第十章 柘榴の封印 2
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遥か頭上の天蓋が砕けた。何事と振り仰いだ皆の目に、一直線に降下してくる黒の塊が映ったと見るや、それは手にした何かを魔物の脳天に突き立てる!
それ自身の体重と、落下による加速度を余す事なく叩きつけられた魔物はたまらずその勢いのまま、床石に張り付けられた。勢いのまま、踵を当てて楔
の根元まで魔物の脳天にめり込ませ、次いで身軽に飛びのいた〈オクルス〉は、そのままスピカの手を捕らえていた腕に体重を乗せ、着地する。何かが折れるようなへしゃげた音が響いた。その間わずかに一瞬。目を疑うような登場をした〈オクルス〉に、いち早く我に返ったスピカが飛びつく。
「ローラ!」
「まだだ!」
〈オクルス〉は、スピカを背に回すともう一本の楔を逆手に構えた。固唾を飲む二人の前で、磔になっていた神官長の体がのたりと動く。緩慢な動きで床に両手をついた魔物は、おもむろに体を起こしにかかった。ずぶり、と楔が脳天にめり込んでいく。床石に強固に打ち込まれた楔では抜けぬと見たか、自分の頭を引き抜こうというのだ。肉が裂け骨が砕ける不気味な音が、聞く者の嘔吐をすら誘う。
「ひ…っ」
おぞましい光景に、片手で口元を押さえたスピカが〈オクルス〉の肩にしがみついた。その少女を庇いながら、〈オクルス〉はじりじりと、起き上がろうとする魔物から後退する。二人が魔法陣を取り巻く旋風の障壁まで退いた時、遂に楔から頭が引き抜かれた。無残に引き裂かれた傷が塞がっていく頭を、魔物は〈オクルス〉に向ける。
「しぶとい女だ、生きてやがったか」
「お互い様だ」
「けけけっ、そりゃそうだ」
浅ましく笑った魔物の体が、ぼこりぼこりと膨らみ始める。まだ老人の姿を止めていた手が奇怪に伸び、胴が頭の大きさに合わせるように巨大化し、尻尾が生え、猛禽じみた後足が床石を抉る。毛のない体表は、淀んだ廃油のようにぬらりとした光沢が身動きのたびに縦横に走らせた。障壁の外でラウルス達と切り結んでいた片割れも同じくして見上げる程に変化する。
「これではキリがない…ッ」
ラウルスは、斬りつけても突き刺してもすぐに回復する魔物に歯軋りした。その間に、振り回される腕をかいくぐって肩口から袈裟懸けに斬りつけたグレンが、返す腕に弾き飛ばされる。
「グレン!」
「けーっけっけっけ! まだ遊ぶかぁ!? 雑魚共め!」
「貴様ァッ!」
柳眉を逆立てたディーガル兄弟は、左右から魔物に斬りかかっていった。
一方、グレンが墜落したベンチの山から、彼とは別の呻き声が洩れる。アンゲルス神官だ。グレンが木っ端を弾き飛ばしたために気がついたか、ベンチの間からごそごそと丸っこい手が現れた。
「あいたたた…一体何が…?」
血のにじむ頭部を押さえて残骸の中から這い出してきたアンゲルス神官は、すぐそばで流血し、倒れているグレンに腰を抜かす。
「グ、グレン殿!? しっかり…! 何が…ひえっ!」
おろおろと周囲を見回し、更に言葉を失ったアンゲルス神官の耳に、正気づいたグレンの声が届く。
「ア…アンゲルス神官、〈オクルス〉…〈オクルス〉の剣は…?」
「おお、グレン殿。い、一体あの化け物は…? スピカ様は御無事ですか!?」
グレンは、起き上がるのに手を貸してくれたアンゲルス神官に、障壁の向こうを指し示した。
「あ…あちらに…! 早く〈オクルス〉に剣を!」
「スピカ様! 〈オクルス〉殿!」
グレンの指示で魔物と対峙している二人を認めたアンゲルス神官は、大事に抱えていた〈オクルス〉の剣を頭上で振ってみせた。それに気づいた〈オクルス〉の目に輝きが戻るのを、魔物が嘲笑う。
「剣かぁ? 残念だなぁ、ここには届かねえよ。障壁があるからなあ!」
「――血の魔法陣か」
〈オクルス〉の声音に、諦めの色はなかった。訝しむ魔物をよそに、その口元にうっすらと酷薄な笑みが浮かぶ。
「酔狂が過ぎたな」
「何だと?」
答えず、〈オクルス〉は手にした楔を床に突き立てた。過たず血の線を分断した楔は、暴走する力場の負荷に耐え切れず砕け散る。だが、崩された魔法陣もまた、断末魔の閃光を放って消え失せた。
「貴様ぁッ!」
「剣を!」
閃光に動じもせず手を伸ばした〈オクルス〉もさる事ながら、その要請にすぐさま応えたアンゲルス神官も称賛に値した。投げ渡された剣が〈オクルス〉の手に吸い込まれる。と同時に、〈オクルス〉は床を蹴った。目を焼く残光が消える間もなく突進してきた〈オクルス〉の剣を、魔物は左手で受け止める。斬り落とされても構わないとタカをくくっていたその口からしかし、苦痛の悲鳴が上がった。見事切断された斬り口から、異臭放つ黒煙が立ち昇る。
「き、貴様…一体何しやがったあ!?」
逆襲の手を逃れて跳びずさった〈オクルス〉にしてみても予想外の反応に、女剣士は構え直した剣身を見やって、さらに眉根を寄せた。
〝濡れている?〟
油でも塗ってくれたとでもいうのか? …アンゲルス神官が?
しかし、投げ捨てた鞘を一瞥して疑問が氷解する。鞘から何か液体がこぼれていたのだ。しかもそれが魔法陣の血に反応して薄煙を上げているとなれば。
「そういう事か」
合点した〈オクルス〉の反応は早かった。一足飛びに転がる鞘に飛びつくや、それをラウルスに投げ渡す。
「使え! 聖水だ!」
「……? そうか!」
一拍おいて合点したラウルスめがけて魔物の鉤爪が疾る。
「それっぽっちの聖水が何になるかよッ」
「たとえわずかでも!」
鉤爪をかいくぐって逆に間合いを詰めたラウルスは、手にした鞘を魔物に投げつけた。そして、それを薙ぎ払おうとした魔物の鉤爪よりも早く、その鞘を両断する!
「うがっ!」
飛び散った聖水の飛沫を避けようと怯んだ魔物の懐に、ラウルスが迷わず突っ込む。
「使い方による!」
聖水を浴びたラウルスの剣は魔物の腹に深々と突き刺さり、異臭放つ黒煙と絶叫を迸らせた。断末魔に振り回される鉤爪に構わず、ラウルスは渾身の力を込めて剣を振り切った。
「うおおっ!」
「ぎぃやぁぁぁッ」
ラウルスの気合に魔物の悲鳴が重なる。腹を大きく薙ぎ払われた魔物が倒れるとほぼ同時に、〈オクルス〉の対峙していた片割れの方も肩口から股間までを唐竹割りにされ、絶叫を上げた。共に絶命して倒れ伏した魔物の体は、見る間に悪臭をたなびかせながら溶けていく。その臭いにうんざりしながらも〈オクルス〉を振り返ったラウルスは、彼女が床を見つめて微動だにしない事に、浮かべかけた笑顔を怪訝げに止めた。
「〈オクルス〉?」
と、声をかけて歩み寄ろうとしたラウルスに、アクルクスが警告を発する。
「兄さん、後ろだ!」
ハッ、と振り返ったラウルスの眼前に、倒したはずの魔物が降り立った。ずしん、と地響きがしたと思った時には、ラウルスの体は弾き飛ばされていた。
「か…はっ!」
激しく床石に叩きつけられた青年の体は、そのまま大きく弾み、崩れた祭壇に受け止められた。衝撃に、なんとか原形を止めていたと燭台らが音立てて砕け落ちる。
「兄さん!」
「ラウルス!」
アクルクスとスピカの悲鳴を、現れた三体目の魔物が嘲笑う。
「げゃーっひゃっひゃ! 危ない危ない、もう少しで殺られるとこだったぜい!」
「…やはり本体は別に隠れていたか」
冷ややかにこちらを見据える〈オクルス〉に、魔物は胡乱そうに訊き返した。
「ああ? 判ってたような口ぶりじゃねえか、ええ?」
しかし嘲弄した魔物の顔が、〈オクルス〉の言葉に歪む。
「どちらにも核がなかった」
「……何者だ、てめえ」
じり、と腰を落とし、打って変わって用心深く〈オクルス〉をにらんだ魔物の眉間には、紅い玉のような物がはまっていた。それが、〈オクルス〉の言う核だろうか。しかし、嘲りも油断もなく自身の隙を狙い始めた魔物に臆するでなく、〈オクルス〉の口調は変わらない。
「お前達は実体を結ぶために核がいる。つまり、お前が本体というわけだ」
「だったらどうだと? てめえにゃもう、聖水はないんだぜ?」
応えず剣を構え直した〈オクルス〉に、魔物も口を閉ざした。
両者がにらみ合う、息詰まる場の中を誰もが動けずにいる時、アンゲルス神官が魔物の目をかすめるようにしてスピカにそっと歩み寄った。
「スピカ様、さ、今のうちにこちらへ…!」
「あ、でも…」
アンゲルス神官は、〈オクルス〉を気にするスピカの手をぐいと引っ張った。
「私達には何もできませんよ。それより、安全な所へ退がっていた方が」
スピカは、必死にそう訴えるアンゲルス神官に逆らい切れず、彼についてベンチの残骸の陰に身を隠した。すぐさまグレンが二人を庇う形で後に続き、気遣う。
「お怪我はありませんか?」
「私より、ラウルスやウィンは?」
「二人なら大丈夫です」
言われて見やれば、左半身を自らの血で染めながらもラウルスを助け起こそうとしているウィンがいた。ラウルスの方も、頭を振りながら起き上がろうとしていた。その様子に安堵の息をついたスピカの意識を、アンゲルス神官の短い悲鳴が戦いに引き戻す。
「ああっ、危ない!」
「ローラ!?」
既に膠着状態を脱し、疾る鉤爪を身軽に避ける〈オクルス〉だったが、決め手がないのか、攻撃に転じる様子がない。対する魔物は、嬲る気も失せたか、矢継ぎ早に鉤爪を繰り出し〈オクルス〉を追い詰めていく。そして遂に〈オクルス〉の背が、積み重なる残骸に突き当たった時、スピカはとっさに自分の護符を首から外し、魔物めがけて高々と放り投げた。
「ローラ! 使って!」
戦う両者が同時に飛来する護符を見上げた。と思うや、〈オクルス〉は残骸を足懸かりに魔物の頭上へと跳ぶ! ばさり、と黒革のマントが大きく翻った。
ざんっ!!
飛来した護符もろとも、〈オクルス〉の剣が魔物の眉間を貫く。
ごがああああっ!!
地響きのような断末魔の中で、魔物の眉間の紅い玉と〈オクルス〉の剣が砕け散り、澄んだ音を立てた。
ぐがあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ! おあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!
びりびりと皆の鼓膜を揺さぶりながら、断末魔を上げ続ける魔物の体は次第に凝った塊を周囲に撒き散らしつつ崩れていく。それは徐々に小さく溶け崩れ、絶叫もまた弱く、消えていった。
そして、完全に沈黙した。
「お…終わった…のか?」
グレンの、半信半疑のその言葉が、皆の呪縛を解いた。誰もが魔物の消えた床からやっとの事で視線を離し、怯えと警戒の目を辺りに走らせる。また上から、あるいは宙からあのおぞましい魔物が現れるのではないかと、身を固くする一同の耳に、ただ一人床から目を離さずにいた〈オクルス〉の静かな声が入った。
「――…ああ」
途端、すべての緊張の糸が切れた。ラウルスやウィンがどさりと床に腰を落とし、グレンは剣を鞘に収めながら大きなため息をつき、アクルクスは近くに倒れたままのネウラのそばに歩み寄る。そしてスピカは。
「ほ…本当に…? 終わったの…?」
一八年間、耐えてきた運命がここで終わった。
その年月の分、事実が頭に浸透するまで時間がかかった。そしてこみ上げてきたのは、喜びよりもまず脱力感であった。膝から全身から、どっとばかりに力が抜けていく。たまらずへたり込みかけたスピカを、アンゲルス神官が支える。
「だ、大丈夫ですか?」
「…アンゲルス神官…」
覗き込むアンゲルス神官の心配そうな顔にむしろ安堵を誘われて、スピカは思わず神官の首に抱きついた。
「スピカ様!?」
頓狂な声を上げて慌てるアンゲルス神官と、くすくす笑い出したスピカを微笑ましく見やったグレンは、思い出したように痛み始めた体を引きずり、〈オクルス〉の下へと歩み寄った。
「これが核とかいうものか?」
「そうだ」
目を落とした二人の足元に、砕け散った紅い玉のかけらがいくつか転がっている。既にそれらは光を失ってどす黒く変色していたが、〈オクルス〉はそれをさらに踵で踏み潰した。じゃり、と嫌な音を立てたそれは、徐々に陽の下の氷のようにかき消えていく。そこに、脇の方に気絶したネウラを寝かせてきたアクルクスや、互いに肩を貸し合ったラウルス達も集まってきた。それぞれに傷だらけで疲れ果ててはいたが、うっすらと笑顔さえ浮かべている。
だが、ささやかな終息感は、スピカの驚声で打ち破られた。
「アンゲルス神官!?」
驚いて皆が見やった先に、スピカを小脇に抱えるアンゲルス神官の姿があった。
「何を…? 放して!」
「いやいやいや、お見事でしたね、皆さん。まさかあいつを相手にして全員が生き残るなんて思ってもいませんでしたよ。それに〈オクルス〉殿、あなた一体どうやってあそこから抜け出してきたんです? 後学のために教えて頂けませんかね」
もがくスピカを意にも介さず、アンゲルス神官は彼女を小脇に抱えたままで拍手する。小太りの体格からは想像もできぬ膂力である。
「おかげでこちらの仕事がやりにくなってしまいましたよ。あなた方が共倒れになって下されば、一番手間が省けて助かったんですが」
「貴様…! ゼフ卿の手の者だったのか!?」
顔をしかめてみせるアンゲルス神官に、アクルクスが収めた剣を再び鞘走らせた。アンゲルス神官は、青年ににんまりと笑いかける。
「半分正解としてあげましょうか。あなたではこれ以上判らないでしょうしね」
「ふざけるなぁッ!」
怒号一閃、剣を上段に構えたアクルクスがアンゲルス神官に斬りかかった。
「スピカ様を放せっ!」
「おっとっと」
ふざけた声を上げて驚いて見せたアンゲルス神官は、あろう事か自身の正面にスピカを突き出した。
「!?」
虚を突かれたアクルクスが思わず怯んだ一瞬、何かが彼を吹き飛ばした。
と――。
皆の視界が真紅に染まった。それが、尾を引くアクルクスの鮮血と認めたときには、青年の体は後方の床に投げ出されてぴくりとも動かなくなっていた。
「い…やあああっ!」
「レオーンっ!!」
スピカとラウルス、どちらの絶叫が先だったろう。
「放して! アクルクス! アクルクス!!」
「レオン! レオン! 死ぬなッ、死ぬんじゃないっ!」
狂ったようにもがくスピカと倒れた弟に駆け寄るラウルスを、アンゲルス神官が嘲笑う。
「人の話の腰を折るからですよ、アクルクス殿。死ぬのは正解を聞いてからでも遅くないでしょうに」
「――正解?」
誰もが倒れたまま動かぬアクルクスの姿に目を奪われる中で、〈オクルス〉だけがアンゲルス神官に静かな問いを返す。
「私が刺客かどうか、訊いたのはそちらだったでしょう? どうやらこの体の元の持ち主はそうするように脅迫されていたみたいでして。ま、その点では私は皆さんの味方という事になりますか」
「ふざ…ッ!」
にやにやと、得意げに語るアンゲルス神官に飛びかかろうとしたグレンを、〈オクルス〉が左手を挙げて止める。止められたグレンは当然〈オクルス〉に何を、と食ってかかったが、返る視線の鋭さに絶句した。
「元の持ち主と言ったか?」
〈オクルス〉は、不承不承グレンが引いたのを見届けてから、再びアンゲルス神官に冷ややかな目を向けた。
「そうですよ。いやさすが〈オクルス〉殿、話が早い。どうやってあの忌々しい護符をスピカ様から外すか、思案していたのですが、それもあなたのおかげで万事解決致しました。心からお礼を申し上げます。ああ、それから」
アンゲルス神官は、剣士達を見回して忠告がましく付け足した。
「聖水も護符もない、〈オクルス〉殿にいたっては剣すらない。そんなあなた方がどう足掻こうと、私を斃す事はできませんよ。だから無駄な事はおよしなさい。何、すぐに追いつけますよ。何しろ皆さんのそばにいるためにずっと我慢してましたから、もう空腹で空腹で…。でもまあ、そのお馬鹿さんのように早死にしたいのなら構いませんけど」
「何だと…?」
腰から右肩にかけてざっくりと切り裂かれたアクルクスの体を抱き締め声をかけ続けていたラウルスの口から、抑圧された唸り声にも似た声が洩れた。ぐったりとした弟の体をそっと床に下ろし、ゆっくりと立ち上がる。
「もう一度言ってみろ。化け物め…!」
「お望みなら何度でも。とかく若者というのは、自分の分というものをわきまえなさすぎますねえ。無鉄砲と勇気の違いも判らないんですから。だから馬鹿だというのですよ、アクルクス殿は。本当は皆さんだってそう思ってらっしゃるんでしょう?」
「貴様あッ!!」
逆上したラウルスが床を蹴るよりも早く、〈オクルス〉がグレンの腰から剣を抜き去ったと見るや、上体を翻してその剣をラウルスめがけて投げつけた。その狙いあやまたず、ざくりと左太腿を斬り裂かれたラウルスがたまらず転倒する。
「〈オクルス〉、貴様ぁ…ッ」
お前もか、と――。
血走った目でにらみつけるラウルス。神官長、アンゲルス神官、そして〈オクルス〉。信じた、信じようとした者達が次々に背反し嘲弄する。もはや憤りや驚きはなく、諦めにも似た認識だけが頭の中を占めていた。それでも、にらみつけずにいられぬラウルス達の視線にいささかも動じる事のなかった〈オクルス〉が、ゆらりと動いた。
「――確かに」
アンゲルス神官からもラウルス達からも離れて歩を進めた〈オクルス〉が静かに口火を切る。立ち止まったその足元には、先程持ち主の手から放れ顧みられずにいたアクルクスの剣があった。
「その坊やは向こう見ずで短慮だ」
ゆっくりと屈み込み、剣を拾い上げる。そして、切っ先を鋭くアンゲルス神官に突きつけた。
「だが、お前にそれを言う資格はない」
「は! 我慢はしてみるものですね。まさかあなたの口からそんな科白が出てくるとは思ってもいませんでしたよ」
「そうか」
アンゲルス神官の揶揄を一蹴した〈オクルス〉が、突如一気に間を詰める。が、剣の間合いに入る寸前、アンゲルス神官の姿は抱えたスピカごと消え失せた。しかし驚愕する男達をよそに、一瞬前までアンゲルス神官のいた場に着地した〈オクルス〉は、躊躇なく体を反転させて宙に剣を走らせる。何を、とラウルスが訝しむ間もなく、悲鳴とともに斬り落されたアンゲルス神官の腕とスピカが空中から現れた。慌てて受け止めたグレンにそのままスピカを任せ、素早く体の向きを変えた〈オクルス〉の正面に、右肩を押さえたアンゲルス神官が現れる。〈オクルス〉がそこから勢いよく迸る鮮血に眉根を寄せる間もなく、アンゲルス神官が問うた。
「ど、どうして判った…?」
〈オクルス〉は答えない。だが自身に向けられた炯々たる〈オクルス〉の紅い眼光に、アンゲルス神官の形相が変わった。
「〈オクルス〉! 〈眼〉か! その〈眼〉か!」
柔和だった面差しを凶悪に歪め、アンゲルス神官が罵倒する。
「人ごときが見てはならぬものを見る〈眼〉! それがあなたの武器だったわけか! それが私の動きをとらえたというわけか! 忌々しい女め!」
答える代わりに〈オクルス〉は床を蹴った。今度は異空間に逃げ込んでも無意味と見たか、アンゲルス神官は右肩から離した左手を〈オクルス〉に向かって勢いよく振り下ろした。そこに生まれたのは、さっきアクルクスを切り裂いたカマイタチである。しかし不可視不可避のはずのそれを、〈オクルス〉は剣の一振りで薙ぎ払って見せた。それでも次々と空間の断層を繰り出したアンゲルス神官は、〈オクルス〉に追いつかれる瞬間、ぎりぎりまで引きつけておいて異空間に滑り込む。届かぬと見た〈オクルス〉は、足を止めて宙を見やった。
「これはこれは」
と、アンゲルス神官の声だけが空中に虚ろに響く。
「てっきり隻眼からきた通称と思っていましたが、そちらの意味だったとはね。持って回ったお名前ですねえ」
「…お前程ではない」
アンゲルス、天使を意味する名の魔物など、笑い話にもならぬ。だが、それが判ったところで笑う者は誰もいなかった。本人を除いて。
「おっしゃいますねえ。けれど、いかに〈眼〉を持つあなたでも私を滅ぼす事はできませんよ。私に核はありませんからね」
「知っている」
「ほ! それではどうします?」
ふぅ、と、一同からわずかに離れた場所に、歪んだ笑みを頬に張り付けたアンゲルス神官が再び現れた。そして大仰に自分の胸を押さえてみせる。
「とりあえずこの体を切り刻みますか?」
「必要ない」
「ではどうするので?」
返事はなかった。〈オクルス〉はただ、アンゲルス神官めがけて突進する。アンゲルス神官は、それを哄笑をもって受けて立った。
「はっはあ! 無駄な事ですよ! 私に実体はないんですからね!」
〈オクルス〉の剣がアンゲルス神官の胴を薙ぐ。しかし刹那、アンゲルス神官はまた虚空を渡り、〈オクルス〉の背後に出現した。その神官服がばっさりと切り裂かれ、下に覗く胸にも一文字の斬り口が刻まれている。まさに紙一重で逃れたにもかかわらず、神官は平然と笑い返した。
「お見事。まさに斬撃と言うべきですかね。しかしこうも傷つけられては、もうこの体も使い物になりませんな」
右腕を落とされ胸を浅からず斬り裂かれてなお自らの優位を誇って嘯く血塗れの男の姿に、スピカ達は背筋を粟立たせた。そして、アンゲルス神官に奇妙な光を放つ目を向けられ、思わず後ずさる。
「――やれやれ。乗り移ろうにも皆さんボロボロですし、やはりあなたしかなさそうですね、〈オクルス〉殿?」
そう笑って振り返ったアンゲルス神官の胸板に、〈オクルス〉の剣が突き刺さった。それに飽き足らず突進を続けた〈オクルス〉は、それでも薄ら笑いを張り付けたままのアンゲルス神官を肩で押すようにして、大聖堂の壁に彼を磔にする。堅固なはずの花崗岩はまるで、自ら受け入れるかのごときたやすさで〈オクルス〉渾身の剣先を深々と飲み込んだ。
それでも、アンゲルス神官の笑顔は消えなかった。
「この体をいくら痛めつけようと無駄だと申しましたでしょう? それとも、これで私を捕まえたとでも?」
「――いいや」
それは、なんと薄寒い光景だったろう。
磔になりながら綽々たる態度で嘲笑うアンゲルス神官と、剣を突き立てたまま冷然とそれに答える〈オクルス〉と。
だが、既に言葉を失い呆然と経緯を見守る他ないスピカ達の耳朶を、アンゲルス神官の哄笑が容赦なく打ち据えた。
「あーっはっはっは! 素晴らしい! 素晴らしいですね、本当にあなたという人は! その肉体、その魂! ますます欲しくなりましたよ! よろしい! あなたを次の憑代としましょう! さぞかし私を楽しませてくれるでしょうとも!」
「丁度良かった」
「何ですって?」
「私もそのつもりさ」
初めて眉根を寄せたアンゲルス神官にずいと顔を突きつけた〈オクルス〉が、凄絶な笑みを浮かべた。その左目が紅く紅く輝き、その片手が剣から離れて自分の眼帯にかかる。一気にむしり取られた眼帯の下から現れたのは。
昏く、底の知れぬ程に昏く、ちろちろと紅い光点が消え失せそうに瞬く『穴』であった。それはけして人の眼窩ではありえぬ。では。これは何だ?
「――っ!」
その正体に気づいたアンゲルス神官の歪んだ愉悦が凍りつき、一転、恐怖と絶望に塗り変わる。
「そんな、まさか…馬鹿な…!」
こぼれ落ちんばかりに見開いた目に、『穴』の底から渦巻きながら広がってくる紅い、柘榴色した光を認めたアンゲルス神官が絶叫した。
「う…わああああッ! 嫌だ! やめろ! やめてくれえええッ!!」
半狂乱になったアンゲルス神官がもがきのたうち、残る左拳でメチャクチャに殴りつけても、〈オクルス〉も剣もびくともしない。
「やめてくれッ、頼む! 嫌だ、それは嫌だ! いやだあああああっ!」
「もう遅い」
静かに最期を告げた〈オクルス〉の右の『穴』が柘榴色に染まった。それを見たアンゲルス神官は、迫る〈オクルス〉の顔を手で何とか遠ざけようと突っ張ったが叶わず、突きつけられた『穴』に吸い寄せられていく。
「ひい、い、い、い、い…っ!」
アンゲルス神官の中から、黒い煙のような何かが引っ張り出されていく。
「や、め……。い、やだぁ…あ…あ……!」
そして、ずるりと引きずり出された塊に、スピカは息を飲んだ。
〝あ、あれは…!〟
一二歳の夜、じっとスピカを見つめていたあの巨大な一つ眼――!
ひいぃぃぃぃ…っ!
もはや風鳴りとすら思う程に力を失くした断末魔を残し、一つ眼は〈オクルス〉の『穴』に完全に吸い込まれた。〈オクルス〉が剣から手を離すと、かつてアンゲルス神官であった骸が、かくりと首を折る。あの一つ目によって生きているように維持されていた骸は、既に生前の面影を微塵も止めず、かさかさと乾き切っていた。
「…ロー…ラ?」
空虚な静寂を破ったのはスピカが先だったか、それともどこからか聞こえてきたガチガチという歯の根の合わぬ音だったか。そしてスピカ達は、さらに信じがたい光景を見る。
瘧の様に全身を震わせながら立っている〈オクルス〉が、わななく手で『穴』に眼帯をあてがう。そして震える両手でようやく眼帯を締め終えた彼女は、我が身を固く抱き締め、がくりと膝をついた。離れた位置のスピカ達にさえ判る程にがたがたと震えうつむく彼女にスピカがもう一度声をかけようとした刹那、〈オクルス〉は弾かれたように天を仰ぎ――。
そしてその口から、魂切る様な絶叫が迸った。




