当日
キスして婚約破棄を阻止してやる、その日がやってきた。
早起きして水を飲む。しっかり体操をして朝風呂をキメる。良い匂いがするボディーオイルを塗って、髪も香油でサラツヤに。バチッとシワのない制服を身にまとい、メイクもばっちりと。仕上げに、ユリアからもらった赤いリップを塗る。
見た目良し、匂い良し、やる気良し。今日の私は戦闘力が高そうで、とても良い。
どうか、大好きなあの人に上手くキスできますように。
教室に向かうと、マルセルが話しかけてきた。昨日、ユリアとともにマルセルの部屋に寄ったら、彼はお出掛けしていたので、会うのは一昨日のバー以来だ。
ニコニコしてどうしたの、赤茶髪ぴょこぴょこ触角つんつん照れ屋ボーイくん。
聞くところによると、デート調査の日の夜、マルセルはユリアに直接あの噂のことを確かめたという。ちょっと、それ同盟の約束に反してるけど!
恋仲の噂の真相は、相談事のためにエリックとユリアがふたりきりで話しているのを見たエリック狙いのニ組の子たちが、ユリアに嫉妬して広めたのだという。ああすれば、みんなの敵意がユリアに向くと思ったからだとか。結局、噂のふたりは何も知らないまま、エリックの友人たちがその子たちに注意して、場は収まったらしい。
私の影が薄すぎて、エリックの婚約者の有無は知られていないけれど、エリックの友人たちは一応私がいると知っているから、助けてくれたのだ、と。なんだ、眩しい人たちは良い人だったんだ。
「デートも、相談のお礼とかでエリックに荷物持ちさせてただけらしいしな。はー、マジで良かった、ガチのやつじゃなくて」
「そうなんだ。マルセルは本当のデートできたらいいね」
からかったら、触角のぴょこぴょこが止まって、顔がほんのり赤くなった。そして、こっちを向いてむっとする。
「俺のことはいいんだよ。クラリスこそエリックとどうだったんですかー?」
どうだったって、なんで過去形なの。キスは昼休み、すなわち未来のことなのに。
それに、昨日のこともちょっと人に話しにくい。エリックの指を食べさせられるとかいう、私も理解できない状況だったから。
そっぽを向いて誤魔化す言葉を考える、そのとき、授業開始のベルが鳴った。
「べ、別に何もないよ。ほら、鐘鳴ったよ」
「じゃあ、まぁ、お互い頑張ろーぜ」
マルセルが私の席から離れる直前、大事なことを思い出した。マルセルに言っておかないと。
「ねえ、マルセル。昼休みはちゃんと見ててね。私とエリックはキスしてたから婚約破棄できませんって証人になってもらわないといけないんだから」
「……破棄? お前らそんな雰囲気ぜんぜ」
「ちゃーんと見守っててよ、ね?」
ドヤ顔で念押しする。
今日の私は完璧なのだ。刺繍の授業も怪我なんてしない。
☆
昼休み。食堂でランチボックスをもらってから、いつもの空き教室、ではなく中庭に向かう。
ぽかぽかの良い天気の下、爽やかな秋風が吹き抜ける優雅な噴水がある中庭は、お昼ご飯を食べる学生に大人気の場所だ。証人がうじゃうじゃいて、キスするのにぴったり。
エリックはまだ来てないようだった。噴水の縁で座って待ちながら、小さな手鏡で顔を確認。メイクよれてない、リップ落ちてない、私は可愛い。よし、大丈夫。
エリックとユリアが好き同士じゃないことも、噂の謎も解けた。心置きなくエリックにキスできる。
エリックの婚約者が誰なのか、今からみんなに見せつけてやるんだから!
「クラリス、こんにちは」
好きな声がして顔をあげると、優しい目のエリックがいた。背中から溢れる日光がまるで後光みたいだ。ドキドキしつつ頑張って笑顔を作る。
「ごきげんよう、エリック」
「クラリスが僕を誘ってくれるのは初めてだね」
「そうだったかな」
まずは昼食だ。腹が減っては戦はできぬのだから。
本日のランチボックスはフルーツサンドにした。イチゴとオレンジがそれぞれ甘めの生クリームと挟まっている、定番のランチボックス。私の隣に座って、エリックも籠の蓋を開ける。
「あれ、クラリスも同じだね。これ美味しいよね」
「う、うん」
にこやかに微笑まれて硬直してしまう。エリック、どんな顔をしていても格好良い。薄茶髪が日光と水しぶきで輝いている。
魅力的すぎるエリックを直視できない。俯いて無言でもぐもぐとフルーツサンドを食べていく。
学生たちの話し声と噴水の音がやけに耳に入る。
視界の隅に入った人たちがこっち見てくすくすしている。私、笑われてるのかな。地味な私は、素敵なエリックに未だに相応しくなれない。
イチゴ、酸っぱいな。生クリーム、全然甘くない。キス、いつしたらいいんだろう。雲増えてきて、太陽が隠れちゃいそうだ。どうしよう、不安になってきた。最後の一口、緊張しすぎて味がなかった。
オレンジのほうも食べようとして、手を止める。私はちょっと泣きそうになっていた。けれど、泣き顔なんか何があってもエリックに見られたくない。
こうなったら、さっさとキスして逃げよう。やり逃げだ、やり逃げ。キスして走って逃げてやろう。
深呼吸して、エリックの腕を掴む。
「……エリック」
「どうしたの」
「婚約破棄の話、だけど」
「うん」
エリックを見上げる。眩しくて格好良い、大好きな人。これだけ人がたくさんいるのだから、ふたりの仲を証明するキスなんて、きっと一瞬で十分なはず。
エリックの肩に手を置いて、背筋を伸ばす。息を止めて、私は顔を近付けた。
初めてのキス。
ふにっと柔らかい感触がした。すぐに離したのに、エリックの唇には赤いリップが少し移っている。最高のキスの証拠ができた。自然と私の口角が上がってしまう。
これでエリックは私のもの、エリックの婚約者は私。
「これで破棄できないね?」
よし、逃げよう。エリックから手を離して立ち上がったら、ランチボックスの籠が膝から落ちた。オレンジサンドが無残に地面に落ちてしまった。ごめんよ、オレンジ。私は走り去らねばならないのだ。
勢いよく足を前に踏み出すと同時に、手を引っ張られた。後ろから抱きしめられて、顎を持ち上げられ、
「クラリス、待って」
「わっ」
エリックからキスされた。唇を甘噛みするみたいに、離れては噛み付く。それが何度も。
「クラリス、可愛い」
混乱する脳内に、とんでもない言葉が飛び込んできた。か、可愛いって言った、エリックが私を可愛いって言った! 努力した甲斐がある。嬉しい嬉しい。
「え、えりっく、もっと」
「クラリス、積極的だね」
ぐっと腰を引き寄せられて、密着する。これでは逃げられない。いや、私だってエリックのこと逃してあげないんだから。
「……ん、えりっく、すき」
「うん?」
口になんか入ってきた。キスを通して微かにオレンジ味を感じる。なにこれ、心がふわふわする。いっぱいキスされて、幸せな気持ちになってくる。
「えいっく、すき」
「クラリス?」
「すき、すき……」
気持ちよくしてくれる舌の動きが鈍くなって、下唇を舐めるようにして、離れてしまった。もう終わり? 私のこと嫌いになっちゃった?
エリックの制服のシャツを握って、薄茶色の目を見つめる。エリックは何故だか困惑顔だった。
「クラリス、僕のこと好きなの?」
「わたし、えりっく、すき」
「ごめん、クラリス。午後の授業諦めて」
背中と膝裏に腕を回されて、体が浮く。エリックが歩く度に、私の髪が揺れる感覚がする。運ばれてる、エリックにお姫様抱っこで運ばれてる! 嬉しい嬉しい。
エリックの首に手を回すとき、視線を周りに移すと、顔を赤くした学生たちがこちらを見ていた。目が合ったは、すっと背けられた。そうだ、ここは中庭なんだった。
さっきまで座っていた噴水のほうを見ると、ふたつのランチボックスの籠と、オレンジとイチゴのフルーツサンドが落ちていた。
エリックの寝室はカーテンが閉められて薄暗かった。ふかふかベッドの上にそっと降ろされて、ずっとずーっとキスしてる。
呼吸が乱れて苦しくなっていたら、唇以外にもキスされ始めた。おでこから目、耳と頬。うなじに鎖骨。どんどん下がっていく。エリックの髪を触ったら、彼が顔を上げた。
「クラリス、僕のこと好き?」
「……ん、すき」
「可愛いね、クラリス」
制服に手をかけられる。服を脱がされている。わ、恥ずかしい。
シャツの上から撫でてくる大きな手をやんわり払うと、ベッドに押し付けられながらキスされた。抵抗する気力が吸われていく。
キスの間に、シャツのボタンは全部外されてしまった。
「あ、そっか。触るたびに毎回すぐに赤い顔になってたの、嫌がって怒ってたんじゃなくて、僕が好きだから?」
「……えりっく、かっこいいもん」
「思ってることもっと言ってよ、クラリス」
「えりっく、だいすき……」
エリックが照れたように笑って、数えきれないくらいキスしてくれた。
好きな人にキスされて抱きしめられて、ドキドキが止まらない。死んでしまいそうなくらいだ。
「……や、こわい」
「大丈夫だよ、クラリス」
頭の中に響く深いキスの音で、心も体もきゅーっとなる。
エリックが耳元で囁く「可愛い」の言葉も、優しくと笑う落ち着いた声も、優しく頭を撫でる大きな手も、全部温かくて心地良かった。
☆
目が覚めたら夜だった。起き上がると下腹部に鈍痛が襲いかかってきた。うう、死ぬ、死んでしまう。
いつの間にやら着せられていた、ふんわり感触の大きな寝間着からはエリックの匂いがした。ベッドからももちろんエリックの匂いがする。うーん、死ぬならここがいいな。
枕に顔をうずめていたら、足音が聴こえてきて寝室のドアが開いた。コンソメの良い匂いとともに、ほっとした顔のエリックが入ってくる。
「クラリス起きたんだ。ちょうど良かった。ご飯食べさせてあげる」
「そ、それはいい。ありがとう」
あーんは断って自分で食べる。安心する味のスープだ。ふうふうしながら口に運ぶ。秋の夜のひんやりする空気と温かい食べ物。相性抜群。
スープを見つめながら、エリックに気になることを聞いてみる。
「あの、破棄の話はどうなってるの」
「その話なんだけど」
横の椅子に座ったエリックが、申し訳無さそうに両手を合わせた。
「ごめんね。元からそんな話無いんだ。クラリスは僕の前では途端に黙るし、僕たち会話もしないから、周りから仲が悪いと思われてるの、知ってる? それで、親がクラリスの意思確認しろって言ってきて、適当に鎌をかけたんだ」
「かま」
「僕たち政略結婚でしょ? だから婚約破棄を提案しても、絶対嫌って場合以外は大丈夫だと思ってね。でも、君はすんなり受け入れてきたから、内心ヒヤヒヤだったな。僕、そんなに嫌われてたのかなって」
エリックが「はは」と苦笑いを浮かべた。そして続ける。
「それでユリアに相談したら怒られちゃった。侯爵家の僕が男爵家の末娘の縁談受けた時点で、クラリス目当てなのは伝わってると思ってたんだけど、全く伝わってないよって。僕、夜会とかでもアピールしてたんだけど、気付いてなかった?」
「ご、ごめんなさい」
私は、夜会とかいう眩しい世界と眩しい人たちのどんちゃん騒ぎ祭りなんか、これっぽっちも好きじゃないから覚えてない。
肩をすくめると、エリックが慌てたようにまた謝った。
「あと、本当にごめん。昨日は他の男と仲良さそうだったから、つい焦っちゃった。今日は感極まっちゃって。怖かったよね、ごめん」
「や、私もごめんなさい」
さっきの事は、色々衝撃的すぎてあんまり記憶にないし、昨日は珍しいエリックが見れたから怖いと思ってすらいない。エリックだって突然キスされて怖かったはず。
目を合わせて、ふふっと笑い合う。私たち、似た者同士だ。話し合うより先に手を出しちゃう。相手がどう思ってるか聞くの怖くて、目の前の確実な方法選んじゃった。
だから、お互い様ってことで。
破棄の話が無いことに安心してスープにぱくついていたけど、実はもうお腹いっぱい。余ったスープを器の中でかき混ぜていたら、不意に頭を撫でられた。え。
エリックのほうをチラ見して、小さな声を絞り出す。
「な、なに」
「クラリスは僕が触っていると態度が変わるってわかったから、できるだけ触れていようと思って」
「え?」
「クラリスはキスしたら素直になるって自覚ないの?」
「な、なにそれ」
何を言い出してるの、エリックは。もしかして私は、キスに夢中で何か脊髄発言してしまったのかもしれない。これはいけない。変なこと言わないために、エリックの前では黙ってるようにしてるのに。
容器と食器を取り上げられ、肩を抱き寄せられた。髪を耳にかけられ、エリックの息がかかる。わあ、近い。
「僕はもっとクラリスの本音が聞きたいな」
「……や、あの」
「体に聞かないと、言ってくれない?」
ちょっと低いエリックの声にきゅんきゅんする。おかしいな、私。こんな、エリックの声だけでこんな感覚になる人間じゃなかったはずなのに。
「クラリス、僕に何してほしい?」
「えりっ、ん……」
「クラリス、素直に言ってよ」
エリックに軽くキスされる。素直って何。正直にお願いしてもいいのかな。好きな人におねだりして、拒否されるの嫌だな。そうだ、軽いやつなら。
「……も、もっとなでて、だきしめて」
「わかった」
頭を撫でられながら、強く抱きしめられる。気持ちいい、苦しいくらいがちょうどいい。
「他には?」
「さ、さびしいから、たくさん、あいたい」
「じゃあ一緒に住もうか。卒業まで僕の部屋でいいよね」
エリックはおねだりしても聞いてくれる。嬉しい、嬉しい。ぎゅうっとされながら、キスが降ってきた。さらに手が私の服の下に。くすぐったくて気持ちいい。
「えりっく、すき」
「可愛いね、クラリス」
「……えりっくは、わたしのこと、すき……?」
ふたりでぼすんとベッドに沈む。ちゅっと音をたててキスされた。
「愛してるよ、クラリス」




