第十章 柘榴の封印 1
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大扉が開かれる。
髪をほどき装飾品を外し、白い簡素な一重のドレスに身を包んだスピカが、両手を握り合わせながら大聖堂へと足を踏み入れる。頭上には、通常アルコーブに収納されている大燭台が五台、すべて引き出され火を灯され昼と見紛うばかりの明るさを発していた。祭壇の上とその左右にずらりと並んだ十人あまりの神官が、紫煙をたなびかせる香炉をゆっくりと、作法に則って前後左右に振っている。その度に、彼らの手元と香炉をつなぐ細い銀鎖が涼やかな音を立てていた。他の神官達は木のベンチの間に立ち、祭文とも唱ともつかない古語を唱和して、荘厳な空気を朗々と震わせている。そして祭壇前に立ってスピカを待っている神官長の足元に、見覚えのある図形が大きく描かれていた。知らずスピカはその細い喉を上下させたが、口内がからからに干上がっているのを思い出しただけだった。代わりに大きく深呼吸をし、スピカは背筋を伸ばす。
〝そうよ、何を怖がる事があるの?〟
ここは北の大神殿の大聖堂で、神官長を始めとして三十人近い神官が参列して、儀式を執り行おうとしてくれている。ラウルス達だって、万が一の時のために今自分の出て来た戸口付近に待機してくれている。今夜さえ、この新月の夜さえ凌ぎきれば、もう毎夜の悪夢からも魔物に食われるというおぞましい運命からも縁を切る事ができるのだ。
〝でも――〟
スピカは、神官長の下に向かいながら、ちらりと周囲の顔ぶれを見回した。
〝ローラ…!〟
〈オクルス〉の姿はどこにもなかった。彼女がいない、というだけでどうしてこんなにも不安がこみ上げてくるのか。体の底から震えてくるのは何故だろう。スピカは、せっかく奮い立たせた気持ちがまたしぼんでくるのをぐっとこらえた。我ながら子供じみているとは思う。けれど、この場に〈オクルス〉がいない。それがひどく間違っている気が、した。
意識を取り戻した時、〈オクルス〉が真っ先にしたのは自身の体のチェックだった。まだ鈍痛に疼く後頭部は黙殺し、大の字に横たえられた四肢を少し動かしてみて、どこにも異常が無い事を確認する。そして、新たな戒めが両手首と両足首をそれぞれ地面に縛り付けている事も。
「……難儀な」
その上ここは神殿内ではない。濃い宵闇と冷ややかさを増し始めた微風、体の下でざらつく細かな砂の感触がそれを証明していた。
〝もうあまり時間がないな〟
半刻もしない内にここは鼻をつままれても判らぬ程の闇に閉ざされるだろう。それは、スピカの命が消える事を意味していた。〈オクルス〉は、頭を左にわずかに動かして、戒めが縄であるのを、宵闇の中にようやく見て取った。と、その左手首がごきり、と鈍い音を立てる。そして〈オクルス〉は、だらりと力の抜けた左手を無造作に戒めから引き抜き、次いで右手も同様に関節を外して自由にした。だが両手とも関節を外してしまっては、はめ直せまいという危惧はないのか、〈オクルス〉は平然としている。と見るや、〈オクルス〉はおもむろに自分の左手に噛み付き、強引に関節をはめ込んだ。数回その左手を開閉して具合を確かめながらむくりと上体を起こした〈オクルス〉は、右手の関節も簡単に戻してのける。それから足の戒めにかかろうとした動きが、不意にぴたりと止まった。すっかり陽が落ちてしまった宵闇の向こうから、複数の唸り声が近づいてくる。
「……そういう事か」
〈オクルス〉をここに磔にしていった誰かは、彼女が獣に殺される事を期待したらしい。だがそれが判ったというのに、〈オクルス〉に焦りの色は見えない。次第に近づいてくる獣の気配に、〈オクルス〉はただ静かに闇を見据えた。
ラウルスは、足音を殺して背後に戻ってきたアクルクスに、目だけを動かして首尾を問うた。
「いたか?」
「いえ…」
アクルクスもまた、小さく頭を振りながら囁き返す。
「一体どうしたんだ?〈オクルス〉の奴」
視線を儀式の方に戻して一人ごちるラウルスに、アクルクスは肩越しに詰め寄った。
「いいじゃないか、兄さん。むしろ、あいつがいない方がこっちも気が散らずに済む」
「目を離さないと言ったのはお前だぞ。それよりも、どうして姿を見せないかが気になる」
「どういう事?」
「理由は二つ。仮に〈オクルス〉が邪鬼だとしたら、いつ襲ってくる気だ? 逆にそうでなかったとして、我々の誰よりも脅威と見られた〈オクルス〉が何らかの手段で排除されたのだとしたら、残された我々だけで対抗できるのか? 〈オクルス〉が消えた後、こちらの誰も襲われなかった事を考えると、我々なぞ相手にとってはものの数ではないのかも知れん」
「それは自分達が対抗策を取ったからだろう? それに、兄さんは邪鬼がここにいると思い込んでいるようだけど、〈オクルス〉以外、それらしい人物はいないじゃないか」
「だといいんだが…」
「やっぱり神官長様のおっしゃった通りだ。兄さんは〈オクルス〉にだまされているんだよ」
前かがみになっていた上体を元に戻しながら鼻を鳴らしたアクルクスの言葉が、ふとラウルスの頭に引っかかった。
「神官長様がどうしたって?」
「兄さんが感情的になっているのなら、自分が止めなさい、と…」
「それはいつの話だ?」
ラウルスは肩越しにアクルクスを振り返ると、強い語気で弟の言葉を遮った。そしてそれがあの、彼が手を挙げてしまった口論の後と聞いて眉根を寄せる。少しの間考え込んだラウルスは、アクルクスに場を任せてウィンを手招きすると、そのまま祭壇横の出入口から大聖堂を出る。
「今の話は聞いていたな?」
「はい。確かに神官長様はアクルクスを慰めにお出ででしたが」
「いつだ?」
ウィンは、ラウルスの厳しい詰問口調に面食らいながらも、それが〈オクルス〉の解放されるほんの少し前だった事を告げた。
「馬鹿な…! 間違いないか!?」
「は、はい、間違いありません! 神官長様がお帰りになられた後すぐに、貯蔵室から上がってくる〈オクルス〉の鎖の音が致しましたし」
「そんな馬鹿な事が…!」
絶句する。その頃神官長は、〈オクルス〉を解き放ちに貯蔵庫に来ていたはずだ。それはあの時言葉を交わした自分が一番よく判っている。しかしウィンの話に間違いがなければ、神官長は同時に二ヶ所にいたことになる。そんな事が…?
〝では邪鬼が神官長様に化けてどちらかに現れたというのか?〟
ラウルスの背を、寒気と怖気が同時に駆け登った。待て。どちらかが本物だと、どうして言い切れる? 化け物なら人に化ける事も幻を見せる事もたやすいだろう。ならば、どちらも邪鬼かも知れないとは? 本当の神官長様は、とうに…。
――あんな事をおっしゃる方では…。
――こんな事をする方ではなかったのに…。
そう言ったのはアンゲルス神官だったか? ラウルス達と違い、神官長を見知っていたアンゲルス神官が、そう言っていなかったか。ここの神官達が少しずつ慣らされていった変化に、アンゲルス神官だけが気づいたのではないのか。
「隊長?」
ウィンの気遣わしげな声に、ラウルスはハッと我に返った。
「大丈夫ですか? 真っ青ですよ」
「――まずい」
「は?」
ラウルスは、訝しむウィンに構わず扉に手をかけた。が、開く寸前にちらと青年を振り返る。
「ウィン。この儀式、無事に済まんかもしれん。誰が敵でも迷わず剣を振え。いいな?」
「はい!」
部下の小気味よい返事を苦く噛み締めながら、ラウルスはそのウィンすら、いや自分以外の全員が既に化け物かもしれないのかと唇を噛んだ。
獣達の唸り声が次第に近づいてくる。だが、〈オクルス〉の手には寸鉄すら残されていなかった。身に付け慣れた暗器がすべて取り去られているのは、確かめるまでもない。それでも〈オクルス〉の鉄面皮は崩れぬまま、彼女はもっぱら足首の戒めを解く方に取り掛かっていた。しかし既に闇に閉ざされかけた視界に加え、いっぱいに広げられた両足は込めた上体の力を分散させ、思うようにならない。
「……ちっ」
小さく舌を打った〈オクルス〉は結び目から手を離すと、荒縄そのものをつかんだ。荒縄は鉄の楔に結ばれ、楔は岩盤に深く打ち込まれている。とても女、いやたとえ男であっても人一人の力でどうにかなるものではなかった。しかし〈オクルス〉は、足首と楔を繋ぐ荒縄をつかんだ両手に満身の力を込め始める。
「……っふ……く……っ!」
獣の唸り声が遂に〈オクルス〉のいる岩盤手前まで迫った。〈オクルス〉はその恐怖を忘れようとしているのか、楔しか目に入ってない。その、逃避としか、徒労としか思えぬ行動の結果がしかし、驚くべき変化を見せた。決して女の手で緩むはずのない楔が、動く。そして、目を疑う光景はまだ終わりではなかったのだ。
〈オクルス〉の前方を、ひたひたと近づいて来た金色に光る獣の目がずらりと彼女を半円形に取り囲み、それぞれが跳躍に備えて姿勢を低くし身構え、――ぎくりと凍りつく。
爛々(らんらん)と、紅く光る目が、獣達に向けられていた。否、眼光だけではない。同じく禍々(まがまが)しいまでに紅い鬼気が膨れ上がり、無力な獲物であったはずの何かを包んで獣達を威圧していた。圧倒的という言葉すら白々しくなる程の絶望的な彼我の差に、獣達は頼りなげな笛の音じみた悲鳴を上げて後ずさる。踵を返す事すらできずに耳を伏せ、ガクガクと震えながら尾を後足の間にしまい込んだ彼らの目前で、楔が抜けた。途端かき消えた鬼気に、獣達は好機とばかりに慌てて逃げ出す。そして、いっそ哀れさを催す悲鳴が遠ざかっていくのも気にせず乱れた息を整えた〈オクルス〉は、引き寄せた右足にまだつながっている楔を手に取った。
「――使えるな」
程なく、岩をこじる金属音が、山間の静寂をざわめかせた。
よどみない祭文が洩れ聞こえる祭壇横の控え室で、燭台片手のカーフ神官が何かを探している。万端を期したはずの準備に洩れでもあったのか、カーフ神官はしきりに「おかしいな」と呟いていた。
「ここに確かに置いたはずなんだが…」
あちこちをひっくり返し、かき回してようやく目的の物を見つけたカーフ神官は、その布包みを大事そうに胸元に抱いて踵を返した。その前に、一つの人影が立ちはだかる。虚を突かれてびくりとすくんだカーフ神官だったが、それが誰かを知ってホッと肩から力を抜いた。影が、聞き覚えのある声で問う。
「何をしているのですか? ここで」
「あの…、これも一緒に聖別しようかと。穢れた物ですから、このままここに置いておくのも…」
そう言って胸元から布包みを離し、中を見せようとしたカーフ神官の首が、不意にねじれ上がった。不自然なまでにねじれた首は、カーフ神官の怯えた目を見るまでもなく、自身の行動ではありえない。なのに、傍から見ればカーフが自分で首をねじ曲げているようにしか見えぬ。何故なら、誰の手もそこにかかってはいないのだから。
「…し…しんひゃんちょ…ひゃま……?」
「困るんですよ。そんな勝手に動かれては」
巨大な見えぬ腕にねじり上げられているかのようなカーフ神官の姿に動じもせず、そこにいるはずのない老人は、その顔に微笑みを浮かべたままで穏やかに言った。
「そんな物、聖別されてはこっちがたまらない。あなたには別に大事な役目があるんですよ」
「ひ…ぃ…!」
カーフ神官は、まだ手に持っていた燭台の光に、老人の目が炯々(けいけい)と紅く輝くのを、見た。それが、最期の光景だった。
ごきり、と、頚椎のへし折れる音は祭文に遮られて誰の耳にも届かず、固く絞られたボロ雑巾のように歪んだカーフ神官だった肉体は、ぐにゃりと床に崩れ落ちた。同時に投げ出された布包みから中味の一部がこぼれ落ちたが、神官長はそれを包みごと爪先で小突いて脇にやる。その縁をかすめるようにじわじわと、裂けたカーフ神官の肉体からしみ出る黒っぽい液体に初めて相好を崩した老人が踵を返した後で、一瞬だけ燃え上がったろうそくの灯りに、押しやられた〈オクルス〉の暗器が鈍く光った。
スピカが、丁寧に描かれた魔よけの図形の中心に線を消さないよう注意深く跪き、祈りを上げ始めてからどれだけの時間が過ぎたろうか。長い長い時間のようであり、実際は一瞬なのかも知れない。途切れる事無く朗々と続く神官達の祭文のせいか、香炉からたなびく香の影響なのか。次第に「考える」という、何でもない事がひどく億劫になっていた。そしてスピカは、それが変だと思うことすらないままに、意識が白濁していくのを受け入れていった。
ラウルス達もまた、延々と続く祭文に時間の感覚を喪失し始めていた。
「――いかんな」
と小さく頭を振り、麻痺しかかっているような意識を奮い立たせる。見ればウィンやグレンもこまめに体重を左右に移動させたりして集中力を持続させようとしていた。だがアクルクスだけは、棒でも飲み込んだように背筋を伸ばし、儀式を凝視している。
「アクルクス?」
ふと心配になったラウルスの呼びかけにもびくともしないアクルクスに、三人は思わず顔をしかめ合ったが、まあいいか、とそのまま自分達も儀式の方へ意識を戻した。
〝入れ込みすぎて却って厄介な事にならなければいいが〟
最後にちらと弟を見やったラウルスは、気づくべきだった。アクルクスの、そして神官達の目に宿る恍惚と、酩酊めいた光に。それが、神官長にだけはない事に。
しずしずと、彼らの足元を黒っぽい液体が這い回る。細く深く、何者かの手によってそれと判らぬ程に密やかに施された溝に沿って、音もなく着実に流れ、広がっていく。まるで何かに導かれているかのようにするすると進んでいくそれに、手鐘を振りながら図形の周りを歩く神官長の顔に刻まれていく冷笑に、誰も気づきはしなかった。
既に漆黒の闇に包まれた岩の間を、〈オクルス〉は迷う事無く疾走する。たとえ日中であったとしても己の位置を判別するにはかなりの土地勘を要するであろうに、〈オクルス〉は何を指針にしてか、闇夜をものともせず駆け抜けていく。と、その行く手にそびえていた大きな岩塊が不意に砕け、〈オクルス〉めがけて降り注いだ。間一髪飛びずさった〈オクルス〉は、息つく間もなく背後へと回し蹴りを放つ。確かな手ごたえとともに、獣のけたたましい悲鳴が上がった。だが複数の唸り声は怯むどころか、さらにじりじりと包囲を狭めてくる。異様とも言えるその様子に、〈オクルス〉はやれやれと鼻を鳴らした。
「念の入った事だ」
じゃり、と、腰を落とした〈オクルス〉の靴底で砂が鳴る。次の瞬間、獣達は一斉に〈オクルス〉へと飛びかかった。
始めに異変に気づいたのは他ならぬスピカであった。
〝冷たい…?〟
床につけた膝から、何か湿った感触が上ってくる。その感覚に、スピカの瞳に焦点が戻った。ぼやけた視界がはっきりしてくるにつけて、白かったはずのドレスに赤いものが染み上がってくるのが判る。同じく聖灰で描かれているはずの図形もまた、真紅に染まっていた。これは…何!?
「き…!」
スピカの口から悲鳴が上がろうとしたまさにその瞬間――。
「さあ、時は満ちた!!」
神官長が喜悦に満ちた声を上げたと思うや、静かにカーフ神官の血が描き上げた図形が紅い閃光を放ち、その上に立っていた神官達をベンチもろとも弾き飛ばした。悲鳴を上げて壁に叩きつけられ、ベンチに押し潰された神官達が苦痛の声を上げる。が、その呻き声は轟と巻き起こった紅い旋風と神官長の哄笑にかき消された。
「六の六の六! 六の六の六だ! 長かった! 長かったぞ、我らにとってもな!」
血で描かれた魔法陣は、その中心に立つ神官長とスピカを完全に他から切り離し、ラウルス達の接近を許さない。
「スピカ様ッ!」
「はあーっはっはっは! わしのものだ! わしだけの力だ! 長かったぞぉ!」
「し…神官長様…神官長様は!? いやっ、離して!!」
スピカは、神官長にがしりとつかまれた腕を引き抜いてなんとか逃れようと抵抗したが、老人の手は万力のように少女の腕をつかんで離さなかった。そして神官長だったものは、必死にもがくスピカに顔を寄せると、にたりと笑う。それは、これがあの厳格な面持ちをしていた神官長と同じ顔かと目を覆いたくなる程に、下卑て浅ましい笑みであった。
「あの老いぼれならとっくの昔に死んじまったよ。けけ、たいして美味くなかったけどな」
「そんな――!」
「スピカ様ッ!」
息を飲んだスピカに、ラウルスの叫びが届く。
「ラウルス!」
「おのれ、魔物め!」
皆に先駆けて抜刀したラウルスは、未だ旋風取り巻く魔法陣の中心めがけて駆け出した。一旦は弾かれながら、剣を旋風に叩きつけるようにしてじりじりと前進を開始する。
「よくもこれまで謀ってくれたな!」
最悪の推察が当たってしまった、と。推察していながら何も策を講じられなかったと、口惜しさがラウルスの焦燥をかきたてる。
「スピカ様を離せえぇッ!」
大きく剣を振りかぶったラウルスに、老人は無造作に左手を振った。途端、ラウルスは腹部に衝撃を覚えて大きく吹っ飛ぶ。
「ぐ…はっ…!」
まるで、見えない巨人の拳に殴り飛ばされたかのように、ラウルスの体はいっそおもしろい程に後方に吹き飛び、壁の岩盤に叩きつけられる。
「か…ッ…!」
あまりの衝撃に息を詰まらせそのまま床に落ちたラウルスの体は、ぴくりとも動かない。だが、思わず駆け寄るウィンや、彼らを庇う位置に立って剣を構えたグレンをよそに、アクルクスは最初の旋風に薙ぎ倒された姿勢のまま、呆然と目の前の光景を見つめていた。
〝何だ…これは…!?〟
最も信頼していた神官長が、自分を諭し励ましてくれた神官長が、認めてくれた神官長が、魔物だった!? 兄を吹き飛ばし、スピカ様を…? では、ではあれらはすべて嘘だったというのか。アクルクスを信頼していると言ったのも、〈オクルス〉が怪しいと自分達に思い込ませたのも、全部このためだったのかと。自分達を油断させて嘲笑い、スピカを手にするためだったのかと。
「う…わあああっ!!」
知らず、アクルクスは怒号を上げて駆け出していた。抜き様にした剣を、旋風の障壁に力任せに叩きつける。
「レオン…!」
正気づき顔を上げたラウルスの制止も耳に入らず、アクルクスは怒りと、そして罪悪感に突き動かされていた。
〝自分が…自分が〈オクルス〉を信じ切れなかったために!〟
こんな奴に付け込まれ、こんな事態になってしまった。
〝兄さん達を少しでも疎んじたばっかりに!〟
意固地になって彼らの言葉に耳を貸さなかったから。だから、神官長の振りをした魔物なんかにそそのかされてしまった。
仕方が無い事だなどと、そんな綺麗事で済ませるわけにはいかなかった。自分がどれだけ未熟か、思い知らされた羞恥に、アクルクスは何度も剣を障壁に叩きつけた。
「ちくしょう、ちくしょう!」
「レオン…」
泣いているような弟の背中を痛ましげに見ていたラウルスの目に、再び手を挙げようとする老人の姿が映った。
「危ない! レオン!」
だがその警告は間に合わず、またも見えぬ拳がアクルクスを殴り飛ばす。
「レオン!」
アクルクスの体は大きく宙を舞い、ベンチの残骸の中に叩きつけられた。舞い散る木っ端に、青年の姿が埋まっていく。
「レオン!」
「…う……!」
かすかに洩れた呻き声にひとまず生存を確認できたものの、それがラウルス達の怒りをやわらげる訳もなく、むしろ敵愾心を掻き立てられた剣士達が揃って剣を構え直したのを見た老人は、酷薄な笑みを浮かべた。
「なるほど、どうあっても死にたいらしい。いいだろう、相手ぐらいしてやるよ」
その言葉の後半が、二重に聞こえた。すぐ脇で、と悟る間もなく、ウィンが悲鳴を上げる。
「ウィン!?」
「だ、大丈夫です! 危ない!」
振り返ったラウルスに自身の鮮血に塗れたウィンが放った警告は、すんでのところで間に合った。とっさに構えたラウルスの剣に激しい衝撃が叩きつけられる。
「何だと!?」
なんとか踏みとどまり、改めて認めた敵の姿に、ラウルスばかりか他の三人も目を疑った。思わず魔法陣の中と外を見比べる。
「神官長が二人…?」
そう呻いたラウルスの言葉通り、魔方陣の中と外の二ヶ所に、寸分違わぬ老人がいた。いや、ラウルス達の眼前に立つ老人の両腕は不自然なまでに長く、硬質化し、床にまで達した先端は三本の鉤爪状になっている。その片方はまだ、ウィンの鮮血を滴らせていた。
「どちらが幻だ?」
「どちらも本物さ」
臍を噛むラウルスを嘲り、二人の神官長が異口同音に答える。そのどちらもが、耳まで裂け上がった口を歓喜と哄笑の形に歪めていた。
「さて、あいつらをゆっくり見物しながら食らわせてもらおうか」
「誰が!」
スピカは、嬲るように顔を近づけて吐息を吹きかける老人を気丈ににらみ返すと、自由な左手で、もしものために忍ばせていた短剣を鞘走らせた。だが、見事に顔を切り裂いたと思ったのも束の間、ぱっくり裂けた傷口が瞬時に癒着し、塞がる。
「そんな…」
「ただの鉄剣が効くものか。無駄な足掻きだ。それともまだ誰か助けに来てくれるとでも思っているのか?」
ぐい、と腕を引かれて見せつけられた、ラウルス達の苦戦に、倒れたままのネウラや神官達の姿に、スピカは落胆する事なく再び老人をにらみつけた。
「ローラが来てくれるわ! まだローラがいる!」
だが、スピカの必死の反論は、哄笑に遮られた。
「あいつか! あいつかよ!? 残念だったなあ。あの女なら今頃獣共の腹の中だろうぜえ!」
言い放った老人の頭が大きく変貌する。ぐにゃりと上下左右、不気味に歪み膨らみがばと開いた口の中に、鋭い三角の牙が何重にもずらりと並んでいた。
「お前もわしの腹に収まんなあ!!」
迫る、鮫を思わせる巨大な顎に、ついにスピカは悲鳴を上げた。
「ローラぁっ!」




