立ち塞がった原則
区役所から一方的に終わりを告げられた翌日。
俺は、手に持ったスマートフォンを睨みながら、その時を待っていた。
部屋の中はやけに静かだった。
エアコンの微かな駆動音と、壁掛け時計の秒針の音だけが耳に入ってくる。
カチ、カチ、と刻まれる音が妙に気に障る。
時間は進んでいるはずなのに、何も進んでいないような感覚。
昨日のやり取りが、まだ終わっていないような感覚。
――いや、終わらせられただけだ。
目の前のモニタ画面に映し出された窓の1つには、昨日受け取った文書がそのまま置かれている。
何度も目を通したから、内容はもう頭に入っている。
それでも目を逸らす事ができなかった。
繋がらない説明。
噛み合わない前提。
そして最後に添えられた、あまりにもあっさりとした結論。
『当区としての回答は先程お送りしたものとなります』
その一文だけが、妙にくっきりと浮かび上がる。
それで終わりにできるほど、軽い話じゃないだろう。
視線をスマートフォンに戻す。
画面は暗いままだ。
昨日の夜、何度も同じ画面を開いた。
問い合わせ先の番号。
メールの下書き。
調べた記録。
どれも途中で止まっている。
――もういいんじゃないか。
何度か、そう思った。
決定は覆った。
結果だけを見れば、俺達は望んだ形に辿り着いている。
それでいいじゃないか、と。
だが、そう思おうとして、やめた。
違う。
これは結果の問題じゃない。
どうやって決められたのか。
何を基準に判断されたのか。
何が無視されたのか。
そこが分からないまま終わる事を、俺は受け入れられない。
理由なんてどうでもいい。
ただ、このまま終わらせるのだけは違うと思った。
スマートフォンを手に取り、ロックを解除して連絡先の画面を開く。
昨日のうちに調べておいた番号。
市の親子家庭支援局――例のガイドラインを発行した部署。
区を通さず、直接確認する。
それしかないと思った。
区を通した時点で、解釈が混ざる。
言葉が変わる。
意図が歪む。
昨日のやり取りで、それは嫌というほど思い知った。
だから――直接、聞く。
それで何も得られなかったとしても。
これが、最後だ。もう一度だけ、手を出してみよう。
発信ボタンの上で、指がわずかに止まる。
ここで何かが変わるとは思っていない。
やらずに終わるよりは――いい。
そう自分に言い聞かせて、指を動かした。
コール音が鳴る。
1回。
2回。
3回。
やけに長く感じるその音の中で、無意識に息を詰めていた事に気付く。
ゆっくりと息を吐き出す。
その瞬間――
不意に、音が変わった。
――その時が、来た。
『はい。行浜市親子家庭支援局でございます』
「もしもし。私、行浜市に在住しております、大竹と申します。お世話になります」
『お世話になります。私――長谷川がお受けいたします』
電話の相手は、市の親子家庭支援局。
――例のガイドラインを発行した部署。
「お伺いしたい事がありましてお電話いたしました。今、お時間よろしいでしょうか?」
『はい、大丈夫です』
流暢な言い回しから、相手が電話に慣れている事が分かる。
『それで、御用向きとしてはどのようなものになりますでしょうか?』
「御局で発行されている、保育所等における医療的ケア児受け入れ推進ガイドラインについて確認したい事があり、お電話差し上げました」
『あぁはい、そちらは当局で発行しております。ご確認されたい事とは何でしょう?』
深く、息を吸った。
昨夜からずっと頭の中で繰り返し続けた質問を、静かに口から音にする。
「単刀直入に伺います。こちらのガイドラインに、『医療的ケア児は看護師を直接雇用している保育園へ通わせる』という原則があると耳にしたのですが、本当でしょうか?」
区役所が、幾度となく告げてきた原則。
この存在を知ってから、何度も目を通した。
該当しそうな箇所を1つ1つ拾い上げていった。
並べられた言葉を繋ぎ合わせ、ガイドラインとしての筋道を追いかけた。
それでもやはり――そんな原則の記載は見当たらなかった。
看護師の配置についての記述はある。
受け入れ体制についての考え方も書かれている。
だが、それらはあくまで「こうあるべき」という方向性であって、特定の条件を満たす園に限定するような書き方にはなっていない。
少なくとも、俺にはそうとしか読めなかった。
だからあるとすれば――明文化されていない運用ルール。
現場で暗黙の前提として共有されているものか、あるいは解釈の中でいつの間にか固定化してしまったものか。
どちらにせよ、その存在を確かめなければならない。
でないと、区役所側がどれだけ終わりにしようとしたって、俺は終われない。
『原則、ですか』
「はい、実は――」
俺は、今回の一件について一部始終を説明した。
瑞穂の事。
医療的ケアが必要であるという前提。
それを踏まえて、どういう環境であれば安全に生活できるのかを検討してきた事。
転園の事情。
今の保育園からの継続的な関わり。
看護師の派遣という形で受け入れが可能になる見通しがあった事。
伝えてきた希望。
自宅からの距離。
日々の生活動線。
負担の少ない形で継続できる環境を選びたいという意図。
無視された事実。
提示した情報が判断にどう反映されたのか分からないまま、話が進んでいった事。
覆った決定。
一度出された結果が、後から調整によって変更されたという経緯。
それらを順を追って、できるだけ事実だけを並べるようにして伝える。
感情を乗せても意味がない。
ここで必要なのは、あくまで前提の共有だ。
そして――
最終的な回答として、ガイドラインの原則に従ったと正式に説明された事。
その原則という言葉だけが、どうしても引っ掛かっていた。
もし、その原則がガイドラインの中に明確に位置付けられているのであれば、
俺の読み取りが間違っている可能性もある。
だからこそ、その認識を正しく揃えておきたかった。
そこまで話して、一度言葉を切る。
相手がどこまで理解しているのかは分からない。
だが、少なくとも論点は伝わっているはずだ。
「――という事があり、本当にそんな原則があるのかをまず確認させて頂きたい次第です」
できるだけ平坦に、事務的に。
それでも、わずかに力が入ってしまった声が、自分でも分かった。
『なるほど……』
電話の相手――長谷川さんは、少し考え込むように言葉尻を窄めた。
受話器の向こうで、わずかに紙を捲るような音がした気がする。
何かを確認しているのか。
それとも、今聞いた話を整理しているだけなのか。
どちらにせよ、その沈黙は短いはずなのに、やけに長く感じられた。
『……結論から申し上げますと』
再び、音が耳に届く。
その一言で、無意識に身体に力が入る。
『原則は、確かに仰る通り、看護師を直接雇用している保育園という事にはなっております』
「……」
あった、のか。
ほんの一瞬、頭の中が空白になる。
もしかしたら、ないんじゃないかと思っていた。
それを区役所が勝手にルールにしてしまったのではないかと。
だが――違った。
その原則は、確かに存在していた。
じゃあ、俺が見ていたあのガイドラインは何だったんだ。
見落としたのか。それとも読み違えたのか。
そんな疑問が一気に浮かび上がる。
何故そんな原則があるのだろう。
そう問うてみたくて、口を開きかけた。
その時――
『ただ、原則はあくまでも原則です。事情によって例外はあり得るものと想定しております』
「……え?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
『ガイドラインは、記載されていることだけをそのまま守るというものではなく、あくまで適切な調整を行うための指針です』
その言葉が、ゆっくりと頭の中に落ちてくる。
――違う。
さっきまで自分が想定していた原則と、意味が違う。
『事情により、看護師が直接雇用されている保育園が必ずしも最適解ではない場合もあります。ですから、そうではない保育園とする事を禁止するような趣旨ではございません』
そこまで聞いて、ようやく理解が追い付く。
――あぁ、そういう事か。
つまりこれは、絶対条件ではない。
判断の軸の1つではあっても、それ自体が結論を縛るものではない。
――俺の知っている常識と、ずれていない。
むしろ、ようやく噛み合った。
随分と久し振りに、まともに会話が成立している感覚があった。
「……つまり、マニュアルとして運用することを想定したものではない、という理解でよろしいでしょうか?」
念の為、言葉を選びながら確認する。
『はい。そのように認識しております』
短く、迷いのない返答だった。




