ラ・シエル・ヴェール
駅前の大通りをまっすぐ進み、ふたつ先の十字路から、一本左の小道へ。川沿いにしばらく歩くと、その店はある。
ビルに挟まれた小さなアーチから、暗く急な階段を下ると、ぼうっとしたオレンジ色の光に照らされた看板が正面に見えてくる。その頃にはもう階段ではなく、小さな踊り場になっている。実はさらに階段は続いているのだが、今はその話をすべきではないだろう。とにかく、その場から看板の真下に身を置き、体を右に四半回転させればほら、――カフェ、ラ・シエル・ヴェールの入り口である。
直訳、緑の空喫茶店。しかし奇妙な名前や立地にもかかわらず、このカフェは、至って普通。なはずがない。
当たり前だろう、こんな所に店を構えること自体、珍妙意外の何物でもない。……などと断言しては、全国の地下カフェに怒られるだろうか。だが少なくとも、明るく爽やかなカフェを目指しているのならば、好んでこんな場所を選ぶことはなく、光あふれる表通りの可愛らしい店にするだろう。しかしまあ、このカフェ、ラ・シエル・ヴェール、閑古鳥の鳴いたことがない。常に、誰かしらの客が来るのだ。むしろ閑古鳥が逃げる名店、知る人ぞ知る隠れ家である。
さて、私もラ・シエル・ヴェールの常連その三なわけだけど。とほほ。こんなところの常連といえば、私以外みーんな、変わり者ばっかりなのだ。そして今、カウンター席にいる私の隣に腰掛けているのが、常連その二。この店きっての変わり者で、私が一昨年の春に入ったサークルの先輩である。
総人数二人であるこのサークルの名はもう忘れた。が、趣旨だったはずのものは、うっすらと覚えている。確か、「あらゆる土地を散策し、みずからの地理を深める」みたいなことだった。実際、活動として、様々な場所の散策を一応はしている。気に入った場所ではレポートも書き、大学側に活動履歴として提出している。しかしそれらはほとんど先輩の独断で決まるので、活動日も活動場所もまちまちという、普通ではありえない、というか、あってはならないことになっていた。これがきっと、このサークルに人が来ない理由のひとつなのであろう。
以上の話が、カフェにどう繋がってくるのか、想像力の超豊かな人には分かるかもしれない。いや、ふつう分からないから安心して。
散策のあと、必ず先輩が寄る店。それが、ここだった。
「何だあ、変な顔しやがって。あ、いつもか」
「余計なお世話です。……先輩は」
「ん?」
「何でいつも、帰りにここに寄るんですか?」
そして、何故毎回、半ばむりやり付き合わせるのか。
「そうだなあ、あえて言うなら、都合がいいから。だな」
「はあ。何の都合だか知りませんけど、なかなか可愛くて私も気に入ってますよ」
「…………、」
先輩は何かをぼそっとつぶやくと、私のケーキ皿に何も乗っていないことを確認する。そしてめんどくさそうに、「マースター、そろそろアレ、ちょうだい」と店主を呼んだ。
「今日はふたつね」
「……かしこまりました」
店主は頷くと、店の奥ではなく、出入り口の方へと消えていった。そう、例の階段を下って行ったのである。実はあの先、酒蔵になっていて、夕方からの裏メニューとして扱われているのだ。そして先輩は、いつも決まって、帰りにひとつの酒を頼む。「いつもの」やら「アレ」やらと呼ぶせいで、種類も知らなければ名前も知らない。そんな私が唯一分かることと言えば、――いつもはそれを一杯しか頼まない、ということぐらいだろうか。
「珍しいですね、二杯なんて」
「お前も飲むんだよ」
「は、私?」
いつもは頼もうとしても絶対に阻止するくせに、どういう風の吹き回しなのか。あと、今までの苦労は何だったのか。過去にあった攻防戦の数々は、思い出すだけで泣けてくる。まあ、結果的に分かる日がようやく来てくれたのだから、あまり恨むこともないけれど。いいや、おごらせることでチャラにしてやろうっと。
そんな企てをしているうちに店主は、それが注がれたグラスをふたつ、持ってきた。今日のは、同じ形をした、あざやかな青と黄色のグラスだった。カウンターの端に双子のように寄り添って置かれていたので、場所的に近かった黄色を選ぼうと手に取ると、「待て」と先輩からの制止が来た。
「何です?」
「お前は、青だ」
やけに真面目に言葉を発すると、黄色のグラスをさっと奪う。そして、青のグラスをやや乱暴に押し付けてきた。
「何か意味でもあるんですか?」
尋ねてみると、あっさり「ねえよ」と答えられた。
「ないけど、染められたのは俺だからな」
ますます訳がわからない。首をかしげてみせる。しぶしぶ、といった様子で、先輩は解説めいたことをしてくれた。
「緑になるには、黄色に青を数滴さしこむだけでいい」
「……それが、何ですか」
「それで、緑色だ」
「はい、緑色ですね」
「だから、青と黄色。お前が青」
ますます分からない。先輩は、たまにそうなのだ。抽象的なことを詩的に美しく語りかけてくることがある。そのタイミングもまちまちで、私が察せることは、限りなく少ない。
まるで絵のようだ、と私は思った。彼の抽象画。どちらかというと写実的に描く私には、理解できないことが多い。けれど、彼の描く抽象画は、色づかいが綺麗なのだ。それに込められた細かい意味はわからなくても、美しいことは、わかる。――そして、気づいたときにはもう、惹かれている。
「まあいいよ、今は」
「もー、だから何だっていうんですか。私は、はっきり言ってくれないと、分からないんです」
「だから、まだ、いいんだよ。そのままでいろ、お前は」
さ、呑んで帰るぞ。無理やり押し切られることになったのは少し不満だけれど、今日はこのグラスに免じて許してやろう。
私はそれを景気よく、ぐいっと傾けた。美しい先輩のことを、理解できるようになる日を夢見て。後には、独特の甘くほろ苦い残り香だけが私を包んでいた。




