おわり
「クラリス、おはよう。もう遅刻だ」
「……う」
「やっぱり今日も休もうか。はい、一緒に寝ようね」
「ううん、行く……」
怠い体を持ち上げる。今日も勝手に綺麗にされてる。ということは、エリックはまた私より遅く寝たわけで。なんでそんな元気なの。
婚約破棄の誤解が解けた翌日、ふたりとも授業を休んだ。その次の日と、さらに次の日も。
だから、さすがに今日は行かないといけない。今日行けば、明日と明後日は授業が無いから堂々と休める。今日さえ頑張ればいい。
エリックに介護されて、なんとか二限目の授業を重役出勤。私は教室中の視線を集めた。先生に微妙に赤い顔で怒られた。や、やだなぁ。遅刻した理由に深い意味は無い。寝坊しただけ、本当に。
久々の授業はあっという間に過ぎ、昼休みになった。赤茶髪つんつんボーイが私の前の席にドカッと座って、こちらを向いて頬杖をつく。
「よお、クラリスおひさ。ずっとユリアちゃんがキレながら心配してたぜ」
「ユリア優しい……好き……。あれ、そういえば、今回は突撃お部屋訪問してくれなかったな……ユリア酷い……」
「情緒不安定かよ。ユリアちゃん、エリックの女友だちに好かれて絡まれてるからなー」
なぬ。私がいないのを良いことに、ユリアの親友の座が奪われかけていたのか。エリックの周りは可愛い子や美人が多いから、油断してたらエリックもユリアも盗られちゃう。ふたりに愛想を尽かされないためにも、これからもお洒落を頑張らないと。
というか、さっきからマルセルがユリアのことに詳しすぎる。
「ユリアと何かあったの、マルセル」
ぴょこぴょこの触角が一瞬止まって、激しく動き出した。感情と直結してる触角は今日も絶好調らしい。喜んでるのがバレバレだ。
マルセルが手で鼻をこすりつつ、したり顔で言うことには。
「や、特には。時々昼一緒に食べて、放課後に一回デートに誘われたくらいだぜ?」
な、なんと、ふたりの仲が進展している!
「わあ、告白頑張ってね!」
「ま、まだ、んなことしねーよ。……そこまでする勇気ないし」
赤茶髪ぴょこぴょこ触角つんつん照れ屋ボーイは意外にも奥手らしい。頑張れ、マルセル。
マルセルやクラスメイトからノートを借りていたら、食堂にランチボックスをもらいに行くのが遅れた。そうしたら、不人気の野菜たっぷりサンドしか残ってなかった。最悪すぎる。
落ち込みながら、空き教室に向かう。どんよりした面持ちでドアを開けると、
「クラリス! あ、うわ、シャンプーの匂いセンスなさすぎ」
金髪ボブの美女に柔らかく抱きしめられたと思ったら、突き放された。落差が酷い。
「もしかして、エリックのところにずっと泊まってたの?」
「うん。帰るタイミングなくて」
「そういうのは結婚前でもいいのね。貴族って変なの。あ、今日野菜サンドなの? 可哀想ね、私のサラダもあげる」
「いっ、いらない!」
ユリアにからかわれた。
いつもの席に座ってランチボックスを広げる。嫌々野菜サンドを一口。広がるトマトとドレッシングの酸味。謎の葉っぱは苦いし玉ねぎは辛い。苦しい、苦しすぎる。
一方、定番のサンドウィッチを手に入れたユリアは余裕気だった。美女が食べるサンドのハムで、ふと赤茶色のぴょこぴょこ触角が思い浮かんだ。
「ユリア、マルセルと仲良いらしいね。お昼食べて、放課後デートしたって聞いたよ」
「あれはバカエリックの女友だち避けのためよ。一緒にいるならマルセルくんが良かったから、何回か誘っただけ」
あれあれ。マルセルは喜んでたけど、ユリアには裏事情があったっぽい。私のミッションは上手くいったし、同盟相手のマルセルの恋も上手くいってほしい。これは私がサポートせねば。
「ユリア好きな人いる?」
「クラリス」
「あ、や、そうじゃなくて」
真剣な顔で即答されるとさすがに照れる。野菜サンドの酸味や苦味が相殺される甘さだった。熱い熱い。手で顔を仰ぐ。
こういうユリアのはっきり言うところ、好きだ。正直で素直なとこ、格好良い。マルセルもユリアのこういうところが好きなんだろうな。でも、ユリアが私を好きなら、マルセルはどうなっちゃうんだろう。
ひとりで慌てていたら、ユリアがおかしそうに笑った。
「あははっ、クラリスみたいにわかりやすい子が好きってことよ」
「それ、私の他にもいるってこと?」
「さあね」
ぐっ。はぐらかされた。頑張れ、マルセル。負けるな、マルセル。私はこれからも応援し続けるぞ。
放課後。授業が終わっても、私はノートにペンを走らせていた。早く借りたノートを返さないといけない。貸してくれたクラスメイトたちは気遣ってか、まだ教室に残ってお喋りしてくれている。急いで書き写さないと。
そのとき、教室内がざわついた。顔を上げると、私の目を惹き付ける薄茶色がこちらに向かってきている。私の隣の席に静かに座って、こちらを見てきた。な、なんで来たの。
「クラリス、帰ろう。何してるの?」
「じゅ、授業のノートを」
さっきまでお喋りしてたクラスメイトが黙り始めた。私たちの会話に耳を澄まされている。ものすごく恥ずかしい。
エリックと会話することも、エリックにノート写してるの見られるのも緊張する。エリックがいると気を取られて頭が回らない。授業内容が全部飛んじゃう。
「エリックは帰らないの」
「クラリスひとりで帰らせたら、僕の部屋に帰ってこないかもしれないから。一緒に帰ろうね」
「え……」
なんで私も一緒にエリックの部屋に住むことが当然のようになってるんだろう。そんなこといつ決まったっけ。無意識脊髄トークが炸裂しちゃってたのかな。
いやしかし、私は自分の部屋に帰りたい。エリックと一緒にいると心臓も体ももたなくて、常に瀕死状態なのだ。だから、今日くらいは私は自分の部屋に帰る。絶対に帰る。
確固たる決意を胸に抱いたところで、目の端に影が映った。
「ねえ、エリックくんってクラリスとキスしてたんでしょ? 婚約者って話、本当?」
クラスメイトがエリックに声をかけている。エリックが他の女の子と話しているのは、見るも聞くのも何もかも気に入らない。あー、やだやだ。無視だ、無視。
自分の世界に入ってノート写しに集中する。このノート、見やすくまとめられていてすごい。ところどころ違う字がある。誰のだろう。マルセルのだ。じゃあ、ここの範囲をユリアに教えてもらったのかな。思わずにまにましてしまう。
「僕とクラリスの仲? そうだなぁ」
三日半も授業を休んだけど、あんまり進んでなくてラッキー。もうちょっとで書き終わる。これが終わったら、エリックが女の子たちと会話してる隙に、そっと部屋に戻ろう。そして、今日から明後日までは自分を甘やかして心身ともに休もう。あ、マルセルにお礼のクッキーでも買いに行こう。ユリアにも心配かけたお詫びスイーツを贈ろう。
突然、頬を包まれて視界がエリックでいっぱいになった。唇に柔らかい感触が当たる。
「え」
「クラリス、さっきから誰のこと考えてた? 僕のことじゃないよね」
「や、ご、ごめ」
「僕のことはどう思ってる?」
「ん、すき……」
「可愛い。僕と彼女はこういう仲だよ。クラリス終わった? 帰ろうね」
なになに。強引なキス、気持ちよかった。
ぼーっとしていたら、エリックに私のノートとペンを鞄に入れられ、腕を引っ張られた。そのままドアのほうへ。視線を感じて振り返ったら、教室に残っていた子たちが赤い顔で固まっていた。
廊下に出てからハッとする。このままではエリックの部屋に帰ることになってしまう。
握られる腕を振りほどいたら、エリックが「え?」と低い声を出した。私を静かに射抜く目にぞくぞくして、体の奥がきゅうっとなる。私が一歩下がるとエリックが一歩距離を詰め、私は廊下の壁にじわじわ押し付けられた。
「どうしたの、クラリス」
「えと、私は自分の部屋に帰るから」
「本当に? クラリスは僕と一緒にいたいと思ってるんじゃないかな」
「ほんと、う」
すぐにキスされて言い訳のひとつもさせてもらえない。高圧的な態度とは真逆の優しくて甘くてとろけるキスに、身体の力が抜けていく。
だめだめ、流されたら休めなくなっちゃう。でも、エリックのことは大好きだから一緒にいたい。かといって、べったりしすぎるのも悪いかもしれないし。
うだうだした悩みは、エリックに耳打ちされた途端に消えていった。
「クラリス、僕のこと好き?」
「えりっく、だいすき」
「僕といたい?」
「うん、いたい……」
「よく言えました」
気付けば、エリックの寝室だった。おかしいな、こんなはずじゃなかったのに。まぁ、こうなってしまったものは仕方ない。
「クラリス可愛い可愛い」
エリックにぎゅーっと抱きしめられたので、私も抱きしめ返す。首に腕を回して、溢れ出る想いを伝える。
「……えりっく、すきっ」
そう言えば、好きで好きでたまらない人が満足そうに微笑んだ。
「素直だね、クラリス。とても僕好みだよ」
婚約破棄を阻止しようと意気込んだ一週間。結局、立派な既成事実を作り上げられ、相手の思う壺にハマってしまったのは、私のほうだったらしい。
なんだか悔しい。いつか必ずやり返してやる!