第八章 惑い 2
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またも近づいてくる足音に、〈オクルス〉はゆっくりと目を開けた。体は既に復調し、今は穀物袋に背中を預けるように座っている。そのため、灯りが先程の神官見習い達と違ってまっすぐに、ためらいなく近づいてくるのが見て取れた。
〝では神殿関係者ではないな〟
という予想は違わず、姿を現したのはラウルスだった。今度はろうそくではなく野営用のランプを手にしている。数本のろうそくよりずっと明るいその眩しさに〈オクルス〉が目を眇めるのにも構わず鉄門に歩み寄ったラウルスは、その場にどかりと腰を下ろした。
「――そういう事か」
「何がだ?」
いきなりの切り口上に、〈オクルス〉は平然と訊き返した。その、取り付くしまもない返事に眉根を寄せ、ラウルスは鉄格子にずいと迫る。
「さっきお前が言っていた事だ。確かに何かがおかしい。何を知ってて隠している?」
「……」
〈オクルス〉は、無感情な視線をラウルスに向け、彼がしびれを切らす寸前に重い口を開いた。
「何か、とは?」
「とぼけるな! スピカ様やレオンの様子がおかしいのを知っていたな!? 何だ? 何がある!?」
激情のままに鉄格子をつかんで揺するラウルスをじっと見つめ、〈オクルス〉はなおも重ねて問う。
「何があった?」
「貴様…! くそっ、ああ教えてやるよ! スピカ様は妙に苛立っておいでだし、レオンはスピカ様に手を挙げようとするし、馬はまだヒスを起こしてるし、俺だって…!」
ラウルスはつかんでいた鉄格子から手を放すと、今度は力なくそれに拳を当てた。
「ちくしょう…! 感情の抑制がうまくいかないんだ。一体何が起きているっていうんだ? あんた、何か知っているんだろう?」
〈オクルス〉は、打って変わってうなだれるラウルスを静かに見つめ続けた。その沈鬱な沈黙にたまらず、大声を上げるラウルス。
「〈オクルス〉!」
「――…確かにあんたらしくないな」
ようやく口を開いた〈オクルス〉は、目を伏せため息をつくと、再びラウルスを見やった。
「だが簡単にどうこう言える事でも、何かできる事でもない」
「それは俺が判断する」
静かに見つめる〈オクルス〉の視線を真正面から受けてたったラウルスの、頑として譲らぬ様子に、〈オクルス〉はまた吐息をついた。
「瘴気、と言えばいいか。アンゲルス神官の話は本当だって事だ」
「何を…?」
訝しむラウルスの目の前で、紅い光点がぽつんと一つ、一瞬だけ輝いた。
「ここは『邪鬼の穴』の真上だ」
「ば…馬鹿な事を…!」
強張った笑いで流そうとしたラウルスに、〈オクルス〉が重ねて言う。
「子供の夜話には真実が含まれているものだ。まあ信じられないだろうが、それは聞いてから自分で判断するんだろう? あのお姫さんが自分で言った通りの立場なら、当然それを狙う連中が集まってくる。あんた達はその瘴気に当てられたのさ」
目を見開き絶句するラウルスに、〈オクルス〉はやはりな、と内心鼻を鳴らす。スピカの話があったとしても、こんなヨタ話にしか聞こえないものは俄かに信じてはもらえない。立場が逆であったなら、〈オクルス〉でも眉を寄せただろう。しかし、思案気な沈黙の後でラウルスが発した言葉は、〈オクルス〉の予想から外れていた。
「それで、どうしたらその瘴気を防げる?」
「――できる事はない、と言った」
「だが何かあるだろう!? 現にあんたにはその影響がないじゃないか。少なくとも俺にはそう見える。頼む、教えてくれ!」
「――…悪いな」
短い謝罪だった。それだけに、ラウルスの付け入る余地はない。青年の頭が、鉄格子に押し付けられながら前に垂れていく。
「では俺達に…俺達ができる事はないのか…ッ?」
消沈し、石の床に落ちた視線の端に、ふと、すり切れかかった木の盆とそこに乗った食事が映った。
「これは…?」
無言でラウルスの視線を追った〈オクルス〉が、ああ、と軽く頷いた。
「さっき見習い達が持ってきた」
「…で、どうしろと?」
ラウルスの声に、ほんの少し笑いの色がちらつく。受けて、〈オクルス〉はわざとらしく体を揺すって鎖を鳴らした。
「まあ気持ち、といったところだ」
上半身を鎖で縛られた〈オクルス〉にそれをどうする事もできないのは誰が見ても一目瞭然だが、かといって給仕をする程に度胸があるわけもなく、見習い達は恐る恐る食事をそこに置いて逃げ帰ったのである。その様子を想像して、ラウルスが短く笑った。そして、呟く。
「気持ち、か。そうだな」
募る不安も皆をまとめる気苦労も、気の持ちようで何とでもなる。現にこれまでそれらをきちんと制してきたのだから。そんなラウルスの胸中を読んだか、〈オクルス〉が頷いた。
「今は、な」
不意に、ラウルスは鉄格子を打った。見やった〈オクルス〉には、その手がやり場のない怒りに震えているのが見て取れる。
「情けない。気の持ちようだと? それしかできないのか…ッ」
「それだ」
「何?」
〈オクルス〉は、怪訝そうに顔を上げたラウルスをじっと見つめて言った。
「そうやってどんな感情も陰の方へと増幅しながら引き寄せる。それが瘴気だ。だから、極力感情を殺す他に手はない」
「だから…」
お前はいつも鉄面皮なのかと言いかけて、ラウルスはその言葉を飲み込んだ。それだけではないような気がして、訊いてはいけないと不意に寒気がして、ラウルスはごくりと喉仏を上下させる。それとも、こんな風に懐疑的に考えてしまうのも瘴気のせいなのか?
「――だから考えるなと言っている」
〈オクルス〉の、珍しく苦笑の窺える声に、ラウルスはハッと我に返り、疲れたように頭を振る。
「…なんてこった」
次いでぐったりと額を押さえた。
「頭がおかしくなりそうだ」
〈オクルス〉は応えず、また顔を自身の正面に戻して闇を見つめた。ラウルスには言わなかったが、冷静な彼でさえ瘴気の影響を受け始めている。という事は、それなりの相手が出張ってきていると見て間違いないだろう。
〝難儀な…!〟
好き好んで係わり合いになりたい相手ではないというのに、何かにつけてついて回られるのには辟易する。だから何か事が起きる前にここから出立しようとしたのに、一歩後手に回ってしまった。だがあの時抵抗をしなかったのは、スピカの存在を無視できなくなったからと認めざるを得ない。どういった形にしろ、自分の意志で別れられないのなら、彼女とは何らかの絆めいたものがあるのだろう。そう考えると、出会った事そのものが既に発端として組まれたものだとさえ思えた。――いや、違う。〈オクルス〉は知らず目を伏せ、自身の言い訳を否定した。スピカが明るく振舞う程に感じた不自然さが気になったから、自分は彼女の警護を引き受けたのだ。必死で幸せであろうとしているその姿のぎこちなさに、生きる事に貪欲であろうとする少女の強さに、好感を覚えたからこそ。
物心ついた頃から目の前にあった「死」をスピカがどう受け止めてきたかなど余人に計りきれるものではないが、一種諦観めいたものに囚われただろう事は想像に難くない。しかしあの気丈な少女は周囲に心配をかけまいと、自棄を起こすでなく自己憐憫に陥るでもなく、立ち向かおうとしている。そのわけを知ってなお、スピカをはねのけるだけの冷酷さは――残念ながら――〈オクルス〉にはない。そして何より、この処遇には、明確な〈オクルス〉への敵意が感じられる。「かもしれない」という不安ではなく、確実にこちらに狙いを定めた上での事のような気がする。だとしたら、やはりここでケリをつけておかねばならない。
押し黙り、それぞれに思案に暮れていた二人の耳に、階段を降りてくる複数の足音が届いた。期せずして同時に訪問者の方を見やった〈オクルス〉とラウルスは、そこに数人の神官を従えた神官長を認めて訝しむ。
「神官長様?」
ラウルスの怪訝そうな呼びかけに一瞬どきりとしたか、足を止めた神官長は詰めた息を吐き出した。
「ラウルス殿でしたか。失礼、考え事をしていましたので少々驚いてしまいました。ここにおいでとは思いませんでしたもので」
「何かあったのですか?」
というラウルスの問いに、神官長は重いため息を返した。
「スピカ様の事です。あのように苛立っておいででは禊になりますまい。かといって〈オクルス〉殿をただ自由にすれば今度は神官達が不安に駆られてやはり儀式に差し支えるでしょう」
もう一度ため息をついた老人は、背後の及び腰の神官達を伴って二人の剣士のそばへと歩み寄った。それから肩越しに目配せをすると、それを受けて前に進み出た神官に場所を譲る。もったりとした液体が半分程入った小瓶と鍵束を手にしたその神官は、努めて〈オクルス〉の方を見ないようにしながら彼女を戒めている鎖の錠の前にかがみこむと、その鍵穴にまず、持っていた小瓶の中味を数滴垂らした。それからその錠前を左右上下に傾けてから、鍵束の中の一本を選び出して差し込む。長くその役目を忘れていた錠前は注ぎ込まれた油の力を借りて、ざりざりと耳障りな音をたてながらもゆっくりとその口を開けた。黙ってその様子を見ていた〈オクルス〉が神官長を一瞥する。だが、〈オクルス〉からの視界を塞ぐかのように、立ち上がった神官がその前に被さり、神官長の姿を隠してしまう。代わりに、閉ざされていた鉄門がまた軋りながら開かれた。
「さ、出なさい」
「……」
〈オクルス〉は神官長の真意を量るかのように、再び現れたその顔を見上げたが、再度促されて重い腰を上げた。平生とは比べるべくもないものの、とても上半身を鎖で固められている者には思えぬ滑らかさで立ち上がり鉄門の奥から出てきた〈オクルス〉に、神官長は苦い笑みを向けた。
「申し訳ないが、これしかないのでね」
奇妙に表情が歪んで見える老人の後ろで、壮年の神官がじゃらりと細い鎖を取り出した。
同じ頃、自室に割り当てられた部屋の質素な寝台に腰を下ろしたアクルクスは、戻ってきてからこっち、ずっと頭を抱えたままぴくりともしていなかった。
〝どうしてあんな…〟
無礼な口論になってしまったのか、スピカに対して手を挙げるような事になってしまったのか。兄に手を挙げさせてしまったのか。いつもなら止められて厳しく叱責されるまでの事なのに。もちろん、殴られて当然の無礼を働いてしまった事は痛感している。だから、どうしてそんな事をしてしまったのかと、アクルクスは頭を抱え続けていた。
〝こんなはずじゃない、こんなはずじゃ…!〟
任務の困難さも深刻さも関係ない。ただ、スピカやラウルスとの絆が揺らぐ事だけは絶対にないはずだった。それなのに、自分はスピカを怒らせラウルスを失望させて、結果、二人に合わせる顔をなくしてしまった。どうしてこんな事になってしまったのだろう。一体どこから狂い始めてしまったのだろう。この旅に出るまでは、サクスの街では――。
ふと、かすかな寒気を覚えて、アクルクスはぞくりと身を震わせた。今何か、崖っぷちのそれにも似た妖しい浮遊感に捕らわれそうになったと思うのは、何もない闇の中に落ちそうに感じたのは、気が滅入っているからだろうか。
〝――バカな!〟
アクルクスは、そう考えてしまう事こそ滅入っている証拠だと自己の不安を一蹴したが、その両手はしかし、強く金の髪を握り締めていた。
静かなノックが彼の注意を引いたのは、丁度その時だった。
「ウィン?」
そう誰何したアクルクスの声は自分でも驚く程しわがれていたが、すぐに応えのない方に軽く舌打ちした青年は、構わず続けた。
「何してるんだ? 用があるならさっさと入ってこいよ」
「失礼」
そう応じて入ってきた人物に、アクルクスは慌てて直立した。
「神官長様」
同刻地下にいるはずの老人が、静かに部屋に入ってくる。そして神官長は、鷹揚に手を挙げてアクルクスに腰を下ろすように促した。アクルクスが、言われた通り元のように寝台に座り込むと、神官長はそのそばに歩み寄った。
「話は聞きました。たいへんでしたね」
「いえ…」
アクルクスは老人を正視できずに目を反らす。
「自分の方こそ、ここで争い事は起こさないと約束しましたのに…」
「そうでしたね」
と、老人が浮かべた笑みは、苦笑と呼ぶには寒々しかった。
「ですが、実際先に手を出したのは神の御名と御家名にかけて誓ったはずの兄上だとか。なら悪いのはあなたではありませんよ」
聞こえるはずのない言葉を聞いて、アクルクスは思わず神官長の顔をまじまじと見つめた。自分は悪くない? まさかそんな、では悪いのはラウルスだと? そんなはずはない、いつだって正しいのは兄で、間違って情けない思いをするのは自分と決まっている。
「――ずっと、そう考えていたのですか? ラウルス殿の影から出られないと?」
ハッと口元を押さえたアクルクスの顔が見る見る赤く染まる。口に出していたなんて! だが神官長は恥じ入るアクルクスの肩にそっと手を置くと、気にする事はないと首を横に振ってみせた。
「あなたはあなたですよ、アクルクス殿。あなたがラウルス殿に縛られる事はないし、ラウルス殿だって過ちを犯す事はあります。大切なのは、その過ちを認めて正すことです。もしラウルス殿がそれに気付いていないのなら、それを教え導いてあげられるのはあなただけなんですよ」
もし、言葉や声が目に見えるものだとしたら、清廉なものであるはずの神官長のそれに何か、別のものが巧妙に溶け混じっていたのが見えたかもしれない。しかしそれはありうべくもなく、アクルクスはその言葉に考え込んだ。
「兄さんの間違いを自分が…?」
足元の床を見つめて呟くアクルクスに、神官長はなおも優しい言葉をかける。
「そうですよ、兄弟なら当然でしょう? さ、よく考えてみなさい。いつからおかしいと思いますか?」
いつから?
神官長の言葉は、彼が部屋にやってくる前のアクルクスの思考にたやすく達した。そしてアクルクスは、先程無意識に踏み止まったその先にあった名をこぼす。
「――…〈オクルス〉…」
口に出してみると、何て簡単な答えだったろう。それもこれ以上のものはない、完璧な答えだった。
「そうだ、〈オクルス〉が現れてから皆おかしくなったんだ…!」
彼女と会った翌日に、初めて襲撃があった。それから頻繁に刺客に襲われ、再会した兄とは意見が対立してばかりいる。ラウルスは〈オクルス〉の肩ばかり持って、アクルクスの言う事などかけらも聞き入れたりしない。故郷にいた時はそうじゃなかったのに。その証拠に、〈オクルス〉がいなかったサクスの街では何の問題もなかった。ラウルスともうまくいっていたのに。何もかもあいつが現れてから悪い方へ悪い方へと流れていってしまっている。あいつの、〈オクルス〉のせいで。
「いいえ」
と、またもアクルクスの胸中を見抜いた神官長は、驚いて顔を上げる青年に頭を振ってみせた。
「彼女を責めてはいけない。〈オクルス〉殿とて好きで不和の種を撒いたわけではないでしょう」
「ですが――!」
「気持ちは判ります。しかし起こってしまった事を責めても詮無いでしょう。それよりも、これからの事を考えなければ」
「これから…?」
「あなたも知っての通り、〈オクルス〉殿をその…幽閉してからスピカ様が少々苛立っておいでです。このままでは儀式に差し支えるため、いささか不本意ではありますが〈オクルス〉殿を貯蔵室から出す事にしました」
「〈オクルス〉を!?」
思わず腰を浮かせたアクルクスへ、執り成すように手を挙げた神官長はもちろん、と付した条件を述べた。
「剣はアンゲルス神官預かりのまま、手を鎖で縛って、という妥協策のもとにです。彼女の真偽はともかくとして、とにかくスピカ様達と神官達の両方を治めるにはこれしか思いつかなかったんですよ」
老人は、気疲れしたような長いため息をついた。その吐息の重さに、アクルクスは殆ど反射的に直立し、踵を打ち鳴らす。
「ご安心下さい、神官長様! 自分の命に代えても〈オクルス〉の好きにはさせません!」
神官長はアクルクスの勢いに気圧され目を丸くしてから、自身の肩の力を抜いた。
「まあ、あまり無茶な事はしないように」
苦笑まじりにそう言い残して部屋を出た神官長は、後ろ手に閉めたドアに、少しばかり寄りかかるように立ち止まった。わずかにうつむいた老人の顔にうっすらと笑みが浮かぶ。けれどそれは、ぬたり、と表するのが精一杯の、奇妙に歪んだ満足の笑みであった。そしてそれは、彼に言われて話が終わるのを少し離れた位置で待っていたウィンの声にかき消える。
「神官長様」
「待たせましたね。もう大丈夫ですよ。アクルクス殿はすっかり元通り、頭も冷えたようですから」
「そうですか」
安堵の言葉が思わず口をついた。
「正直、どうやって慰めたものか考えつかなかったものですから。神官長様のおかげで助かりました」
そう言って頭を掻くウィンに一礼し、神官長は自分の執務室の方に歩き出した。
神官長がウィンの前から立ち去った頃、貯蔵室への階段から、また鎖の音が聞こえてきた。違いは神官長が先頭に立っている点と、チャラリチャラリという軽い金属音が降りていくのではなく上がって来る点だ。今度は細い鎖で前に手を縛られた〈オクルス〉の首には、スピカのものとよく似た魔封じのメダルが懸かっている。だがそんな扱いを受けているにもかかわらず、彼女の前後を挟むように進む神官達より泰然として見えるのは最早役者の違いとしか言えない。その歩みがわずかなりと止まったのは、主廊下に達して外の明るさに目を細めた時だけだった。
午後の刻限を大きく回っているのを十分承知していた一同は、〈オクルス〉とラウルスを自室ではなくスピカが既に禊を受けている奥の聖堂へと向かった。
「くれぐれも言っておきますが」
神官長は、黙って後ろに従っている二人の――いや、〈オクルス〉を振り返りながら釘を刺した。
「ただの禊ではありません。手も口も出してはなりません」
「――ああ」
揺るぎなく神官長を見返しながら、〈オクルス〉は言葉少なに答えた。
「判っている」
す、と細められた目の奥で、燠火のような紅い光が揺らめいた。




