2 元軍人(?)の厨房でオークカツ
料理長に教えてもらうまでは虫が危険なことなどちっとも知らなかったリーリエだが、彼女がこの世界の常識に疎いのには事情がある。
リーリエが五歳の時に母が儚くなり、その翌月に伯爵家にやってきた義母と義妹によって、彼女は離れに追いやられてしまった。実父は空気である。
侍女などを付けられなかったリーリエには、ろくに会話する相手もいなかったのだ。
やがて八歳になり全国民が受けるスキル鑑定の儀式で前代未聞のスキル無しであることが判明すると、リーリエは住処を離れから使用人棟の一室に移され、下働きをさせられるようになった。
屋敷を取り仕切る義母の怒りを買いたくない他の使用人達からは遠巻きにされ、屋敷の外に出ることも禁じられていたので外の世界を知る機会にも恵まれず。
教育も受けていないから本も読めないリーリエは、この異世界について無知な少女に育ってしまったわけである。
リーリエが普通の少女であったなら毎日泣き暮らしていたかもしれないが、幸いなことに彼女には二十歳の成人女性だった前世の記憶があり、おまけに趣味は家事全般だった。
食事が抜かれたり暴力を振るわれたりはしなかったこともあり、貴族令嬢として生活するよりもメイドとして働くほうが自分には合っているかもしれないと感じていた彼女は、異世界でのドアマット生活をそこそこ楽しんでいたのだ。
そんなリーリエの生活は、つい二週間ほど前から、良い方に激変した。
料理長をはじめとする厨房のメンバーが総入れ替えになったのと同時に彼女の仕事場は厨房専属となり、家事の中でもダントツに好きだった料理に長い時間携われるようになったのだ。
たまに今日のように義妹からお茶会の給仕等を命じられることもあるが、屋敷の雑務全般をたらい回しにされていた頃に比べれば、今の生活は遥かに充実しているのだった。
「おかえりなさい、お二人とも」
厨房に戻ると、男女それぞれ二人ずつの厨房のスタッフが、リーリエ達を温かく迎え入れてくれた。
彼らはこれまでの使用人達と違い、皆リーリエに好意的だ。物を知らない彼女に呆れるどころか、親切に色々なことを教えてくれた。
この世界で魔法を使えるのは魔法のスキルを持つ者だけであることも、リーリエは彼らに教わって初めて知ったのだ。
ファンタジーな世界なのに誰もが魔法を使えるわけではないと知った時は、少しがっかりしてしまったのだけれども。
「今日は良いオーク肉が入荷したんです。今夜はメニューに難癖つけてきやがる当主夫妻が各々の愛人のとこに行って不在なんで、リーリエお嬢様がお好きなメニューを、気兼ねなく決めてください」
「まあ、本当?……うーん。悩ましいわね」
オークという魔獣の肉は、豚肉の上位互換とも呼べる美味しい肉だ。それは料理長から教えてもらった知識である。
「角煮も捨てがたいけれど……今日はオーク肉でカツをたくさん揚げましょうか。残ったものを、明日のまかないでカツとじにするのはどうかしら?」
「おっ、そいつはいいですね。そんじゃ、今日はオーク肉を揚げて揚げて揚げまくりましょう!」
「私はキャベツの千切りを量産するわ。揚げのほうは皆にお願いするわね」
「「「「了解!」」」」
リーリエのキャベツの千切りは、速度も精度も厨房一だ。ふわっふわの細切りにする凄技は、前世で働いていた小料理屋の大将仕込みである。
『俺のことは大将と呼べ!』と店主に言われ、前世のリーリエは彼を大将と呼んでいた。
前世でも家庭環境に恵まれなかったリーリエは、大将から料理のいろはを教わったのだ。
彼は七十過ぎの小柄な男性だったが、その辺の若者よりもよほど矍鑠としており、前世のリーリエを本当の孫のように可愛がってくれた。
だから大将が腰をやってお店を畳んだ時はとても寂しかった。別れ際に『達者で暮らせよ!』と声を掛けられた記憶を思い出すと、今でも涙がこぼれてしまう。
「ちょっ……リーリエお嬢様、泣いてらっしゃるんですか!? 包丁で指をやっちまいましたか!?」
「うぅ⋯⋯これは違うの⋯⋯キャベツが目に沁みて……」
まさか前世を思い出して泣いてしまったなどとは言えず、苦しい言い訳が飛び出してしまう。
「きっと疲れが溜まっちまったんでしょう。千切りは俺が代わりますんで、お嬢様は休んでいてください。最近じゃお嬢様に教わったおかげで、俺の千切りの腕もメキメキ上達しましたからね」
厨房の皆からあれよあれよと椅子に座らされ、肩と膝にショールをかけられ、手に蜂蜜入りの紅茶のカップを持たされたリーリエ。
転生してからこんなふうに気遣われるのは、たぶん実母が存命だった幼い頃以来だ。
精神は成人済みなので、嬉しいやら照れ臭いやらで胸の中が忙しい。
厨房の五人の大人達が巨大なオーク肉を手際よく調理する様子を眺めていると、先ほど料理長が言ったように、ここへ来た時よりも全員の調理の腕が格段に上がっているのをリーリエは実感する。
何せつい二週間前は料理長を含む彼ら全員が、包丁を持つ手も覚束ない有様だったのだ。
初めて揚げ物をした時などは油の鍋から火柱が上がり、それに驚いた水魔法のスキル持ちが鍋に《水球》を放ったために水蒸気爆発が起きたのを、障壁魔法のスキル持ちが防御して事なきを得た。
料理をしている時はあれほど辿々しい手つきなのに有事に見事な連携を発揮した彼らは、全員が制服を着ていてもわかるほど鍛えられた身体をしている。
怪我で働けなくなった軍人を、父が安い給金で一括雇用したのではないかとリーリエは思っている。『俺ぁ野営料理の経験しかねえからなあ』と、料理長がボヤいているのを聞いたことがあるし。
父と義母が料理に難癖をつけてきたのは、料理長のワイルドな野営料理を朝昼晩と提供していたからだろう。
リーリエが前世の記憶を頼りに貴族が好みそうなメニューを提案するようになって、最近ようやくクレームが減ってきたところだ。
「ああ、美味しかったわ」
屋敷の者達への食事の提供を終えた後、厨房のメンバーで食べた揚げたてのオークカツは大変美味しかった。
翌日のまかないのカツとじを楽しみにしていたリーリエだったが、残念なことにカツとじを食べる機会は訪れなかった。
これまで屋敷の外に出ることを禁じられていた彼女は、王宮で開かれる舞踏会への出席を命じられてしまったのだ。




