あと六日
婚約破棄の猶予まで、あと六日。今日は頑張って早起きをした。
朝から軽い体操をした。制服に着替えたあとは、昨日教えてもらったメイクタイム。ユリアにやってもらったときはあんなにも簡単そうにできたのに、自分でやるとどうして眉が上手く書けないんだろう。アイライン難しすぎるし、睫毛も上がらない。大苦戦した末に「これでいいや」とやり投げた。
髪は美容院に行ったから特に何もしなくても、まっすぐまとまってくれていて楽だった。適当に櫛で梳いて、ヘアミストを軽く振りかける。良い香りが広がる。うーん、良い女になれたって感じがする!
日が昇ってしばらく経った頃、支度を終えて寮の部屋を出た。朝食のために食堂に向かう。不思議とチラチラ見られている気がするような、そうでもないような。自意識過剰なだけかな。
広い食堂の中でユリアを見つけて、その向かいに座った。
「おはよう、ユリア。ねえねえ、私、変じゃない?」
「おはよう。上出来よ、可愛い」
「ありがとう!」
師匠に褒められ大満足。ついついにやけちゃう。
「すっごく大変だったの、ユリアは毎朝これしてるの?」
「うん。舐められないためにね」
「舐められ?」
「私をバカにしてくるお貴族様もいるのよ、時々ね」
「えー、ユリアはすごいよ。毎朝大変なことやってるもん」
そう、ユリアは私なんかよりずっとずっと偉くてすごい。そんなユリアが毎日やってることを真似していたら、ユリア好きのエリックが私のことも気にしてくれるかもしれない。それに、エリックの友だちの女の子たちみたいにもなれるし、一石二鳥だ。
ニコニコしながら朝食を摂っていると、まさに今考えている人と目が合った。少し離れたテーブル、薄い色素の目を惹く瞳。エリックだ。目が合うなんて滅多になくて、反射的にすぐに逸してしまった。
見つめ合う貴重な機会を逃したことを後悔しながら、午前の授業に挑む。今日は刺繍と古典。
刺繍は苦手。どんなに頭でわかっていても手が思うように動かないから。古典は得意。猛勉強の成果で、文法の理屈や単語の意味がわかってるから。エリックの心も勉強してわかればいいんだけどなぁ。
ユリアとエリックは伯爵位までが入れる一組で、私は男爵位と子爵位の子が混ぜ合わされたニ、三組の三組のほう。
一組とは教室が階段を挟んで離れているせいもあって、好きな人とも親友とも会える機会がなかなかない。だから休み時間はちょっと憂鬱で、授業中はもっと憂鬱。あーあ、早く終わんないかな。
ようやく昼休みになった。ユリアといつも待ち合わせている空き教室へ。食堂でランチボックスをもらってから向かう途中で、食堂へ向かうエリックとその友人たちに遭遇した。
高鳴る胸とは裏腹に、緊張で固まる表情筋。会うってわかってたら、笑顔の練習しといたのに。
「……ごきげんよう、エリック」
「こんにちは。クラリスはユリアとお昼?」
「そう、うん」
「それでさ、エリックは、あっ、この子って例の子じゃん」
不意にエリックの後ろから美人さんがひょこっと顔を出した。横にいたエリックの友人たちもこちらを見下ろす。眩しい人たちに見られている。こ、こわ。蛇に睨まれた蛙の気持ちがよくわかる。
心がざわざわした。私みたいな下級貴族が頑張って身なりを整えたところで、上級お貴族様たちに影でバカにされるかもしれない。
「クラリス、紹介するよ。この人は僕の友人の……」
エリックがなんか紹介してくれてるけど、一つも耳に入らなかった。というか、エリックを含めて、一組は有名人揃いだから名前と顔は一方的に存じ上げている。
怖いし落ち着かないし、ユリアも待たせているし、ここは退散しよう。苦笑いしながら一歩下がると、エリックが手を伸ばして私の髪に触れた。
呼吸が止まる。
「ところでクラリス、例の話はどう思ってる? 本当にいいの?」
髪に触れる手に五感を全力集中。焦げ茶色のさらさらにしてもらった髪が持ち上げられて、エリックの長い指をゆっくりとすり抜け落ちていく。髪から頬に触れる。エリックの手で包まれて、心肺停止。
髪なんて、初めて触ってもらえたかもしれない。昨日美容院連れて行ってもらって良かった、朝ヘアミストかけて良かった。ユリアと自分に大感謝。
「クラリス?」
大きな手が私から離れて、エリックの口元を覆う。薄茶色の目がこちらを見ていた。ハッとする。急に現実に引き戻された気がした。
「あっ、うん。いいと思う。私そろそろ行くね」
よくわからないけど、とりあえず肯定しておく。貴族らしくスカートをつまんで挨拶した直後、ユリアのところへ急いで走る。エリックに触られて舞い上がったふわふわ心地を払拭していくように。高揚感で溶けてしまわないように。
ユリアとふたりきりの、いつもの空き教室で昼食タイム。
ランチボックスを広げて食べていると、口にミニトマトを入れられた。うう……。せっかくサラダを注文してないのに、食べさせられたら意味がない。ぷちっと弾ける皮と種のつぶつぶに食感に苦しみながら飲み込む。いじめた本人は飄々としていた。
「で、クラリス、自信はついた?」
「じしん?」
「そう。エリックにキスだかなんだかするんでしょ?」
「……あのね、さっき、そのエリックたちに会ったんだけどね」
恐怖体験のことを話したら、ため息をつかれた。やれやれと呆れる様も可愛いのずるい。
ジュースを飲みつつユリアを見上げると、頭を撫でられた。同学年だけど、年齢的にはユリアのほうがお姉さんだから妹みたいに扱われてる気がする。実際私は末っ子だけどさ。
「人前でのキスはやめたら? 初めてならなおさら、もっと雰囲気良くしたほうがいいかもね」
「そうすることにする……」
「あと、エリックの前で固まるのもダメね。もっと慣れないと」
慣れるだなんて、そんなの無茶振りだ。見てるだけでぽーっとしちゃう相手がエリックなんだから。
でも、キスするときは、多分唇以外にもどこかに触っちゃうはず。いざ既成事実実行ってときに慌てないように、慣れる練習は必要かもしれない。
放課後。ユリアを連れて、エリックのいそうなところを回る。見つけたいけど見つけたくないような、そんな気持ちで。だって、エリックがひとりでいることは普通なくて、あの眩しい人たちと一緒にいることが多いから。
一組の教室、いつも放課後たむろする教室、図書館、お洒落街道……いた、カフェの中。あの魅力的な薄茶色の髪ですぐにわかった。外から見えるガラス越しに、大好きな大好きなエリックの向かいには、女の子と男の子と、隣には女の子がいた。いつもの眩しい友人たちに囲まれている。
どうしよう。カフェの中にいるんじゃ、キスなんてもちろん、慣れるために話しに行くこともできない。
ゆっくり通り過ぎるカフェの前。エリックを見ていたら、視線に気付いたように顔をこちらに向けた。ふんわり微笑まれて、小さく手を振られた。……やっぱり好き。
すると、眩しい人たちもこちらに気付いてにっこり。わっ、こ、こわ。なんで笑ってるんだろう。
「ユリア、行こ」
ユリアの手を引っ張って、カフェから遠ざかる。
「え、入らなくていいの? 隣のテーブル空いてるみたいだったけど」
「いいの、いいの! よく考えれば、今日はこれで三回も見れたから、十分練習になったの!」
「そんなので大丈夫?」
「いいったらいいの!」
明日こそ頑張るから、今日はもうエリックと眩しい女の子たちがいるところは見たくないの。




