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05 I ロードナイト


 昼休みに図書棟で文庫を開いた直後、イリアは学内アナウンスで呼び出された。

 教諭が、相談室に来いと言っている。容赦なく注がれる他生徒からの視線には気づかないふりをした。居心地の悪い箱庭だ。

 景(けい)とは今朝、『platte(プラッテ)!』の最寄り駅で別れた。一度帰宅し、シャワーを浴びてから普段と同じく通学したが、幸先がよくない。

 命令に従って説教ルームを訪ねると、険しい面持ちの女性担任が着席していた。

「お待たせして申し訳ございません。何かご用でしょうか」

「座りなさい」と担任。「あなたの異性交遊の件です」

 扉から近い席に着いた。景と一緒にいるところを見られていたのだろう。

「倫理に戻(もと)ることをした覚えはありません。詳しくお願いします」

 担任の女が印刷されたコピー用紙を掲げる。本文は4行程度で短い。

「これが学院のポストに。イリアさんが、見慣れない学生服の男性と歩いているのを目撃した、という内容です」

 首を傾げたくなる。「事実ですが、なぜ指導の対象になるのでしょうか……」

「不適切だからですよ。その方とは交際をしているの?」

「関係をお伝えすることはできませんので、ご想像にお任せします」

「あなたの将来のために」自分が生徒愛を持った上級教諭だと実感したいのだろう。

「わたしは『心から信頼できる人』と言ったとき、それが男性であっても、女性であっても素敵だと思います」


 相談室の遣り取りのせいか疲労感が辛い。授業欠席分を課題提出で代替する用紙に記入して青薔薇女学院を離れた。このシティに生息する敵は誘拐犯だけではない。誰かに酷く嫌われている。他者の感情は操作不可能なので、気に病んでも仕方がないけれど。

 朝早くに一度この家へ帰ってきた際、回収した色鉛筆と絵を保管するために再び封筒を覗き、そのとき初めて紙が2枚重なっていたことに気づいた。事故現場の絵を鏡に映したように反転させたものだが、コピーや加工ではなく手描きだ。

「片方は景くんに……?」そういう意図だとしても無駄なプレッシャーを与えたくないので、彼に渡すべきか迷い続けていた。

 ポストカード用のファイルを開いて日茉(ひま)の絵を観察する。彼女からの暗号は1枚めのみだった。

 6時の方角に、少しだけ色の欠けた部分がある。

 光を表す白い線は34本。

 これは『洋食店Dirty』という変なアニメに登場する野生のハムスター『カビ』が作中で瞬(まばた)きをする回数だ。全12話で、色の欠けが6時を指しているときは6話。

 日茉が攫われ、最初に届いた絵を穴があくほど見つめているうちに、彼女が『カビ』の物真似をしていた様子と、瞬きの回数を再現できると主張していたことを思い出した。

 射抜かれるように『洋食店Dirty』が脳裡を支配した瞬間の衝撃。すぐにレンタルショップへ行き、無関係な映画や、ジャンルの異なるアニメを織り交ぜながら円いあれを借りた。『雑食な客』の演技に自信はなかったが、店内外のカメラも含め、どこで監視されているかわからない以上、警戒の手札は常に持ち歩くべきだ。

 日茉の物真似は誘拐のだいぶ前に、ふたりきりの保健室で行われたので、絵の暗号に結びつけられる危険性はないと判断した。彼女も同じ考えだろう。

 部屋のTVで流し観(み)しているような素振りをしつつ、『カビ』の登場シーンを丁寧に視聴した。毛の色は不潔だが、身体に黴(かび)が生えているわけではない。

 実際のアニメ映像で数えた瞬きは、数学の参考書と化学のテキストにメモを取った。残念だが、理系の成績上位者だった日茉のように完璧な暗記をする能力がない。

 平穏に包まれた世界は、実体を持たない夢か幻だと思っている。

 現在も変わらず、家の周りに異常がないか、そして防犯装置が明滅していないかを確かめないと扉を開けられない。あの男は警備員だ。油断していたら自宅に侵入される。

 不測の事態が起きた場合に備え、瞬きのメモは自分にしか解読できない書き方をした。

 攫われた日茉を取り返すまで、生存確認の暗号を守らなければ。

 このことは景にも言わないと決めている。女子同士の友情の証(あかし)として。


 躊躇いながら、景のベルに具合を訊ねるメッセージを送ってみた。

 本人が拒否していたので受診を強く勧められなかったが、薬品による火傷は自然に治るのだろうか。ほんのりと血管の透けた薄い肌が地獄のような状態になっていた。事情は聞いていないけれど、過去に医療機関で酷い扱いをされたのかもしれない。

 誤った言葉ひとつで深手を負わせてしまいそうな危うさが怖くなる。群集に呑まれない存在感と、人目を惹く輝きはあるのに、生命力が桁違いに希薄だ。

 昨夜、自分は『platte!』のテーブルに伏せて長く眠ったが、景はずっと起きていたような気がした。親切な夢人(ゆめと)が早朝に戻ってきて、ベーコンサンドとクリームシチューを提供してくれたので一緒にいただいたけれど、彼がマドレーヌを夕食の代わりにしたと話していた悲しい余韻を忘れられない。

 課題が終わった頃、景から返信があった。

『大丈夫だよ。迷惑かけてごめんね。』と書かれている。文字だけなのに、愛されることを諦めているような声の影を生々しく想像できた。

 これまでの道のりで、『時間薬に委ねたら?』、『憂鬱に囚われずに前を向こう!』と投げ遣られた経験があったとしても、苦しみの在(あ)り処(か)を言葉にしてほしい。

 もっとやさしくなりたいのに、いつの間にか暗い果樹園に迷い込んでいた。助けを求めているのは自分の方かもしれない。

 少し先の未来できっと、分け合った蝋燭の灯りが親愛の橋架(きょうか)になる。

 景の痩せた身体を、『誇れるものは何もない』と言いたげな瞳を繋ぎ止めたい。

 余裕がないのに、労(いたずき)の重みで壊れかけた人を好きになってしまった。

 詩藻(しそう)を感じる清い指。

 最後の手紙を読み返しているような、切なく甘い横顔。



                                 05 Iria end.

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