1 前世で知ってるアゲハ蝶と違う
リーリエは金髪に水色の瞳の愛らしい少女だ。
パルファム伯爵家の嫡子として生まれ、今年で十三歳となった彼女は、今は訳あって伯爵家のタウンハウスで使用人として働いている。
彼女には母親が違う同い年の妹がいる。義妹のキャンディスは勝ち気な性格の赤毛の美少女で、今日は中庭のガゼボで、年上のボーイフレンドと恒例のお茶会をするという。
その給仕を命じられたリーリエが、紅茶と茶菓子を乗せたワゴンを中庭へと運んでいくと、ガゼボ周辺が大騒ぎになっていた。
「イヤー!! 蝶が、蝶が私の頭にっ!! 騎士達は何をしてるの、さっさと退治しなさいよ!!」
半狂乱で逃げ惑っているキャンディス。彼女の頭上を飛び回っているのは、一頭のアゲハ蝶だ。
剣を構えた騎士達が誰一人積極的に斬りかかろうとしないのは、蝶がとんでもなくデカいせいだろうか。
義妹の頭上を舞うアゲハ蝶は、バスケットボールよりちょっと大きいくらいのサイズに見える。
リーリエには、日本という国で二十歳そこそこまで生活していた前世の記憶がある。前世で見たアゲハ蝶は、あんな大きさではなかった気がする。
(この世界の虫って、みんなあんなふうに大きいのかしらね? 何年か前に屋敷の裏庭で見かけたバッタも、二十センチは優に超えていたし)
リーリエがこの世界でお目にかかった虫は、今のところアゲハ蝶とバッタの二種類だけだ。ここは虫が少ない世界なのだろうか。
(前世で害虫と呼ばれていた類の虫も一切見かけないのは幸いだけれど)
あの虫やあの虫が、この世界の蝶やバッタのようなサイズだったら泣いてしまう。
「キャー!! 誰かぁっ、早く助けてよ!!」
キャンディスの悲鳴で我に返ると、バサァッ! バサァッ! と羽音を立てて飛び回っていたアゲハ蝶が、今にも彼女の頭に着地しそうになっている。
三人もいる伯爵家の騎士達は申し訳程度に剣を振り回してはいるが、彼らからは本気で蝶をどうにかしようという気概が感じられない。
義妹のボーイフレンドであるどこかの侯爵家の三男も、自分だけちゃっかり遠くの方に逃げおおせている。
(もう、仕方がないわね)
性格にやや難のある義妹だが、彼女はまだ十三歳の少女なのだ。
さすがに可哀想になったリーリエが、騎士の代わりに蝶を追い払うために駆け出そうとした時だった。
「リーリエお嬢様。速やかに屋敷の中にお戻りください。ここは大変危険です」
「あら、料理長」
いつの間に背後にいたのだろう。声を掛けられ振り返ると、見上げるほどの逞しい体躯に真っ白な厨房の制服を着た、料理長がそこにいた。
彼はこのパルファン伯爵家においてリーリエを「お嬢様」と呼ぶ、数少ない使用人のうちの一人である。
アラフォーの彼には十三歳のリーリエと同い年の娘さんがいるそうで、伯爵家の嫡子に生まれながら使用人として扱われているリーリエを不憫に思ってか、何かと気にかけてくれているのだ。
「危険って……あのアゲハ蝶が? 確かに大きくてちょっと気持ち悪いけど、あれくらい平気よ。箒で追い払えるわ」
「気持ち悪いだけで済みゃいいんですがね。あのサイズの蝶は、人や動物の体液を吸うんですよ。花の蜜なんかチマチマ吸ったところで、あの巨体は維持できませんからね」
「ええっ、そうなの!?」
「はい。中庭にいる連中の中でキャンディスお嬢様が一番若くて美味そうだから、獲物としてロックオンされているんでしょう」
アゲハ蝶が、そんな危険な生物だったなんて。
リーリエが知っている前世のそれとはあまりにも違いすぎる。騎士達も及び腰になるわけだ。
「だったら尚更キャンディスを助けないと!」
「なりません、お嬢様」
リーリエが駆け出そうとするのを、再び料理長が止めた。
「蝶は自分がちゃっちゃと片付けますんで、リーリエお嬢様はどうか俺の後ろに下がっていてください。まったく、この屋敷の騎士共は、雁首揃えて何をしてやがるんだか」
料理長が《火炎弾》と唱えると、彼が正面に突き出した手のひらからゴォッと火の玉が飛び出し、巨大なアゲハ蝶に命中して瞬く間に焼き尽くした。
小さな火の粉と燃えカスが、キャンディスの頭に降り注ぐ。
「あ゛っづっ! もう、なんなのよ!」
キャンディスが怒り狂いながら自らの頭をはたく。髪が燃えたりしたわけではなさそうなので、とりあえず安心だ。
「リーリエお嬢様。あとは騎士達に任せて、俺達は退散しましょう」
「でも、お茶のセットが」
「あの調子じゃ、茶をしばくどころじゃないでしょう」
「それもそうかもしれないわね」
キャンディスのことは騎士達に任せて、リーリエは本来の持ち場である厨房に戻ることにした。
義妹は治癒(微)というスキルを持っていることを自慢にしていたから、小さな火傷を負っていたとしても自力で治せるだろう。
「本当にすごかったわ、料理長。あんな大きな蝶を一瞬で仕留めてしまうだなんて」
料理長と連れ立って廊下を歩く間、リーリエは興奮しきりであった。
料理長は火魔法のスキル持ちだ。
彼が魔法で小さな火種を出す様子は厨房で何度か見たが、あのように派手な攻撃魔法を使う姿を見たのは初めてだった。
「伯爵家の騎士達よりも、よっぽど戦い慣れた人みたいだったわ!」
「な、何をおっしゃいますやら。自分はしがない料理人です。ここの騎士達が腑抜けなだけですよ」
何故かしどろもどろになる料理長。褒められて照れ臭いのだろうか。
「ねえ、料理長。私は蝶とバッタしか見たことがないのだけど……自然の多い場所には、他の虫もいたりするのかしら? 全部があんなに大きくて危険なの?」
「そうですね。蝶なら他にも何種類かいますし、山や森ん中には、カブトやクワガタやトンボなんかもいますよ。どいつも全部デカくて捕食対象は人や動物なんで、くれぐれも護衛無しで町中から出ないでください。特に王都から離れるほど虫はデカくて凶暴になりますから、国境付近の山林にいる虫共は、王宮騎士団や冒険者ギルドで定期的に間引いてるほどです」
「そ、そうなの……肝に銘じておくわね」
リーリエは前世であまり小説や漫画を読むタイプではなかったが、異世界もののジャンルがあることは何となく知っており、自分はそんな感じの世界に転生したのだと思っていた。
しかしここへきてB級スプラッタホラーの可能性が浮上し、恐怖に震えるリーリエなのであった。




