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第1話:プロローグ 〜失われた式典と鋼鉄の目覚め〜

警察学校のグラウンドは、いつも乾いた砂埃と怒声で満ちていた。


「おいユウキ、また足が止まってるぞ。そんなへっぴり腰で現場に出られると思ってんのか」


教官の鋭い声が飛ぶ。ユウキは泥にまみれた膝をつき、肺が裂けるような息を吐いた。腕立て伏せは規定回数に届かず、乱取りでは開始数秒で畳に沈む。学科で歴代最高点を取っても、肉体は正直だった。


「現場じゃただの足手まといだな」


すれ違いざまに同期が笑う。言い返す言葉はない。殴り合えば確実に負ける。だから、黙って耐えるしかなかった。


「――そこまでにしておきなさいよ」


ざわつく群れを切り裂くように、桐生カレンが現れた。教官すら唸らせる身のこなしで歩み寄る彼女のポニーテールが揺れるたび、周囲の空気が引き締まる。


「訓練で全力を尽くした相手を嘲笑うのが、あんたたちの言う『現場』の姿なの?」


冷ややかな視線に射られ、大柄な同期たちはバツが悪そうに無言で立ち去った。カレンはふいと視線を逸らし、ユウキにスポーツボトルを投げ渡す。冷たい口調の端で、指先がぎこちなく蓋を押さえているのが見えた。


「早く飲んで。次の模擬テスト、あんたのノート見せてもらうんだからね」


ボトルの冷たさが手に伝わる。ユウキの胸が跳ねた。


(格好悪いよな、僕)


ロボット工学の権威だった亡き父の血を引くカレンは、誰よりも優秀で誇り高い。いつも守られてばかりの自分が、せめて一番近くで彼女を支えたい――それがユウキの秘かな願いだった。


卒業式の朝。並木道を歩く二人の背に、春の柔らかな光が差していた。礼服の金モールが眩しい。


「配属先は違うけど、現場で解析を頼むこともあるかもしれないわ。その時は、しっかりサポートしなさいよね」

「うん、任せてよ。カレンが危険な目に遭わないように……」


ユウキが微笑んだ、その瞬間だった。


悪寒と高周波が同時に襲い、並木道の空気が裂けた。地面が微かに震え、街頭のLEDが不規則に瞬いて一斉に落ちる。電子機器が痙攣し、焦げた金属とオゾンの匂いが鼻腔を刺した。人々の足が止まり、次いで悲鳴が連鎖した。


交差点の中央に、音もなく立つ黒い影。艶消しの複合装甲、露出した関節。無機質なバイザーの奥で、真紅の光学アイがカレンを捉える。


『――ターゲット確認。桐生博士の直系遺伝子を照合……抹殺シーケンスを実行』


(お父さんの……?)


カレンの体が固まる。幼い頃、血の海に倒れる両親を見下ろしていた黒い鉄塊の記憶が、胸の奥から冷たく蘇る。彼女の呼吸が一瞬止まった。


ファントムが踏み出す。右腕のブレードが喉元へ一直線に迫る。その足元では、パニックで転んだ幼い子どもが手足をばたつかせている。


距離、速度、回避猶予。ユウキの頭が瞬時に数値を弾き出す。間に合わない。だが、体が勝手に動いた。


「カレン、逃げろっ!」


ユウキは叫び、子どもを抱えたカレンごと歩道へ押しやった。


――ドゴォッ!


鋼鉄の拳が胸を貫いた。金ボタンが弾け、白い手袋が鮮血に染まる。衝撃は言葉を奪い、世界は赤と音だけになった。


ファントムが再びブレードを振り上げた刹那、四方からタイヤの焦げる匂いとともに黒塗りの特殊車両が突入した。


『――対象を発見! 射撃開始!』


上空のドローンと地上の部隊が一斉に電磁徹甲弾を放つ。火花が散り、ファントムの赤い瞳が冷徹に状況を再計算する。


『目標排除を凍結。離脱プロトコルへ移行』


包囲網の隙間を縫うように、ファントムは垂直跳躍でビルの壁面を蹴り上げ、瞬く間に姿を消した。


「ユウキ……!?」


部隊の怒号が飛び交う中、カレンが這い寄り、血まみれの彼を抱き起こす。顔に浮かぶのは、安堵と深い絶望が混ざった表情だった。


(ああ……よかった)


砕けるような激痛の中で、ユウキはカレンの無事を確かめるために目を開けた。いつも守る側だったはずの彼に、今、抱き起こされている。逆転した現実が、カレンの顔を歪ませる。


もっと生きて、隣にいたかった。失うという恐怖が押し寄せる。


(彼女を守れる……絶対に壊れない身体が、欲しかったな……)


春の青空の下、カレンの悲痛な絶叫だけが響いた。


やがて、けたたましいサイレンが世界を塗り潰す。

「脈拍低下! 急いで!」

「ダメだ、出血が酷すぎる……!」


薄れゆく意識の底で、救急隊員の切羽詰まった声、断続的なモニターのアラーム、ストレッチャーの振動が断片的に届く。冷たい手術室の重い扉が閉まる音が、ユウキの最後の記憶になった。


――数週間後。


前代未聞の襲撃は、式典を奪った。華やかな講堂に代わり、警察学校の大会議室で簡易な辞令交付式がひっそりと行われる。参列者の顔に笑みはない。最前列、本来なら首席が座るはずの椅子には、白いリンドウが一輪置かれていた。


「――卒業生総代、桐生カレン」


カレンは能面のような表情で壇上へ歩み出た。座学首席だったユウキの死により、繰り上がりで総合首席となったのだ。校長から辞令を受け取る白手袋の手が微かに震えている。


(私のせいだ)


血塗られた白い手袋の記憶がフラッシュバックする。壇上から空席の椅子を見つめ、唇を噛み、手袋越しに爪が掌に食い込む。いつも自分が守っていた非力な彼に、命を救われたという現実が、胸を締めつける。


「……必ず、私の手で粉々にしてやる」


カレンは震える唇を強く噛み締めた。供えられた一輪の花に誓うように、瞳の奥で冷たく青い復讐の炎が静かに灯る。


それからどれだけの時間が流れただろうか。深い暗闇の中で、ふいに無機質な電子音が反復した。


『System Reboot…』

『Boot Sequence : Initialized』


暗い水底から浮かび上がるように、意識が戻る。


(……え? なんだ、これ。僕、死んだはずじゃ……)


『Sensors : Online. Vision : Clear』


唐突に視界が開けた。視界の端に見慣れないステータスバーが流れる。距離、心拍、周囲温度――数値が直接、頭の中に流れ込む感覚。ユウキは喉を鳴らそうとしたが、唾液の感覚はなかった。首を動かすと微かなモーター音が「ウィーン」と鳴る。体が自分のものではないことを、音が告げた。


視線の先、無骨な取調室のような部屋の向こうに二つの人影。初老の恰幅の良い男――特殊犯罪捜査係の係長。そして、黒いスーツの女性。


(カレン……!?)


真新しい黒のスーツに身を包んだ彼女の横顔は、数週間前の学生らしさを失っていた。近寄りがたいほどの凄みと冷徹さが宿る。


生きている。生きていてくれた。胸の奥で熱が跳ねる。駆け寄ろうとする衝動が湧いたが、強固なシステムロックが意思を弾いた。筋肉は反応しても、動作は制御される。彼女の視線は冷たく、こちらを拒むように固まっている。


「係長、何度言われても私の答えは同じです」


カレンの氷のように冷たい声が部屋に響いた。肩は強張り、指先がかすかに震えている。


「人間のパートナーならともかく、こんな鉄屑のバディなんてお断りです。現場ではただの足手まといよ」


痛烈な拒絶の言葉。だが、最新の光学センサーは彼女の強張った肩と、震える指先を正確に捉えていた。トラウマに必死に耐えているのだ。


(大丈夫だよ、カレン。僕が守るから)


ユウキの内側から湧く温かい決意は、そのまま言葉にならないまま胸に留まる。だが新しい視界には無慈悲な赤いアラートが点灯した。


Target : KAREN KIRYU / Hostility : 100%(敵対心:MAX)


非力だった警察学校生は、理由も説明もないまま、絶対に壊れない鋼鉄の肉体を得て目覚めた。彼は今、凍てついた新人刑事の「ただの盾」として立っている――それが、彼の新しい世界の始まりだった。

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