03 I アパタイト
昨夜の別れ際、景とベルの電話番号を教え合い、メッセージの宛先も登録した。
イリアは、喫茶店『platte!』のテーブルで眺めていた淑女検定の教本を閉じる。窓の向こうに夕暮れの街が見えた。これから景とサブウェーの駅で待ち合わせ、腕の写真に同封されていた地図を参考に、攫われた日茉の私物を回収しなければならない。今まではひとりで任務を果たしていたが、彼が一緒に行くと申し出てくれたことを、有り難くも、心強くも感じている。
回収物の設置場所は、山奥や墓地ではなく、さほど遠くない動物園、街中の廃ホテル、家具店の倉庫裏などが多かった。日茉の色鉛筆が1本と、彼女の描いた独特な諷刺画が1枚、黒い封筒に入った状態で置かれている。
今回の舞台は、巨大なアミューズメントビルのゲームセンター。犯人が地図に添えたイラストと文に偽りがなければ、封筒はクレーンゲームの筐体の底だ。想定外の人間にあれを持ち去られたとしても、中身は色鉛筆と葉書サイズの絵だけなので、誘拐と関連づけられることはない。
駅構内に佇む景を見つけた。今日も、制服のシャツにグレーのニットを重ね、縦長のトートバッグを肩から提げている。彼は改札横の壁に凭れて、小さなノートに何かを書き留めていた。幻の草原に横たわっているような美しい表情だ。
ふたりでサブウェーに乗り、人が疎らな車両の端で、犯人からの地図を確認した。街のマップに、赤いペンで印がつけられている。黒1色の雑なイラストと、下の隙間を覗け、というメッセージ。『15列4番』は筐体の座標だろう。
目的の駅で下車し、シティ・ノヴァで一番大きなアミューズメントビルに到着した。
クレーンゲームたちの住まいは3階だ。意志の力で緊張の微音をはぐらかす。
「景くん。せっかく来たのでフォトシールを作りませんか?」
「いいよ」と彼は頷いた。「でも僕は写りたくないな……。イリアちゃんだけで」
「それでは意味がありません。景くんもお願いします」デートのような感触を求めていたのではなく、やがて離れていこうとするはずの、彼の写真がほしかった。
適当なマシンを選び、音声に従って撮影したシールは、恋人同士には見えない絶妙な距離感だが、笑顔の雰囲気は和やかであたたかい。
自然な運びで3階へ向かったところ、広々としたフロアに整列するクレーンゲームの群れに圧倒された。深く立ち入るのは初めてだ。『15列4番』は、『CRANE HOLIC』という店名が掲げられている地点から数えていけばいいのだろうか。
おおよその位置は把握できたが、まっすぐにそちらへ向かうのは躊躇われた。
「イリアちゃん。クマとか興味ない?」
空気を読んだ景が、透明な壁に囲われたベビーベアに近づいていく。
「かわいい! 出てきてくれたらベッドに飾りたいです!」つき合わせてしまっているので彼にコインを渡そうとしたが、頑なに押し戻されたのでミニウォレットを閉じた。
自信のない様子だったにも関わらず、景は熟練した操作で1匹の慎ましいベアを捕獲し、恥ずかしそうな笑みを浮かべてこちらに差し出してきた。
「ありがとうございます! ふんわりしていて癒されますね。今日から一緒に寝ます!」
大切にすれば、ぬいぐるみはいつまでも側にいてくれる。本当は少し変な個性を持ったクマだと思ったけれど、愛らしく感じたので、そっと通学鞄に仕舞った。
俄かに景が、何かを警戒するような面持ちで身を寄せ、深刻な声で言った。
「封筒は僕が取ってくる。危ないから、イリアちゃんは先に避難して」
不意に陽気な音楽が止み、緊迫した放送に切り替わった。このアミューズメントビルに、電子メールで農薬散布の犯行案内が届いたらしい。速やかに屋外へ移動するよう呼びかけられている。彼だけがこの出来事を予知した。なぜだろう。
奥へ走り出そうとした景が、突然現れた作業着姿の痩せた男に、ホース状のもので殴りつけられた。彼は衝撃でよろめき、最寄りの柱にぶつかる。周囲から悲鳴が上がった。
「やめてください! ……景くん! 大丈夫ですか!」
加害してきた男は、奇妙なマスクを着け、怪しいタンクを背負っている。農薬の散布に来たのだろう。犯罪の新しい流行になりつつある『サツジン未満』だ。殺しはしないが、加害は容赦ない。迷惑な罪人が中身を噴射する体勢に移った刹那、駆けつけた紺の制服が男を取り押さえた。勇ましい警備員は、あの誘拐犯ではなかった。
間もなくこのフロアは立入禁止になる。急がなければ。
僅かに噴霧された液が景の首にかかっているのを見てハンカチを譲る。受傷具合が心配だが、彼の言葉に倣い、ふたりで『15列4番』を目指した。
「君たち! レスQ隊員が来るまで動かないでください!」
回収物に辿り着く直前、スタッフに呼び止められた。見物の方々が集まっている。
酷く動揺した景の視線。目顔から指示を察せたので、落としたイヤホンを探すふりをしながら、筐体の底に貼りつけられている封筒を剥がし、袖口に隠した。
「軽傷です。自分で治せます」景は丁寧に他者の関与を拒否している。毒を浴びた首が火傷のように赤く爛れていた。惨い痛みを想像して切なくなる。
「わたしも医療センターにつき添います。置き去りにしたりしません。だから……」
控えめに嫌がり、景が呟いた。「ここから離れたい」
誰にでも、衆目と戦いきれないときがあって当然だ。胸底の壁が崩れればすぐに、体内を循る涙が血と混ざり、死んだ入り日と同じ色になる。
「人のいないところへ……。わたしたちは見世物ではありません。帰りましょう!」
スタッフの制止を振り切り、サブウェーの駅に進路を定めた。乗車の前に、ミニストア『四六時中』に寄って、患部を保護するガーゼを購入しなければ。不完全な手当てでも、心が伝わればいい。『なぜ犯人は、景くんだけを狙ったのですか?』と訊ねる声は呑み込んだ。
予知と予見は、生まれてはいけなかった者への、哀れな贈りものだと噂されている。
打ち明けてくれるかもしれない景の事情を、すべて抱擁できるかはわからない。自分は余りあるやさしさを与えられてこなかったのに、人を救おうとするから苦しくなる。
花風に散る泉だ。
譏刺の歩道で立ち止まっても、夜は静かに流れていく。
03 Iria end.




