04 K 夜会草
化学火傷の痛みが増している。景は、首に触れかけた手を危ういところで止めた。現在、ミニストア『四六時中』の店先でイリアを待っている。回収した封筒をすぐにでも確かめたいはずだが、彼女はそのような気配を一度も見せていない。
アミューズメントビルでの出来事は、加害活動をしている誰かが『サツジン未満』を募集し、自分の居場所を密告したとしか考えられなかった。
故郷の街を離れたのに、不運と謎を潜めた過去が追いかけてくる。何度『僕じゃない』と真実を口にしても桟橋には辿り着けず、潔白を証明できるデータは灰になって死んだ。
イリアが攻撃される前に遠ざかるべきだが、彼女と盟約を交わしたばかりなので、誘拐の件が解決するまではシティ・ノヴァが新たな檻になる。
「景くん、お待たせしました!」
イリアが紙袋を抱えて戻ってきた。助ける価値のない自分のために、応急処置のアイテムを調達してくれたらしい。焦げ茶色のセーラー服が夜の闇と同化しそうだ。
「いろいろごめんね。帰りの時間、大丈夫? こんな身体だけど送るよ」
「わたしは平気です。よければふたりで『platte!』というカフェへ行きませんか? ここから近いので」
サブウェーの駅裏通りは童話の世界を思わせる美しさだ。導かれるまま歩を進めていくと、レトロな看板と店が見えてきた。灯りはあるがブラインドが下りている。
「いいのかな? もう閉店してるみたいだけど……」
イリアは明るく答えた。「心配しないでください。偽りの弟がいるはずです」
彼女が扉を4回ノックすると、カフェカーテンに覆われた硝子ドアが開いた。
顔を覗かせた男の子の反応から、イリアと親しいことが察せられる。店の手伝いをしていたのだろうか。初等部5年生くらいで、几帳面な印象のある可愛らしい佇まいだ。
「夢人くん。突然ごめんなさい。こちらは景くん。変な男に農薬を浴びせられて……。ここで手当てさせて貰っても構わないかしら」
「もちろんです」彼はドアを大きく引いた。「どうぞ」
「夜分にすみません。お邪魔します」
『platte!』は外観の期待に違わず、やわらかい色合いの素敵な店だ。珈琲の苦味を秘めた甘い香りが漂っている。公園でイリアがくれたマドレーヌは名菓だった。
少年のエプロンのあれには『夢人(Yumeto)』と書かれている。保護者や責任者は見当たらないが、彼に広いソファ席を勧められたので礼を言って座った。
イリアが『四六時中』の紙袋をテーブルに置く。新品のエタノールで手指の消毒を行ってから、ガーゼとテープを駆使して首の爛れを覆い始めた。「きっと治ります。保健の授業で簡単な処置を習ったので任せてください。評価はBでした」
夢人が麦茶と膝掛けをこちらに渡しながら微笑んだ。
「この店、明日はお休みですから遠慮なく泊まってください。……イリアさんも、もう遅いので外を歩かない方がいいと思います。休憩室の長椅子をベッドに……。壁際の棚に備品の毛布があります」
帰宅する夢人を見送った後、力尽きてテーブルに伏せた。暖色の灯りがセンチメンタルで悲しくなる。
正常を保ちたいのに、悪天候の薬が恥ずかしくて内服を躊躇ってしまった。飲んだという暗示をかけて耐えるしかない。
22:00ちょうどに主照明が消え、控えめなダウンライトだけが残された。
どうせ疑われる毎日だ。群集に瑕疵を見抜かれれば、心など、感情などないみたいに扱われて、鬱憤を晴らすための道具にされる。好まれるのは意味不明な自信に満ち溢れ、表情と笑い声がうるさいほど大きく、仲間と繋がる能力が高い人間。
「景くん。少し様子が……。大丈夫ですか?」
「今死ぬ」防波堤が昏倒し、不適切な言動を抑えられない。「全部捨てたい……」
「それはだめです! 頑張らずに緩く生きてください!」
テーブルの上で泣いていた両手首を制服のスカーフで拘束された。でも外に飛び出し、『火事だーッ!』と叫んだりすることはできる。崩壊の種類は無限大だ。
イリアは気持ちを切り替えたのか、淑女然とした所作で隣に座り、こちらの腕時計をそっと傾けて、彼女のそれと見比べている。「わたしの世界、2秒遅れているようです。景くんのせいですよ」
絶対にからかわれているが、冷たく避けられなかったことを喜びたい。
「一緒に見てください」通学鞄を開き、イリアが黒い封筒を取り出した。内容物は葉書と同形の紙、そして色鉛筆の『むらさき』が1本。
覗き込んだ絵には、車道に倒れている女児と血溜まり、蹲る母親、口元は笑いながらも涙を湛える女性が描かれていた。デフォルメ調ではあるが、癖が強く、皮肉な様相だ。記憶の惨劇と一致していることに、ぞっとせずにはいられない。誘拐犯は現場で写真を撮り、監視下に置いているイリアの友人に見せたのだろうか。
「関わるのが辛かったら、容赦なくわたしを突き飛ばしてください」
彼女は落ち着いた声で乱暴な台詞を口にし、手錠代わりのスカーフを解いた。
「できないよ……。必要としてほしいな。いつも『いらない』って言われるから」
イリアが指先を握ってきたとき、包容的なメッセージを胸の奥で感じた。
「本当は景くんに力を貸して貰いたかったので嬉しいです」
猟奇的な異常者に身元を知られているのに、彼女は少しも怯えていなかった。
すぐにおかしくなる自分が嫌いだけれど、人への誹りに笑顔の絵文字を添えるような生き方はしないと信じられる。今はそれで充分だ。
「またイリアちゃんに叱られる気がするよ」
「楽しみにしていてください。心が動くように、たくさん遊びに行きましょう」
彼女はサメのゴーカートに触ってみたいらしい。
疑惑に汚れた身が、イリアのやさしさで延命されていることに感謝したい。
なのに自分は愛を畏れ、晴れ間の下午を詩に堕とそうとしている。
04 Kei end.




