第七章 蠕動(ぜんどう) 2
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ざわめく神官や神官見習い達を日常業務に送り出した後、神官長はスピカ達を伴って部屋に戻った。カーフ神官は、『沈黙の行』に入ると同時にスピカらの世話役も辞し、普段の仕事に戻っている。室内には、神官長とスピカ達来訪者だけが集っていた。神官長は客人達を向いて執務机に座り、スピカはその正面にラウルスが動かした椅子に腰掛けて彼と相対している。他の者は少女を囲む様に立ち、グレンとウィンが戸口付近に待機した。この部屋に場所を移してから幾許かの時間が経っていたが、まだ誰も口を開こうとはしない。神官長はスピカの静かな怒りの視線を、スピカは神官長の穏やかだが厳格な眼差しを、微動だにせず受け止め合っていた。だが、こうしていつまでもにらみ合っていても埒が明かない、と口火を切ったのはやはり神官長であった。
「――お腹立ちはごもっともだと思います」
老人は、ふう、と疲れた吐息をついた。
「ですがお互いの立場をご考慮頂ければ納得して…」
「納得できません」
静かにきっぱりと、スピカは神官長の言葉を遮った。堂々と胸を張り、まっすぐに老人を見据えて続ける。
「そもそも、何故ローラを邪鬼などとお考えになったのですか? 彼女が一体何をしたというんです?」
「まだ何も、とお答えすべきでしょうな。しかし、昨夜遅くカーフ神官がこう訴えてきたのです。彼女の目が暗がりで血の色に光った、と」
スピカばかりか、ラウルスまでが表情を強張らせた。
悪夢を見ていた自分を揺すり起こしてくれたあの時。
昨夜、暗闇の中で振り返ったあの時。
それぞれが記憶にある〈オクルス〉の紅い目を思い出し、どきりとする。しかし気付かなかったのか、神官長はただため息をついた。
「無論それだけで彼女を邪鬼だと決めつけたわけではありません。むしろ、短慮に走らず、私の指示があるまで何もしないようにと言っておいたのですが。そうでしたね? アンゲルス神官」
いきなり同意を求められたアンゲルス神官が渋々頷く。集まった視線から少しでも逃れようというのか、しっかと〈オクルス〉の剣を抱き締めたまま、もぞもぞと体をよじる。無理もない、不本意とはいえそんな話が出ていた事を黙っていたのだ、スピカ達に負い目を覚えたのだろう。だがスピカは、うんざりしたといった感で左右に頭を振りながら神官長に向き直った。
「それなら何故昨夜の内にそう教えて下さらなかったのです? そうすれば私からローラに…」
「逃げろ、と? 失礼、もし彼女に知られれば逃亡される惧れがありました。いや、それならまだしも、貴女に襲い掛かっていたら? 準備も何もなしではあまりにも危険だったのです。真偽を確かめるためにも」
「で、ですが、ローラがもしそうだったとしたら、ここに来るまでにいくらでもチャンスはありましたわ! でもローラは逆に、命懸けで私達を守ってくれたんです!」
「時期を待っていたのかもしれませんよ。この意味はお判りですね? それに、他に渡したくなかっただけかもしれません。まあそれは穿ちすぎと見ても、どうです? 彼女はここに来てから何か変わった事をしたり言ったりしませんでしたか?」
最後の一言に、スピカが反論を飲み込んだ。昨夜いきなり別離を告げた〈オクルス〉。でもそれは…。そうだ、もし〈オクルス〉が邪鬼だとしたら、どうして今別れを告げる? このままここにいた方が彼女に有利のはずだ。それなのに出て行くと言ったのだから、〈オクルス〉が邪鬼のはずがない。
「いいえ」
スピカは、きっぱりとそう告げ、神官長をじっと見つめた。
「それに、ここに来るまでにも、です」
「そうですか」
受けた神官長の声音も冷静である。
「ですが、私としても一神官の戯言と一蹴するわけにもいきません」
「馬鹿馬鹿しい。あれは単に灯りが反射しただけですわ」
「あれは? では貴女も御覧になった事があるんですね? それに、そちらの剣士殿も」
神官長の一瞥を受けて、ラウルスは即座に表情を消した。〈オクルス〉並とまではいかなくとも、考えを気取られる事はない。まったく、油断のできない御仁だ、とラウルスは鉄面皮の下で苦い笑いを浮かべた。気付かなかった振りをしてちゃっかりこちらの様子を見て取り、その心情あるいは考えを読み取っている。それは聖職者のものというより軍師のそれに近いものだ。だがどちらにしろ、上位に立ち部下を統率するという点では必要な才ではある。ならば、とラウルスは、実に軍人らしく感情と表情を遮断して神官長を見つめ返した。彼から思ったような反応が得られなかった神官長は、気落ちした様子もなくスピカに視線を戻した。
「確かにおっしゃるように、単なる光の反射に過ぎなかったのかもしれません。それに、カーフ神官があのような行動を取ったおかげでもっと判らなくなってしまいました。ですが、これで彼女を放置できなくなってしまった事も事実です。不幸中の幸いと言うにはいささか後味の悪いものではありますが――」
と神官長は立ち上がり、ゆっくりとした歩調で窓際――スピカ達の左側――へと歩いていくと、外を眺めやった。山頂近くの澄んだ空気は、明るい日差しを乱暴なまでに伝えている。老人はその眩しさに目を細めながら、外を見やったまま続けた。
「我々の危惧が杞憂でない事が、図らずも証明されたわけです」
「そんな…!」
「それはいささか早計ではありますまいか、神官長様」
絶句するスピカに取って代わるような形で、ラウルスが初めて口を開いた。非礼を詫びた上で、自身の懸念を述べる。
「〈オクルス〉は確かに聖水に怯みましたが、仮に自分であってもあのように不意を突かれれば少しは怯みます。聖水を浴びたからといって別に角や尻尾が出たわけじゃなし、決めつけは正常な判断を狂わせるかと存じます。――カーフ神官のように」
「ほう」
静かに頭を巡らせた神官長の顔は逆光で見えない。しかしその声音から、わずかなりと気分を害したのは窺えた。
「スピカ様をお預かりしている以上、こちらとしては少しの不安要素も捨ててはおけません」
「それはむしろ軍人たる我々の考え方ですね。疑わしきは罰せず、というのがそちらの本来あるべきなさりようではありますまいか?」
ラウルスの背後でアンゲルス神官が大きく何度も頷いている。それを目にしたのか、老人の口調に苦々しさがにじんだ。
「私とてこんな事はしたくはないのです。しかし今はありとあらゆる危険を排除しなくてはならない。どうかそれをご理解頂きたい」
「それは一体どういう事ですか?」
という、ラウルスの訝しげな問いは、スピカが席を立った事で宙に消えた。
「――もう結構です」
その声音は、打って変わって固く平淡であった。
「いつまで論じていても無駄ですわね。私も、自分の考えに従わせて頂きます」
「御身に何が課せられているのかを、どうかお忘れなく」
静かに退室していく少女の背に、神官長の穏やかな警告が投げかけられた。
グレンが神官長室のドアを閉めるのを待ってから、アクルクスは一歩先に行く兄の肩をつかんだ。
「一体どういうつもりなんだ? 兄さん」
押し殺した声で耳元に囁く弟に、ラウルスはぴくりと苛立たしげに片頬をひくつかせたが、同じく押し殺した声で答えた。
「あいつはハメられたのかもしれないって事だ。偶然にしちゃ出来すぎている」
「ハメられた? まさか!」
「その話は後だ。――スピカ様、どちらへ?」
ラウルスは、アクルクスをかわして前方の少女を呼び止めた。スピカは足を止めると、ラウルス達を振り返った。
「ローラに会いに行きます」
「ですが、一体どこにいるのか…」
「アンゲルス神官がご存知のはずです」
「しかし…」
快諾できぬラウルスを、スピカがにらんだ。
「危険だ、なんて言葉は聞きたくないわ。彼女が今まで守ってくれた事は動かせない事実よ。私は恩を忘れて自分だけ安穏としていたくはないし、しないわ」
そしてスピカは、二の句が告げずにいるディーガル兄弟をよそにアンゲルス神官を呼ぶと、貯蔵室への案内を請う。一瞬ためらいはしたものの、すぐに首肯したアンゲルス神官は、すぐにどこからか火のついたろうそくを持ってくると、一行を貯蔵室に案内した。
階段を降りてくるかすかな足音に、〈オクルス〉はハッと正気づいた。まだ思うように動かぬ体をいざり、なんとか上体を起こして穀物袋に背中を預ける。誰であれ、弱っている姿なぞ見せるわけにはいかない。ふう、と息をついて気持ちを切り替えるとほぼ同時に階段から姿を現したのがスピカ達と知って、〈オクルス〉は視線を正面の暗がりに戻した。
「ローラ! ひどい、大丈夫?」
「何か用か」
衣擦れの音で、少女が鉄門前に膝をついたのが知れる。そしてこちらの返答にアクルクスの、「この…ッ!」という押し殺した罵声が返ったのに、今の不調が彼らに伝わっていない事を確認して、〈オクルス〉は密かにホッとした。先程よりはマシになっていても、完全に復調するにはもう少し時間がかかる。せめてあと一刻もあれば…。だがスピカは、〈オクルス〉の望みとは逆にいっかな立ち上がろうとせず、鉄門にすがりつくようにしてうなだれた。
「ごめんなさい。私が昨夜引き止めたりしなければ貴女をこんな目に遭わせずに済んだのに…。ごめんなさい」
〈オクルス〉はちらと右を見やった。そして、少女がすがりついた姿勢のまま動かないのを見て取って、疲れた息を吐く。
「別にあんたのせいじゃない」
「でも…!」
そこに、ラウルスが割って入る形で問い掛ける。
「何故あの時膝をついた?」
「――〈眼〉にしみたんでね」
皮肉めいた口調でそう返した〈オクルス〉に、ラウルスが近づいてきた。スピカの横で、鉄門に左腕でもたれかかるようにして〈オクルス〉を見下ろす。
「なるほど」
アンゲルス神官がありったけのろうそくに火をつけて回ったおかげで、〈オクルス〉からも二人の表情は何とか見て取れる。ラウルスの口調は、表情と同じく怪訝そうなものだった。
「その目に、ね。〈オクルス〉、お前さんやっぱりハメられたのかもしれんぞ」
ラウルスは、不審げに顔を上げる〈オクルス〉に頷いてみせてから、ずっと気にかかっていた点を説明し始めた。
「出来過ぎているとは思わなかったか? あんたに疑いを持っていたカーフ神官が祭礼の当番で、しかも聖水を運んでいた上にあんたの右側から近づいて転んだ。まあ転んだのは本当にしても、役者が揃い過ぎているような気がしないか? あの後何気なく他の神官に訊いてみたんだが、別に誰が何を片付けるか決まってないそうだ。それに、今日はカーフ神官の当番じゃないともな」
「――誰かの指図だと?」
「今のところ断言はできないがね。だがあんたの目の事まで計算して右から近づいたんなら、結構な策士だとは思わないか? その上カーフ神官は『沈黙の行』とやらで口をふさがれた。本当のところは誰にも判らん。あれが本物の聖水だったかどうかもな」
「――…似てない兄弟だ」
「うん?」
わずかな苦笑の色が窺える〈オクルス〉の言葉に、ラウルスは片眉を上げ、次いで小さく肩をすくめた。
「まあ、こればっかりはな」
〝経験の差か…〟
〈オクルス〉は、まだ気を緩めると崩れそうな意識で彼の言葉を補った。前に彼女を穿ちすぎると評した青年の兄が、こうだ。対照的ですらある。
「じゃあ毒でも入っていたと言うの? ラウルス」
震える声音でスピカがラウルスを見上げながら尋ねる。だがラウルスは、軽く頭を振った。
「それはないでしょう。ですが塩一つまみ、柑橘類の汁を少量でも加えれば十分ですよ。味はしなくとも古傷にはしみる」
「いや…」
小さく、〈オクルス〉が呟く。だがその先は語られず、スピカとラウルスは顔を見合わせ、後が続かないのを察して諦めた。
〝あれは多分本物だ。だが…?〟
力が根こそぎ吸い取られるような気がするのも右の眼窩だけで、他に聖水を浴びた部分は何ともない。だからこそ、本物だろう。〈オクルス〉はまた、視線を正面の木箱へと向けた。こうなると、スピカ達に向いているのは長い髪に隠れた右の顔でしかなく、誰にもその反応は読み取れない。
「――…ローラ。それに皆にも、聞いてもらいたい事があるの」
衣擦れ一つしない静寂の中そう切り出したスピカの声は固かった。そして少女は、鉄門を握りしめながら、訥々(とつとつ)と話し始めた。
「私は、『鍵』なの」
最初にそれが周囲に現れたのはスピカが六歳の誕生日を迎えた日だった。この日のために誂えた赤いドレスを着せてもらえたのが嬉しくて、中庭をはしゃいで走り回っていた時。
既に小姓として出仕していたディーガル兄弟を相手に、ネウラや父、ゼノス神官らが見守る前で、追いかけっこをしていた少女を笑う小さな小さな声が聞こえた。それまで聞いた事もない程温かみのない、軋るような笑い声に怖気づいたスピカは、思わずネウラの下に駆け戻るとそのスカートにしがみついた。
「まぁま、どうされました?」
暖かく笑いながら優しく抱き止めてくれたネウラに、スピカは必死で今感じた違和感という恐怖を訴えた。
「ネウラ、ネウラ、変な笑い声がするの! ギシシって、すっごく嫌な声なの!」
思わずネウラと顔を見合わせたパロス卿は、顎をなでながら首を傾げた。
「さて、私達には聞こえなかったが…。エルト! レオン!」
「はい!」
パロス卿に呼ばれた兄弟が弾かれたように駆け戻ってきた。そして主の前でぴたりと二人並んで立つ。
「お前達は何か聞いたか?」
「は、いえ…」
兄弟は思わず互いに顔を見合わせ、次いで兄が代わってハキハキと答える。
「いえ、自分達は何も聞いておりません!」
「嘘じゃないもん!」
スピカは、ネウラのスカートをしっかり握ったまま父を見上げた。
「厩のネズミみたいに嫌な声だったもの! 嘘じゃないわ、お父様!」
けれど皆は途方に暮れた顔をするばかりで、スピカは急に自信を失くした。お化けみたいなとても嫌な感じがしたのに。でももう何も聞こえないし、皆も聞いていないって言うし、違ったのかしら。確かに聞こえたと思ったのに…。少女は、所在なく乳母のスカートに顔を埋めた。
それから六年が経ち、その時の事など綺麗に忘れてしまった頃。ぐっすりと寝入っていたスピカは、ふと、やんわりと寝台に圧し付けられているような息苦しさを覚えて目を覚ました。何だかそこここで、こそこそと囁き合っている声らしきものも聞こえる。
「誰…?」
寝ぼけ眼でころりと寝返りを打ち、天蓋を見上げた時、スピカの眠気は一瞬で消し飛んだ。
「ぃ、ひッ…!」
悲鳴が喉に詰まった。吸気ですら喉に張りつくような、粘っこい負の空間――。幼いと言えども、いやだからこそか、スピカは今寝台の周囲が常に非ざるものに変化している事を悟った。だがそれよりも。
巨大な眼が一つ、上にあった。
ほのかに自ら発光しているその眼が実体でない事は、その向こうに見慣れた絹の垂れ天蓋が透けて見えるので判る。しかしスピカは、横長の瞳孔をした一つ眼のぬっとりとした視線に絡め取られて指一本動かせなかった。目を反らす事さえできず、どっと吹き出た冷たい汗で寝着が湿り気を帯びていく。寒いはずがないのに、体が何かの発作のようにガクガクと震えるのをどこか他人事のように感じながら、スピカは隣室にいるはずのネウラの名を声にならない声で必死で叫んだ。
――まだ…。
地の底から湧き上がってくるような鈍い響きが、少女の頭に直接割り込む。
――まだ、早い…。
何が、と思った。何が早いって言うの?
その問いに対する答えは、周囲の空気を引っかくような囁き声達が示した。
……六の六、六の六だよ…。あと一つ、あと一つ…。…六の六の六、六の六の六だ。あと一つ、あとたった一つ…。
〝ガラスを爪で引っかいているみたい〟
直に神経に障るようなキイキイ、キシキシという声――だが本当に『声』なのか? ――には、でもどこかで聞き覚えがあるような…。
…六の六、六の六の六…。
〝六歳の誕生日!〟
些細な聞き間違いだった。少なくとも、そう思って忘れていた。異常な恐怖の鉤爪は、忘れ切っていたはずの同種の恐怖を引きずり出すのだろうか。より鮮明に磨き上げるのだろうか。そう、あの時。『声』は「あと二つ」と、笑ったのだ。そして「六の六の六」――。
スピカの全身が総毛立った。目を動かす事さえできないのに、自分の周り中にあの嫌な声を出す何かがひしめいているのが判る。そして、それらが舌なめずりしているのも、何故か我慢しているのも判った。でも。
〝食べられちゃう!〟
現実という手ごたえをかろうじて所々かすめる程度の空虚な思考の回転の中で、スピカははっきりと悟った。
〝私、あと六年したら…、一八歳になったら食べられちゃうんだわ!〟
それがどうしてなのか、そして何故そう確信したのかなんて判らない。けれど、少女はその時、理性ではなく本能で自分の運命を感じ取ったのだ。自分が、二度と光の望めぬ深淵に引きずり込まれる未来を。
――まだ…早い。
一つ眼がまた、独り言のように呟いた。周囲の何か達も耳障りな唱和を繰り返す。
…まだ早い、まだ早い…あと一つ、あと一つ…。
気の遠くなる程長く、重く感じた数分が過ぎた頃、一つ眼はゆらりと揺らいでかき消えた。次いで周囲からも妖しい気配が薄れていき、ようやく初秋夜半の涼やかな空気に戻る。そして、一つ眼が現れた辺りから痙攣めいた引きつけを起こしていた少女の喉は、やっと何憚る事なく幼い絶叫をほとばしらせた。
それ以来、スピカの首からゼノス神官の手によるお守りが外れる事はなく、館の周囲には厳重な結界が張り巡らされた。同時に、この異常な出来事に対する調査も秘密裏に進められ、ゼノス神官はついに突き止めた驚くべき結論に凍りついたとパロス卿に語ったという。スピカはその時既に一六歳になっており、内々にヴォウジェ家に輿入れする事が決まっていた。だからといって断るに妥当な理由もなく――第一、言えるはずがない――、パロス卿はゼノス神官との相談の末、スピカにすべてを語った。
代々パロス家の直系の娘達は輿入れが決まると、清めの儀式を受けるために北の大神殿への参詣を行ってきた。それは既に慣例という名の形骸化された儀式に過ぎなくなっていたのだが、これには重大な理由が隠されていたのだ。
ペイダリオン国でも屈指の古い家系であるパロス家はむしろ男系であったが、それでも分家の娘を養女に迎える事も度々あったため、儀式そのものはそうして受け継がれてはきた。しかしその意味を記憶している者が次第にいなくなり、儀式は単なる縁起担ぎとすら思われてきたのだ。スピカが約百年振りの直系の女子とあれば無理からぬ事ではある。そもそもの始まりは、パロス家初代の娘であった。彼女は才智に富んだ美姫と名高く、求婚者が引きも切らなかったのだが、婚礼前夜忽然と姿を消した。それも、ずたずたに引き裂かれた婚礼衣装と片方の靴だけを残して。必死の捜索にもかかわらずその行方は杳として知れなかったという。そして、同様の失踪が二度、三度と続くうちに――厳重な警備をしていたのに、である――、そしてそばに付いていた者の無残な亡骸を目にして、遺された者達はこの異常な出来事は人知の及ぶところではないとついに認め、北の大神殿へ助けを乞うたのである。神官長に任命されて調査に来た神官はまず、家系図を調べ上げて三人の娘達に何か共通点らしきものがあるかどうか、突き止められるかどうかに取り掛かった。彼が遺した記録によれば、娘達は全員直系の女子であり、一八になるかならないの年頃であった。そして何より、ごくごくたまに周囲で奇妙な事が起きたという。彼女達を見て動物が怯えた素振りを見せたり、誰もいないはずの部屋の物が落ちていたりといった具合である。とはいえ悪評が立つ程ではなく、しかも一人一人を別々に見ていれば当時の人々のように大した事ではないと軽んじていただろう。しかし消えた三人が三人ともとなれば話は違ってくる。そして神官は、長い時間を費やして、ついに一つの結論に達した。彼女達は何か異形のもの共に連れ去られたのだ、と。彼は自らの魂と引き換えに契約を交わした邪鬼から得た真実をすべて、事細かく記した後息絶えた。その記録は年月とともに書庫の隅に追いやられ埃を被り、虫やカビに蝕まれてはいたものの、大意を読み取る事はできた。
「――それによると、パロス家の女子は魔に何か力を与える存在なのだそうです。一八を迎えるその時が最も強く大きく、だから彼らはその娘が一八になるまで待つのだ、と」
六の六の六。一二歳のあの夜の怯えた直感は、望みもしないのに正鵠を射ていた。邪鬼は刹那の生き物だ、理屈や筋道だった話なぞ、その概念すら受け付けない。それでも辛抱強く話を訊き出した神官は、パロス家の女子を手に入れた魔物が強大な力を得るのを知り、その存在を『鍵』と名づけた。破滅への扉を開けるであろう、『鍵』、と。
「――そういう事か」
〈オクルス〉がぽつりと呟いた。じゃらり、と〈オクルス〉を縛る鎖が億劫そうに鳴る。〈オクルス〉は、軽く上向くようにして穀物袋に頭をもたれさせた。体のだるさはかなり治まってきていた。だが逆に、状況は余計に悪い方へと変化している。それも、崖から落っこちていくような急速さで、だ。大神殿に足を踏み入れた時から感じていた焦燥感は、「聖域」だからというばかりではなさそうだ、と〈オクルス〉は目を閉じる。少女が本当にその『鍵』ならば、彼女を狙って大物――しかも奴らが浮き足立つような――が既にそばにいるのかもしれない。神官や神官見習いにでも化けて…?
不意にがばっと上体を起こした〈オクルス〉に、スピカとラウルスが驚いたように顔を上げる。が、構わず、〈オクルス〉はスピカがここに来て初めて彼女を正面から見据えた。
「儀式は今日から三日後だったな?」
「え、ええ。それが何か?」
〈オクルス〉は答えずに、思案顔になる。
「ぎりぎり、いや丁度か…」
「大丈夫よ、ローラ。誕生日までにはまだ半月近くあるんだし…。十分に間に合うわ」
「いや」
〈オクルス〉の、冷静な否定の言葉に、スピカの笑顔が頼りなげに消えていく。しかし〈オクルス〉は、それでも少女に真実を告げた。
「あんたの話が本当なら、連中はわざわざ誕生日をその日と決めはしない。六の六の六、つまり数えで一八でもいいんだ。おそらくその日は誕生日に一番近い新月の夜だ」
ラウルスが「あ!」と声を上げた。〈オクルス〉は顔を、口元を覆うラウルスに向け、大きく頷いた。
「そう。三日後の夜だ」




