのだけど」
「あの子はリアリストだからなあ。俺の甥っ子と違って」
「……『お父さん』って呼ばせてないあたりが、あなたらしいわね」
「そうか?」
まあ、未婚だしな。俺は若干、強調するように言葉を彼女に投げかけた。くすくす。また、彼女は上品ぶって笑う。昔馴染みの、優しいようでしたたかな、酒の卸売り会社取締役。
「あなた、わざとじゃないわよねえ?」
「当たり前だ。お前以上に良い女が見つからなかった、それだけだよ」
かちり。
店の壁に掛けた柱時計の、ふたつの針が真上を指して重なった。特有の低い鐘の音が、二人きりの店内に響く。
「まあ、ロマンチストね」
「で、どうするんだ? たった今、お互いに独身の四十代を迎えたわけだが」
「決まりきってるくせに、女から言わせるのかしら?」
「あー? お前から言い出したくて、シェリーを頼んだのかとばかり思ってたが」
「風情がないわねえ」
彼女は、グラスに残った酒を一気に煽った。
最後の、十二回目の鐘が鳴り終わり、余韻がまだ残る中。俺は彼女が口を開く前に、その言葉を告げた。
「さて、ミセス。ポートワインはいかがですかな?」
「……私、ここにジンを卸した覚えはないんだけど?」
「ああ、買ってないよ。だから、ブルームーンは頼ませない」
「…………ほんと、嫌みなロマンチストね」
「君も大概、な」
「ええ、ほんとに」
くすくす。再び、上品な笑い声が店内に戻る。俺は色違いのふたつのグラスを取り出そうとして、――やめた。俺達には必要ない。代わりに切子の透明なワイングラスを棚から二つ取り、注ぐ。
とく、とく、というワインの音が、いつかの遠い昔に交わした約束を、ふたたび思い出させていた。




