第35話:病院の喫茶室 <翔サイド>
再度、見直しました。
看護師の堀田詩織が病室に来てくれたことで、藤田翔とその同級生達は、大ケガを負った服部圭介とも和やかな会話を交わすことができた。
そして彼らは今、再び一階のロビーに戻って来ていた。
「なあ、沙希。さっき堀田さんと何、話してたんだ?」
翔が山口沙希に問い掛けたのは、さっき松永陽輝が言っていた彼の推測が当たっているかどうかを確認する為だったのだが、沙希はあっさり答えを出してしまった。
「うん、今度、いつ飲みに行こうか聞いてたんだよ。彼女、お酒好きだし、それに結構、強いんだよ」
「えっ、そうなのかよ。だったら、今日……」
その答えに喰い付いたのは、もちろん松永だった。ところが、そんな松永の頭を沙希はパーンと叩いた。
「痛ってえ」
「そんなもん、駄目に決まってるでしょう」
「何でだよ」
「あんた、彼女達の話、聞いて無かったの? 今日の夜は人が少なくて、忙しくなりそうって言ってたじゃ無いの」
「そうだってか?」
「もう。あんたって、自分の都合のいい話しか聞いてないんじゃないの?」
松永は沙希の言葉には反論しようとせず、別の切り口で話を続けようとする。
「まあ、今日が駄目だったら、別の日でもオレはウエルカムだけどな」
松永の言葉に、沙希の目が再び彼を睨み付けた。眼鏡越しだと、いつもの五割増しくらいに目付きが怖い。
「あのね、私は詩織と二人で飲みに行く話をしたんであって、陽輝のことは何も言ってないんだけど」
「そんなもん、別にオレも行くって言やいいじゃねーかよ……痛っ」
「そんなの駄目に決まってるでしょうが。あのね、詩織と私は、お互いの仕事の悩みをいろいろと話したいわけ。そんなのにあんたがいたら、すぐに余計な口出して来て、まともに話ができなくなっちゃうじゃないの……」
要するに、沙希が言いたいのは、看護師と教師では、どちらも人相手の仕事で且つ責任が重いといった共通点があって、それをネタに酒を飲んでお互い愚痴を言い合いたいということのようだ。
「……だいたいさあ、陽輝って、お酒、飲めないでしょうが。それなのに、うちらの飲み会に加わりたいなんて、百年早いっちゅーの」
そんな風に、松永と沙希の言い合いが過熱しつつあった時だった。それまで沙希の隣で黙って二人のやりとりを聞いていた水草薫が、沙希の肩をポンポンと軽く叩いて、「こんなとこで、喋ってるんだったら、あっちの喫茶室でやったら?」と言ったのだ。
翔もそれが良いと思ったので、全員で喫茶室に移動することを提案してみた。
もちろん、翔としては松永と沙希が話しをしている間、こないだケンカ別れした薫との関係を修復したいといった下心があったのだが……。
「翔くん、ごめん。私、これからバイトだから、先に帰るね」
思ってもみなかった薫の言葉を聞いて、翔はしばらく立ち竦んでしまっていた。
ちゃんとした頭で考えれば、それが普通のありふれた返事だと気付く所なのだが、動揺した状態の翔では、そこまで思い至らない。
「あれ、今日って午前中も働いてたんじゃなかった?」
「うん。今日は一日中バイトだったんだけど、途中で無理言って抜けてきたんだ。だから、早めに戻んなきゃ」
「そっか。昨日も遅かったのに、大変だね。で、何時までなの?」
「うん。店長にね、八時までは居て欲しいって」
「八時ね。分かった。バイト、頑張ってね」
「うん。沙希も、逢えて嬉しかった。翔くんも松永くんも、またね。私、ちょっと急ぐから、今日はこれで……」
薫が沙希と話していたことは、翔にはほとんど聞こえていなかった。そして、彼が気が付いた時には、薫はもう、そこにはいなくなっていたのだった。
★★★
薫の断りの言葉で頭が真っ白になっていた翔だったが、いきなり脇腹を抓られて「うわっ」と飛び上がってしまった。
「おっ、思った以上の反応だねえ」
犯人は沙希だった。
「何すんだよ」
「だってさあ、翔ったら、この世の終わりみたいな顔してるから、ついからかってやりたくなったんだよ」
沙希の言葉に翔が「何だ、それ」と返すと、沙希は更に悪戯っぽい笑顔になった。
「ふふっ、翔、今度も薫に振られちゃったね」
沙希の言葉に、翔は「ちぇっ」と舌打ちした。腹立たしいが、返す言葉が思い付かない。
「まあ、いいんじゃない。私が翔と陽輝の相手してやるからさ」
「何だよ、オレもセットかよ」
「こら、陽輝、あんた、私と話すのが嫌なわけ?」
「い、いや、全然嫌じゃありませんです」
ついさっきは二人の喧嘩を心配した翔だったが、松永は相変わらず沙希に逆らえないようだ。この二人の関係が高校の頃と全然変わってないのには、かなり笑える。
それでようやく気を取り直した翔だったが、松永からは少々不興を買ってしまったようだ。
「こら、翔、お前、オレのこと笑っただろ」
「いやいや、そんなことよりさ、沙希があっちで待ってるから、早く行くぞ」
沙希はさっさと喫茶室に入って行って、こっちに手を振っている。それを見た松永は「やっべえ」と呟いて、早足で沙希の下へと向かう。翔も苦笑しながらその後に続いた。
★★★
病院の喫茶室は、ほとんどの席が埋まっていた。土曜のこの時間は、きっと見舞客のピークなんだろう。
ここにいる客の大半が、高齢の入院患者達と中年の見舞客で占められている。翔と同年代の若者など、皆無だ。
それでも、そこは意外と落ち着ける空間に感じられた。室内は明るく清潔で、病院特有の変な臭いが全くしない。什器や備品には高級感こそ無いものの、木の暖かい温もりが感じられる。それらは、高原にあるペンションのラウンジを思わせる雰囲気を醸し出していた。
そんな居心地の良さの中、三人の間には、まったり感が漂っていた。圭介の病室では、緊張感に晒されていたことの反動なのだろう。
翔の隣で松永が、だらしなく足を前に投げ出してボーっとしている。その松永が、ふと思い出したように口を開いた。
「この喫茶室に来るのも久しぶりだな」
「そうね。でも、前に来た時は、翔はいなかったんだよね」
「あ、そっか。ニューヨークだもんな」
翔からすると意味不明なことを松永と沙希が話していたが、その内容を聞き出すことすら億劫だった翔は、そのままスルーしてしまった。松永の顔からは、あまり聞いて欲しくない表情が読み取れたからだ。
正面に目をやると、長い足を組んで頬杖を付いだ沙希が何やら物思いに耽っている。その沙希が、まるで老人が昔話をするかのように、ぽつりぽつりと語り出した。
「さっきも詩織が言ってたけどさ、私が最初に圭介のお見舞いに来たのって、先週の土曜なのね。うちの児童の父兄から聞いて、半信半疑で来てみたんだけど、本当に圭介が入院してるじゃない。そん時は入院してまだ三日目とかでさ、今日よりもっと酷い状態で、もう、どうしようもなくて立ち竦んでたら、詩織が声を掛けてくれたんだ。本当にあん時は助かっちゃった。で、その後、彼女の仕事が終わってから飲みに行ったんだけど、お互いの仕事の愚痴とか言い合ってるうちに意気投合しちゃってさ、月曜の海の日にも来て、今度は彼女の部屋で飲んだってわけ。で、今日もって思ったんだけど、彼女、仕事が忙しくて駄目なんだよねえ」
そこまで話した沙希が、ちらっと松永の方に目をやる。
「何、その残念そうな顔」
「し、してねえよ」
「ふーん。あんた、ナース好きだもんね」
「いや、松永は制服の女子全般が好きだろ。ナース、スッチー、女子高生……、あ、眼鏡掛けた女性教師ってのもあったっけか」
「ね、ねえよ。だうたい、それって制服じゃねーし」
松永が自分の動揺を隠すかのように、沙希の方をチラ見する。翔は少し言い過ぎたかと思い、話題を変えることにした。
「でも、堀田さん、良い子みたいだな」
「そうだよ。それに詩織って相当、苦労してるみたい。飲みに行った時に聞いたんだけど、彼女って母子家庭でね。お母さんも看護師だったんだけど、四年前に亡くなって、今は天涯孤独の状態なんだってさ」
「うわ、母子家庭で、その母親が死んじゃったら、そりゃ辛いわなあ」
「それにしては、彼女、明るいよな」
「うん。翔の言うとおりなんだ。たぶんだけど、だいぶ無理してるとこ、あるんじゃないかな。……まあ、この話は止めよっか。人の噂話は良くないし」
「ふーん。白衣の天使にも悩みがあるってか」
「お前、まだそこに話を持ってくつもりかよ」
「だってよー、高校の時に唾つけときゃ、今頃は看護師の彼氏だったわけじゃん」
「アホか、お前は。あの頃のお前には、他に好きな子がいただろうが」
「えーと、誰だっけかしら、それ」
「沙希も本人の前で、とぼけるなよ」
「まあ、あれでしょう。若気の至りって奴」
翔の非難の言葉に、沙希がとぼけた調子で口を挟んだ。
「沙希もケンカ売るなって……ていうか、それよりも圭介のこと、話そうぜ。せっかく見舞いに来たんだしさ」
またまた険悪になり掛けた二人を抑える為、翔は再び話題を変えようとしたのだが、それに思いの外、沙希が喰い付いてきた。
「そうだよね。それで、その圭介なんだけど、私、あんたらよりも一時間くらい前から、あそこに居たじゃない。そん時は圭介も起きててね、まあ、三度目のお見舞いで私には慣れてたってのもあると思うんだけど、割と明るく振る舞ってくれてたわけ。昔とおんなじあの調子でさ。今日は、あのフロアの看護師、詩織を入れて三人いるんだけど、その三人とも結構、若い子じゃない。で、『一番若い看護師は普段純情そうだけど、疲れた時の表情がエロい』だとか、『もう一人の看護師は巨乳でGカップはありそうだ』とか、あと、詩織も胸はある方なんだけど、あの子、無防備だからさ、『シーツ替える時にブラが見えてて、色がピンクだった』とか、ほんと、くっだらないことばっか……」
「ふーん。圭介も沙希の前では強がってみせたかったのかな」
「うーん、それはどうかな。だって、『この病院って古いから、夜になるとすっごく怖くて、マジ幽霊が出そう』とか言ってたもの。『夜中にトイレに行きたくなってナースコール押したら、さっきの巨乳の看護師が音も無くやって来て、ちびりそうだった』とかも言ってたし。あんたら、その子のことは胸しか見てなかったと思うけど、確かに、きつい感じの顔してたんだよね。目付きが悪くてさ……」
「あっ、オレも見た見た。確かにあれはホルスタイン並みの巨乳だったよな」
「……」
翔は松永に『お前そっちかよ』とツッコミを入れたくなったが、沙希の表情を見て止めにした。
「でかいと言えば、堀田さんの方も相当なもんだぞ。オレはむしろ、あのくらいの方が良いな。なっ、翔……」
松永は、未だに沙希の表情に気付かない。巻き添えを喰らいたくない翔は、敢えて無視することにした。
「しっかし、あの堀田さんの胸は想定外だったな。やっぱ、高校の時に……っ」
ようやく沙希の表情に気付いた松永が額に脂汗をにじませ、翔に助けを求めてくる。そんな松永と目を合わせないようにして、翔はサッと立ち上がった。
「ど、どこ行くんだよ」
「ちょっとトイレ」
自業自得の松永を見捨てた翔は、早足で喫茶室を出て行ってしまった。
★★★
トイレを出てからも遠回りして喫茶室に戻った翔だったが、沙希の機嫌はまだ直っていないようだった。
そんな沙希を少し離れた所から見た時、翔の頭に浮かんだのは、高校一年の頃の彼女のことだ。
当時の沙希の印象は、猛獣のように乱暴な女というものだった。女子に対してはそれなりに優しく接していたようだが、男子に対しては厳しく、下手に近寄ろうものなら、しっしと追い払われてしまう。そんな彼女には二年女子の池田綾香先輩も手こずっていたようで、時々道場の隅で諭している姿を何度も見掛けたものだ。
そんな沙希が翔に話し掛けてきたのは、夏の強化合宿で翔が薫を保健室に連れて行った後のことだった。
「藤田、お前、薫を介抱してくれたんだってな。ありがとう」
最初はビクッとして身体を強張らせていた翔だったが、意外にも素直に謝られてしまい、鳩が豆鉄砲を食らったようにきょとんとしてしまった。
でも沙希は、そんな翔にはお構いなしに話を続けた。
「お前って、薫と同じクラスなんだってな。だったら、あいつとこれからも仲良くしてやってくれると、私も嬉しいかな。薫って良い子なんだけど、クラスの連中にいろいろ誤解されてるみたいなんだ」
翔が薫を保健室に送って行った時、沙希は道場の裏で黙々と竹刀を振っていたらしい。その話を聞いて、翔は実に沙希らしいと思った。
翔は沙希と同じ中学出身なのだが、中学の時は同じ剣道部でも男女別々に活動していたし、同じクラスになったことも無かったので、全くと言って良い程に交流が無かった。それに、当時は翔が一方的に彼女を怖がっていて、敢えて接触を避けていたこともあった。
そんな沙希が、その後、ちょくちょく翔に話し掛けてくるようになった。彼女の隣には、だいたい薫がいたから、翔は沙希を間に介して薫とも言葉を交わすようになって行く。そうして夏休みが終わって秋になった頃には、二人だけでも何とか話せるようになって行ったのである。
だから翔にとっての沙希は、池田綾香先輩と同様に、薫との仲を取り持ってくれた恩人でもあったわけだ。
そんな過去の恩人でもある沙希と目が合ってしまった翔は、仕方なく彼女がいる席へと近付いて行く。
「もう、翔、遅い」
「遅いったって、10分も経ってないんじゃ……」
「12分経ってるけど」
「お前、計ってたんかよ」
「たまたまね」
そんなやりとりを交わしながら席に座ると、案の定、睨み付けてきた。隣の松永に目をやると、暗い顔のまま肩を竦めて見せる。
「翔、あんた、私の顔見て、さっきなんか考えてたでしょう」
「べ、別に」
「ふーん。まあ、いいわ。それよりも薫のことよ」
「ああ、あれな。あそこで『死んじゃえば』は無いわな」
まだ懲りないのか、松永が口を挟む。沙希は「そのことじゃないんだけど」と言いながら、もう諦めた様子だった。それで翔は、その流れに乗っ掛かることにした。
「確かに薫は、空気を読まない所、あるからな」
「そうだな。まあ、薫らしいっちゃ、薫らしいんだけどよ」
「薫の場合、本気でそう思ってるからタチが悪いんだよ」
「ああ、翔が言うの、よく分かるわ。薫の奴、来世とか信じてるからだろ」
「そうなんだよ。『人は死んだら生まれ変わる』って信じて疑わないもんな。俺、大学一年の時、あいつと映画館に行ったら、たまたま病弱な女の子が死んじゃうのがやっててさ」
「うわあ、それって最悪の選択じゃね。それ、もう結果がだいたい想像つくわ」
「そのとおりなんだよ。映画が終わって、あちこちで女性が泣いてるってのに、薫だけケロッとしててさ、良く響く声で、『あの娘、良かったね、死んじゃって』とか言いやがんの。しかも、俺が冷や汗かきながら、周りの冷たい視線に耐えてるってのに、本人は全く気付かないんだもんな」
「まあ、薫だもんな」
「だろ。で、それから薫とは絶対に映画館に行かないことにしたんだ」
「そっか。それが正解かもな」
男二人で深々と溜め息を吐いた。
「でもさ、今の圭介だったら本当に死んじゃいそうじゃないか。本人も死にたがってたし……」
「いや、それはねーんじゃねえか。あいつって臆病だし、自分じゃ死ねない気がするわ」
翔と松永の会話に、沙希がちょっと微妙な表情をしていた。
「それはそうだろうけど、もし誰かが手助けしたりすると、危険かもね。そんなことは考えたくないけど」
「何だよ、沙希。怖い事いうなよ」
「ううん、ちょっと思い付いただけだから、忘れて。それより、翔。私、後で気が付いたんだけど、薫の表情、硬かったよね。それに今日は、あんまり喋んなかったし」
やっぱり来たかと思った翔は、背筋をピシッと伸はした。
「それって、圭介のケガに怯えてただけじゃねえの。さすがの薫だって、あのケガは怖かったんじゃね」
また松永が口を挟んできて、翔がヤバいと思った時には、沙希が大声で怒鳴っていた。
「あんたは黙ってろ。私は翔と話したいんだから」
「おい、沙希。ここで大声はまずいって」
翔が慌てて周囲に目をやりながら、沙希を制する。さすがの彼女も気まずい顔をして周囲に頭を下げた後、控えめの低い口調で先を続けた。
「あのさ、私が知ってる薫は、死体を見たって動じない女だよ。足が無くなったくらいで、ビビったりするわけないでしょうが。その薫がおかしかったんだ。何かあったに決まってるだろ」
松永は「おー怖」と呟いて頬を搔いている。翔も沙希の教え子達に同情したくなった。
水草薫が死体を見ても動じないというのは、事実だ。翔の父親が死んだ時もそうだったが、他にもエピソードがある。高校二年の冬、クラスメイトの女子が自殺した時のことだ。葬式での納棺の時、他の生徒が恐々と菊の花を棺桶に入れているのに、薫の奴、いきなり彼女の冷たい頬に触れたかと思うと、「ほんとに死んじゃったんだ」と呟いたのだ。多くの人は、その言葉で更に涙を流したのだが、本人は当然、泣いてなどいなかった。
後で翔が「お前、怖くなかったのかよ」と訊いたら、「えっ、何で? 死んでるんだから、怖いわけないじゃない」と不思議そうな顔をする。この時は沙希も松永もいたから、そのことを沙希は思い出したんだろう。
「で、翔、どうなの。あんたと薫。こっちに来てから、また会ったりしてるんでしょう」
沙希は、翔にとって痛いところをストレートに突いてきた。翔は「そりゃまあ、会ったことは会ったけど」と言った後、何となく口ごもってしまった。
「もう、あんた男でしょう。はっきりしなさい」
「まあ、ちょっと喧嘩しちゃってさ。少し気まずいっていうか……」
「てことは、あんたも後悔してるってわけ?」
「うん、あ、いや、実は俺、自分が何で薫があんなに怒ったのか良く分からないっていうかさ。それで今日、できれば薫に聞いてみたくて……」
翔が小声でぼそぼそと話していると、沙希は何故か納得した表情で「ふーん、なるほどね」と言って立ち上がる。
「じゃあ、私、そろそろ帰るわ。まだ、ちょっと仕事、残ってるし」
沙希は忙しそうだった。ここ数年、教師全体に対しては、様々な形での負荷軽減策が取られてきた筈だが、末端の若手教師にとっては、あまり関係が無さそうだ。
沙希に合わせて翔と松永も席を立つ。三人の背丈はそれほど大きく変わらない。沙希の身長はゆうに百七十センチを超えている上に、パンプスのヒールの分だってあるからだ。
高校時代の部活では、その高身長を活かした上段の構えからのメンが、県の強豪校からも恐れられていた。普段なら雑魚でしかない天王高校剣道部にあって、久しぶりの県大会突破の期待が掛かった彼女だったが、二年の時は夏秋ともに県大会一回戦で全国レベルの選手にいきなり当たって、あっけなく敗退。リベンジを賭けた三年夏の大会がコロナ禍で中止となってしまい、結局たいした戦績は残せていない。
一度は帰り掛けた沙希だったが、ふと思い出したように立ち止まり、その場で振り返って二人に言った。
「そうだ。今日は土曜だしさ、良かったら飲みにでも行かない? まあ、詩織が駄目で陽輝は残念かもしれないけど、せっかく翔が帰って来たんだからさ」
『圭介もだけどな』と翔は思ったが、口にはしなかった。あの状態の圭介が飲み会などに来られるわけがない。
「オッケー、じゃあ、久しぶりに行こうか」と翔が賛同すると、松永が「別にオレ、飲み会なら、お前らだけでも全然オッケーだし」と言う。
「あら、そうなの?」
「あったり前だろ……ってか、オレ、そこまで看護師にこだわってないから。それよか、どうせだから薫も誘ってやれよ。あいつの分は俺らで出してやりゃいいからよ。でも、まあ、バイトが終わってからだろうけどよ」
「もちろん、そのつもりだけど。さっきのことだって気になるし……じゃあ、六時半に大衆酒場でいいかな。ほら、天王通りの駅と神社の中間ぐらいのとこだけど……」
「ああ、いいぞ。翔は分かるか?」
「ああ。大学の頃に行ったことがあるから、たぶん大丈夫だ」
大衆酒場は翔が大学に入ってから、つまりコロナ禍の後にできた居酒屋だ。
「その頃よりは店が大きくなってるから、『あれ?』ってなるかもしれないけど、あの辺で流行ってるのってあそこだけだから、分かると思うよ」
「分かったけど……」
「あ、薫には、私からメールしとくから。あの子、八時まで仕事みたいだから、終わってからになっちゃうだろうけどね」
付け足すように沙希がそう言ったのは、たぶん翔の表情を窺ってのことだろう。もちろん翔としては、そうしてくれると大変助かる。
翔がほっとした所で、松永が勢いよく「これで決まりだな」と言った。
その言葉で沙希は、「じゃあね。六時半集合だから、遅れないでよ」と言い残して足早に去って行く。
「じゃあ、俺らも行くか」
松永に軽く肩を叩かれた翔は、沙希が出て行った出口の方にゆっくりと向かったのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話は、居酒屋での翔、松永、沙希の三人での会話です。
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