消された音
……やはり、ここだった。
俺達が巻き込まれた、歪んだ構造の根幹。
原則そのものではない。
その扱い方――解釈の仕方が、どこかでねじ曲がっている。
そうでなければ、あの結論にはならない。
ここまでは、繋がった。
だとすれば、次に確かめるべきは一つしかない。
その歪みが、正しい運用として認められているのか。
それとも、どこかで逸脱しているのか。
ほんの僅かに、喉が乾く。
だが、ここで躊躇う理由はない。
「……あの。先程も申し上げたように、区の方ではガイドラインをマニュアルとして扱っている実態があります。実際にそうしたという正式回答が返ってきているので」
できるだけ抑えた声で、言葉を選びながら続ける。
『はい』
短い相槌が返ってくる。
その反応の薄さに、逆にわずかな緊張が走る。
「これは、運用が適切に行われていないという事だと私には思えるのですが、御局のご見解としてはいかがでしょうか?」
言い切った後、わずかな間が空いた。
問いとしては、踏み込んでいる。
だが、外してはいないはずだ。
事実関係は揃っている。
前提も共有されている。
ならば――答えは出るはずだ。
この歪みが現実に被害を生み出そうとしている。
俺達は、結果として救われた。
決定は覆り、最悪の事態は避けられた。
だが、それはたまたまだ。
同じ条件で、同じように声を上げられる人ばかりではない。
声を上げても、届かないまま終わる人だっているはずだ。
このままなら、俺達と同じ状況に陥る人達が、これからも必ず生まれる。
それをどうにかできるきっかけになる事ができたなら。
ほんの少しでも、何かが変わるなら。
そう、思った。
――だが。
『申し訳ありませんが、区での対応が適切か否かにつきましては、当局では判断する立場にございません』
……は?
一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
いや、意味自体は分かる。
だが――理解が、追い付かない。
今の話の流れで、その答えになるのか――?
ほんのわずかに、呼吸が乱れる。
「えぇと……現状区で行われている事務というのは、市から委任されているものと考えておりますが、齟齬ございますでしょうか?」
確認するように、ゆっくりと言葉を重ねる。
『いえ、ございません。無論、全ての事務が、という事ではありませんが』
あまりにも淀みのない返答だった。
迷いも、逡巡も感じられない。
まるで、最初から決まっていたかのように。
そう、だよな。
役割分担のようなものはあるにせよ、元々医療的ケア児の受け入れを推進しようというのは市の取り組みだ。
つまり、市側で制度や運用を取り決め、それを区側に委任しているという形のはず。
ならば――
『当局ではガイドラインの制定やルールの取り決めなどをしておりますが、実際の認定や利用決定についての権限はあくまで区側にございます。事務の決裁権限ですね』
「はい」
『よって、私共が区に対して、何らかの指導的に関わる事はございません』
淡々と、区切るように告げられる。
そこに、感情は一切乗っていなかった。
要するに、市は区の業務の妥当性を評価する訳ではない、という事か。
――そんな事が、あるのか。
胸の奥に、じわりとした違和感が広がる。
だが、それでもまだ、完全には否定しきれない。
もしかしたら、自分の理解がずれているだけなのかもしれない。
そう思わなければ、話が成立しない。
「……私の認識が間違っていたらご指摘頂きたいのですが」
『はい』
短い返事。
だが、その声色に変化はない。
「先程、市は区に事務を委任しているとのお話がございました」
『はい、申し上げました』
「だとするならば、委任元である市は、委任先である区に対し、委任業務が適切に実行されているかを確認する義務があるのではないかと思うのですが……違うのでしょうか?」
言葉を選びながら、できるだけ論理を崩さないように問いを重ねる。
これで繋がらないなら――
本当に、どこかがおかしい。
少し、自分の考えに自信がなくなってくる。
もしかして、ずれているのは俺なのか?
さっきまで積み上げてきた論理が、足元から静かに揺らぐ。
繋がっていたはずの前提が、どこかで外れているような感覚。
だが、どこが間違っているのかが分からない。
頭の中で、これまでのやり取りをなぞり直す。
ガイドラインの位置付け。
区と市の役割分担。
委任という言葉の意味。
1つ1つは、間違っていないはずだ。
それでも――結論だけが、どうしても噛み合わない。
俺が民間の常識で考えているからずれているのだろうか?
行政では、委任元は委任先の成果に責任を持たないものなのか?
もしそうだとしたら。
俺が感じているこの違和感自体が、的外れなものなのかもしれない。
そこまで考えて、思考が一度止まる。
……分からない。
自分の考えが正しいのかどうかすら、判断がつかなくなっていた。
『……少々、お待ち頂いてもよろしいでしょうか?』
不意に、声が割り込んでくる。
「え、あ、はい」
反射的に返事をしていた。
『保留にさせて頂きます』
そう告げられて――耳元から、音がなくなる。
静寂が、戻ってくる。
ついさっきまで続いていた会話が、嘘のように途切れた。
その途切れた空白の中で、さっきの言葉だけが何度も反芻される。
――本当に、判断する立場にないのか?
……あれ?
電話が、保留になって――ない?
耳を澄ましてみる。
だが、いつもなら流れるはずの保留音は聞こえてこない。
妙に荘厳な、あの大音量の音楽が。
その代わりに――微かに、何か別の音が混じっている事に気付く。
人の声だ。
受話器の向こう側で、誰かが話している。
最初は、気のせいかと思った。
回線のノイズか、どこか別の音が紛れ込んでいるのかと。
だが違う。
はっきりと、会話になっている。
あまり深く考えず、俺はそのまま耳を澄ましてしまった。
『――んー、だから、何に対しての不服申立てになるのって思うよね』
『ですよね、別に今、困ってる訳ではないでしょうし』
不意に飛び込んできた言葉に、思わず意識が引き寄せられる。
――不服申立て。
一瞬、引っ掛かる。
その単語は、この電話の中では一度も出していない。
俺は、そんな話はしていないはずだ。
それなのに、何故か話はそこを前提に進んでいる。
胸の奥に、ざわりとした違和感が広がる。
『とりあえず、今聞かれているのは、委任先が適切に業務を行っているかを、委任元がきちんと確認すべきじゃないかって話でして』
『んー、何でそんなの気になるんだろうね』
……え?
聴こえてきた言葉に、思考が止まる。
今の話――さっき、俺がした質問と同じだ。
だが、どこかが違う。
話の前提が、微妙にずれている。
俺が聞いたのは、確認すべきではないかという話だ。
だが向こうは、それを不服申立ての話として扱っている。
繋がっているのに、繋がっていない。
同じ話をしているはずなのに、違う話になっている。
じゃあ――
これは、何だ?
背中に、じわりと冷たいものが走る。
『あれか。1次調整の時の。けど最終的には入れたんだよね?』
『はい……まぁ、それまでの間にあった諸々込みで疑いを持ってるって事なのかなと思いますが』
『んー、どう返すのが筋ですかね』
1つ1つの言葉が、勝手に繋がっていく。
断片だったはずの情報が、形を持ち始める。
これは――俺の話だ。
だが同時に、俺の話ではない。
俺が話した内容とは、どこか違う形に組み替えられている。
頭の中で、否定しようとする。
違う。これは偶然だ。
たまたま、似た話をしているだけだ。
そう思おうとするのに――
耳が、離れない。
離せない。
聞いてはいけないものだと分かっているのに。
ここで耳を塞いだら、もう二度とこの先には辿り着けない気がした。
だから、俺は動けなかった。
ただ、息を殺して、その向こう側の言葉を待っていた。
喉の奥に、冷たいものを感じた。
――そして。
その言葉が、ついに俺の耳に届いてしまった。




